どこか違和感がある
そういう人っていませんか
ボク の場合、そんな中のひとりに、スタジオ・ジブリで
お馴染みの宮崎駿 監督がいました。
その人物や人柄のなんたるかを知っているわけではなく、
どこがキライだとか、顔を見るのもイヤだとか、そういうもの
が特段にあるわけでもなんでもないのですが …
これはもう、直感ですからどうしようもありませんね。
ただ、これはあくまで ボク の目から見てのことですが、
同様の違和感というか、不信感が払拭できずに信頼をする
に足る人物とは思えないのが、まことにもって失礼ながら、
チベット仏教の至宝とされるダライラマ14世その人
もそうなのです。
さらに言ってしまえば、最近話題の人たちから抜粋すると
辛坊治郎、尾木直樹、山本太郎(いずれも敬称略)なども、
どこか裏表があるようで、ピントが合わないというか、輪郭
がボケて見えるというか、イメージがクリアになってこない
のです。
プロ野球界で言えば、星野仙一、東尾修、江川卓などが
ピックアップされます。
はてさて、野球界では投手出身者ばかりですね
繰り返しますが、決してキライというのではありません。
いけ好かないというよりも、シックリと来ないのです。
大抵の場合にこれらの感情はファースト・インプレッション
(第一印象)で決まってしまいます
逆を言えば、個性的で何か他の人が持ってないものを
持っていると感じているからこそなのかもしれませんが …
そして、その後は余程のことがない限り、堅固で強固な
感情となって心のなかに定着してしまいます。
こうしたことが、巷間よく言われる 「生理的に合わない」
人たちということになるのでしょうか
そんな終生変わることがないくらいに堅牢に固められた
恒常的 な 違和感 と 生理的 な 嫌悪感 と
いうよりも ミスマッチ が少しだけ解(ほぐ)されること
になったのです。
そのキッカケとなったのは、8月26日 午後10時からNHK
で放送された プロフェッショナル-仕事の流儀-
特別編 『風立ちぬ』 宮崎駿 知られざる舞台裏
、新作誕生までの1000日の記録を何気なくみていたときの
ことでした。
映画監督である宮崎駿氏の「仕事の流儀」に迫るもので、
5年ぶりの新作『風立ちぬ』の企画から映画として誕生する
瞬間までの、およそ3年にわたって取材した様子がさまざま
な角度から紹介されていました。
そもそも宮崎駿監督に違和感や胡散臭さを感じた原点は
『風の谷のナウシカ』に出現した王蟲(オーム)を
見たときにはじまります。
続く、『天空の城ラピュタ』を経て 『となりのトトロ』
、『魔女の宅急便』 で胡散臭さと違和感が醸成され
、『もののけ姫』、『千と千尋の神隠し』 の
カオナシの登場でそれは決定的なものとなりました。
宮崎駿監督の長編アニメ作品はこの他にも、『紅の豚』 や
『ハウルの動く城』 や 『崖の上のポニョ』 などがありますが
、他のジブリの作品と比較すれば、ボク の言わんとする
意味が少しはわかってもらえるのではないでしょうか

たとえば、
『火垂るの墓』、『おもひでぽろぽろ』、『平成狸合戦ぽん
ぽこ』、『ホーホケキョ となりの山田くん』 などは、高畑勲
監督の作品です。
『猫の恩返し』は森田宏幸氏、『ゲド戦記』は宮崎吾朗氏、
『借りぐらしのアリエッティ』は米林宏昌氏がそれぞれ監督
を務めています。
代表的な『となりのトトロ』や『もののけ姫』
にしても奇怪で不思議な生き物たちが登場してきます。
それは他の宮崎作品でも同じで、感性の異なる視点から
見るとおどろおどろしいばかりです。
ファンタジーに中に垣間見える奇怪さと底知れぬ不気味
さ、得体の知れない物の怪(もののけ)が跋扈する異常な
世界なのに、子どもたちは嬉々として魅入っているです。
おそらく子どもたちにはその異様さは理解できません。
それが宮崎映画の作り込みの最大の特徴 だろうと看破
されればそれっきりですが、ボク にはどうしてもそれだけ
ではないような気がしてならなかったのです。
ところが、
前述したNHKの番組で、自らが得意とするファンタジー
を封印し、リアリズムへと舵をきった新作『風立ちぬ』
で宮崎氏は大きな賭けに出たわけです。
主人公はゼロ戦 を設計した堀越二郎で、彼が生きた
大正から昭和にかけての激動の時代を描いています。
もちろん、イメージの世界からなるファンタジーとは違って
実在の人物を描くわけで、戦争という重い命題とも真正面
から向き合うことになるわけです。
そこに子供だましの要素や奇抜なテクニックが入り込む
余地はありません。
しかも大人の鑑賞に堪えうるもので、かつ、子どもたちに
も十分に理解できるものに仕上げなくてはならないわけで、
完成試写会で彼がみせた涙にはそれ相応の重みと苦労の
あとを感じさせるものでした。
作品を観ていないので、その出来映えについてのコメント
は、なんとも申し上げられませんが、堅牢で頑強に構築され
ていた宮崎氏への印象が一時的にせよ解(ほぐ)されたこと
は紛れもない事実です。
ところで、いきなり話は変わりますが …
韓国の朴槿恵(パククネ)大統領は昨日(8月28日)、日本
との関係について「一部の日本の政治家による歴史に逆行
する言動で韓日間の対立が続いており残念だ」 と述べて、
日本側が歴史問題での姿勢を変えるようにあらためて求め
ました。
在日本大韓民国民団(民団)の代表団と会った席で述べ
たものですが、些(いささ)か疑義のある内容であり、看過
できない発言ですが、民団側がヘイトスピーチ(憎悪発言)
を伴う日本でのデモで在日韓国人が苦境にあると訴えた
のに対して朴槿恵氏は 「正当化できない行動で日本政府
に解決を求めている」 と述べたそうです。
日韓両国の対立が続くなかで、本気で関係改善を望んで
いるのならば、相手がどうであれ、取るべき態度や姿勢は
自ずと違ってくるはずだと思うのですが …
さて、
それはそれとして、ヘイトスピーチ は日本人には
似合いません。
「プチ国粋主義的な若者が多くなり、外国人を排斥する
言動が増えてきた」 とする報道に接するたびに悲しく残念
な気持ちでいっぱいになります。
「やられたらやり返す

