“ヒトラーの予言”と称する怪しげな言説類などを
まとめあげた五島勉 著の『1999年以後』で紹介され
ていた三島由紀夫へのインタビューのなかで、五島勉氏が
同氏より授けられたというオカルトまがいの妖しい内容も、
それが、「ヒトラーについて」 のことだけならば、
同氏(三島由紀夫)に 『わが友ヒットラー』 という
作品があるわけですから、そんなこともあるのかも …
と、思えないこともないのですが …

スピリチュアルでオカルトチックなトンデモ系のSFもどき
のネタを話題にするとなると、あの三島由紀夫がねぇ~と、
思わず首を傾げてしまうのです

ところが、実際は、
そうとばかりも言えないようで …
「“偶然”という言葉は人間が自分の無知を糊塗しよう
として、もっともらしく見せかけるために作った言葉だよ。
“偶然”とは、人間どもの理解をこえた高い“必然”
が、ふだんは厚いマントに身を隠しているのに、ちらとその
素肌の一部をのぞかせてしまった現象なのだ・・・」
「宗教家が“神秘”と呼び、科学者が“偶然”と呼ぶ
もの、そこにこそ真の“必然”が隠されているのだが、
天はこれを人間どもに、いかにも取るに足らぬもののよう
に見せかけるために、悪戯っぽい、不まじめな『方法』で
ちらつかせるにすぎない」
そう話すのは、金星人の霊魂が地球に住む一家に、
憑依(それこそ偶然ではなく必然として宿ったのだろうけど)
したという設定の三島由紀夫による小説 『美しい星』
のなかで宇宙人家族の父が息子に語りかけるセリフです。
およそ三島らしからぬ「SF」にして、しかも金星人やら
火星人やら霊魂にUFO(空飛ぶ円盤) … お決まりの登場
人物に舞台装置となると、どうみてもB級のオカルト作品か
と思いきや、日常のなかの非現実という奇妙な時間と空間
を切り取った純文学作品らしいのです。
“らしい”というのは、書評的な解説文によるもので、
ボク自身はこの作品を読んではいないからですが、
それにしても、作家という人種はどうして揃いもそろって
こうも持ってまわったような言い回しを好むのでしょうか
しかも
三島は、このセリフで見事に「偶然と必然」とを
峻別し、さらに合一させるというはなれ業(言い当てること)
をして見せたわけで …
これが天才というものであり、ひとえに文章を書くのは
才能なんだと、あらためて納得させられた次第ですが、
この場合でいう悪戯っぽい、不まじめな『方法』 とは、
いわゆる“奇蹟”を指して言っているのでしょうか
少なくとも、
理解を超えた“必然”は、人間の目には“偶然”と
しか見えないということでしょうか
それとも、「偶然など存在しない」
神がかったありえない現象のすべてが“偶然”ではなく
“必然”なのだと …
ならば、なおさらに
この世界に存在するものすべては“偶然”の産物など
ではなく、それぞれ目的をもって生み出されてきたはずで、
ボクの存在自体も“必然”ということになります。
もちろん、1号さんも2号さんも、読者のみなさんも …
と言うことは、
天地創造を目的に、神の一撃(ビッグバン)とやらで
宇宙が始まったのならば、天開地闢

以来の出来事の必然性を否定することはできませんが、
自然科学の世界では必然はなく、すべては偶然が
支配するというまったく逆の結論になっているようです。
要するにハイゼンベルクの『不確定性原理』です
が、量子論(ミクロの世界=原子レベル)では物体(電子)
の「位置と運動量を同時に測定することはできない」という
ことのようです。
原子モデルは高校の物理の時間に習ったように、原子核
の周囲を電子がぐるぐると回っている様子が描かれた絵で
説明されますが、この時の電子の動きを観察するとします。
電子は原子核の周りを回っているので、ある瞬間の電子
の「位置」と「運動量」は、運動量(p)=質量(m)×速度(v)
から求められるはずですが、不確定性原理によれば、
電子の位置を測定するとその影響で電子の状態が乱され
て運動量が正確に測定できず、運動量を測定すれば、その
逆もまた真なりで位置が正確に測定できないのだそうです。
ただ皆目もわからずに見当もつかないということではなく、
その値が現実となる確率ならば分かるようで、電子がある
位置にいる確率は何%、この位置なら何%という具合に …
電子はここにいるだろうが、その確率は90%だから絶対
とは言えないということで、ミクロの世界では「必然」は
なく、「確率

実体がそこにあるのに、「位置」と「運動量」を同時に測定
できないなんて、お化けや幽霊でもあるまいに … とも思う
のですが、これが通用するのは あくまでも原子レベルでの
話であって、ボクたちが普通に観察できる世界での常識
ではありません
要は、
電子は原子核の周りにまんべんなく、もわーっとした雲の
ように存在しているらしいのです。
だからこそ、
別の意味で「シュレーディンガーの猫」という
量子力学の問題点を突く思考実験(パラドックスの発生)
が提唱されたわけですが …
えっ、「何だか、意味がよくわからん」ですって

正直、書いているボクも訳がわからなくなってきたので
馬脚をあらわす前にまとめたいのですが …

つまり、そのぉ~
量子論では、この世の出来事は人間はおろか神ですら
予測できないという結論であり、この「偶然の支配」
は生物学では『種の起源』

の「進化論」につながるわけです
言わば、
「人間は偶然の産物であって、
あらかじめ設計されたものではない」
とする一方で、アインシュタイン博士のように
「神はサイコロを振らない」として幾何学の
ような美しい理論(方程式)を好み、宇宙の設計者にして、
創造主たるインテリジェント・デザイナーに対し、畏敬の念
を抱いていたと言われています。
果たして、
「この世界は偶然の産物か、
それとも必然の結果なのか」
つまり、進化なのか、創造なのか
ああ、ますます深みにはまって溺れそうです

一般的には、宗教関係者は「必然」を、科学者たちは
「偶然」を主張することが多く、科学者たちが「必然」
を敬遠するのは、「必然」の根源となる宇宙の創造主
(設計者)の存在を証明する必要に迫られるからです。
もし、世界が「偶然の産物」ならば、面倒な証明を
省いて、すべて確立で説明づければ済むのですから …
しかし、
ボクには「偶然」も「必然」も眼中にありません。
あるのは、オチ をどうするか、だけなのです

エントリーのアイデアに詰まって、またしても2号さんの
『ヒトラーの予言と福音書』の中からヒントを
いただきました
つまるところ、
これも「偶然」ではなく、「必然」だったので、
泥棒と呼ばれてもボクの所為ではありません
「偶然は必然のなせる業」ということで
2号さん、どうかあしからず !!