倍返しだ。 いや、10倍返しだ !!」
ドラマ 『半沢直樹』の話題で喧(かまびす)しい昨今
ですが、それはフィクションの世界でのこと …
報復の応酬や連鎖の繰り返しではいつまで経っても信頼
関係は築かれずに共栄共存も危うく難しいものとなります。
日本人に限りませんが、自国内にいると、少数の外国人
に差異を感じて「自国民意識」が芽生え優越感から排他的
になりがちで、ここに誤ったプチ国粋主義的な感情が育つ
素地が出来上がります。
まったく逆の意味で国粋的な感覚を得るものに、外国に
暮らす日本人たちがいると思います。
彼らは、外国に住んでいるからこそ余計に「日本人」
を意識し自覚するのだろうと想像するのは容易ですが、
ならば、日本国内にいる外国人が自国を思い祖国に誇り
を持つ気持ちも理解できると思います。

在外日本人と在日外国人とは「鏡合わせ」の関係です。
もちろん、他の在日外国人と比較して在日朝鮮・韓国人
は事情が複雑で異質ではありますが、根っこの部分では
大きく違うものではないでしょう。
しかるに、
在日コリアンが多く住む東京の新大久保や大阪の鶴橋
地区では「在日朝鮮・韓国人をたたき出せ」、「寄生虫だ」
などと激しい言葉を放つデモが相次いでいます。
デモを呼びかけているのは「在日特権を許さない市民の
会(在特会)」などで、在日コリアンを「戦時中の強制連行
や強制労働の被害者ではなく、ほとんどが、ただの出稼ぎ
労働者とその子孫」であると強調し、特別永住資格などの
「特権」を享受しているとして「日本社会の脅威」
だと訴えているわけです。
「強制連行」や「強制労働」の被害者ではない
ことはまず間違いないでしょう。
だからと言って「日本社会の脅威」となるでは、いかにも
ケツの穴 が小さすぎます。
事実は事実として理解し許容すべき点は認めるとしても
相手が相手だけに「多少なりとも過激でなければ注目され
ないわけで、ヘイトスピーチもやむなし」 とする意見も多々
聞かれますが、やはり日本人的ではないでしょう。
おそらく、
いまの若者たちの多くは閉塞感に苛(さいな)まれていて、
ネット上の情報をコピペして拡散しただけの薄っぺらな思想
をもとに、その鬱憤晴らしとしてデモ参加しているだけのこと
で、ただ騒ぎ叫んでいる一種の 「お祭り」 か、あるいは
左翼的な言説 に反発と矛盾を覚えて、行き場のない
怒りの矛先をそこにぶつけてきているだけの現象でしょう。
これでは中国や韓国の現状と大差のないなんとも民度の
低い国になってしまいます。
ヘイトな気分や気持が芽生える実情を甘んじて
受け入れるとしても、チープな心は捨て去りましょう。
兎にも角にも …
まずは、知ることから始まり、そのうえでの判断はどうで
あれ尊重されるのが透明人間たちの仁義です。
『仁義なき戦い』 は御免です。
記事の前半にて、なにやら名前を連ねた皆々様方および
関係各位様にお願い申し上げます。
何の他意も御座いませんので、ご容赦いただきますよう
透明人間一同より重ねてお願い申し上げます