ひとつに秋がありますが、きょうはそうもいきませんでした。
暴風雨のなかの出勤が決まっていたからです
傘など何の役にも立たない横殴りの雨が、水平というより
ライズボール(打者の手元で浮き上がってくるソフトボール
の変化球)のように下から上へ強烈に叩きつけてくるので、
まったく用をなさなくなった傘をすっかり諦めて、びしょ濡れ
のままに事務所に入りました。
今年、最強クラスとされる非常に強い台風18号は、本日
(10月6日)午前8時すぎに浜松付近に上陸しました
その後、北東からやや東寄りに進路を変更した台風は、
掛川市を通過して、現在(午前10時2分すぎ)その中心は
沼津市にあるボクらの事務所の真上を通過中です。
台風の目に入る経験は初めてではないけど、それにして
も不気味なほどの静けさです。
明るい日差しが差し込み生温かい空気が漂っています。
つい先刻まで、怒りの塊のように荒れ狂っていた嵐が …
まるで借りてきた猫や内気な少女のように押し黙ったまま
で、無風にして音もない空間をつくっているのです。
目を抜けたら、また吹き戻しの風と雨に悩まされるのかと
戦々恐々としていたら、10時50分になる頃から多少の風が
吹いてきたものの晴れ間は変わらずに続き、正午を過ぎた
頃からは、時折、風がうなりをあげて吹き返してくるだけで、
雨粒は一滴も落ちてきませんでした。
沼津を通過した頃から北東に進路を戻した台風は、速度
を毎時65キロに上げて首都圏を目指し去っていきました。
スイッチ・オン状態の1号さんの怒涛の怒りに
比べたら、想像していたよりも大したことはなかったとホッと
胸を撫で下ろしていたのですが …
沼津を流れる狩野川が溢れ出し、あちこちの道路で冠水
が発生しているとか、静岡市清水区由比では土砂崩れが
起こって、コンクリートの防護壁を突き破った土砂と木々が
東海道線の線路を覆い尽くしていたりと、深刻な被害状況
を知るにつれ安易に楽観した己の無知を恥じるのでした。
「知る」ということには、その情報の量と時間的な限界
があるのだとあらためて痛感すると同時に、もし知っていた
ならば、わかっていたならば、ああしただろう、こうしただろう
と「後悔」をするというほどではないにしても、いくつかの
シチュエーションで唇をかむようなことはないのだろうと思う
と、より多くの情報をより早く知りたいという人並みの欲求に
やはりボクも駆られてしまうのです
「後悔」といえば、
昨日の静岡新聞に載っていた『生きる意味 109』
(長南瑞生 著)という新刊本の広告記事にある
「仏教を学びたかった …」 と日記に綴ったと
される20世紀最大の哲学者 「ハイデガーの後悔」
についての疑問です
ハイデッガーの『存在と時間』の難解さは、ニーチェ
のそれに匹敵する舌の巻きようですが …
この場合の仏教とは、道元の『正法眼蔵』だったり、
親鸞の『歎異抄』なんかを指しているようなのです。
ただ、
疑り深いボクとしては、それが本当のことなのかと思い
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
で調べてみると …
道元については、『日本人の正しい食事―現代に生きる
石塚左玄の食養・食育論』(沼田勇、農山漁村文化協会)と
いう本に、ハイデルベルク大学のヤスペルス(ヤスパース)
教授が日本人の僧侶に対して『存在と時間』が道元
の『正法眼蔵』から着想を得たものだと語ったとする
記述があるそうですが、これは個人の伝聞のそのまた伝聞
なので出典先としては極めて信頼性に欠けるものです
親鸞の『歎異抄』については、中外日報の昭和38年
8月6日付の1面にハイデガーの晩年の日記と
して、次のように紹介されています。
「今日、英訳を通じてはじめて東洋の聖者親鸞の歎異抄
を読んだ。弥陀の五劫思惟の願を案ずるにひとえに親鸞
一人がためなりけりとは、何と透徹した態度だろう。
もし十年前にこんな素晴らしい聖者が東洋にあったことを
知ったら、自分はギリシャ・ラテン語の勉強もしなかった。
日本語を学び聖者の話を聞いて、世界中にひろめること
を生きがいにしたであろう」
― 後略 ―
結局のところ、
「遅かった」と後悔しているというものですが …
この日記の内容もソースが「中外日報」以外には明記され
ていませんし、「中外日報」の当該記事にも出典が記されて
いないので、その信憑性もさることながら記事自体の信頼
が足るものであるとは、到底、言えないのです
その他では、1920年代から仏教などの東洋哲学と出会い
学び始めた。 特に道元の『正法眼蔵』の有事(うじ)
の巻には、大変驚いている。
「いはゆる有事は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり」
など、「存在と時間」は分けられないことが説かれ、主著の
『存在と時間』(Sein und Zeit)は直訳すると
「有」と「時」ですが、『存在と時間』の哲学が
すでに遠い昔に明らかにされていることに驚嘆したとされ
ていますが、果たしてどうなのでしょう
先頃(2014年8月16日)、肺炎のために死去された日本に
おけるハイデッガー研究の第一人者として知られる哲学者
で中央大学名誉教授の木田元氏は、日本および東洋的な
存在概念とハイデッガーが参照するギリシャ人の存在概念
の近似性を説いていたと思われますが、道元や親鸞による
ハイデッガーへの影響などという点については一切触れて
いないようなのです。
『生きる意味 109』のなかで、いかにもそれらしく
記述されてはいても虚偽の臭いが漂うのは、2号さんが
エントリーした『アインシュタインの予言』 と
同類のものなのかもしれません
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/320.html(参照)
もう、すでにお気づきでしょうが、
文中において「ハイデッガー」と「ハイデガー」が混在して
いますが、「ハイデッガー」と表記している場合には個人的
な意見や主張であって、「ハイデガー」は参照なり引用なり
した場合の表記として分けてみました。
ちなみに、「ハイデガー」の方がドイツ語の発音により近く
グーグルでも「ハイデガー」を2倍以上の差(14000対6000)
で支持しているようです。
ボクは、学校で「ハイデッガー」と習ったので、そのまま
踏襲していますが、ちっちゃい「ッ」が入る方がどこかしら
カッコイイような気がするのです。
マックイーンとか、マッキントッシュとか、マッカートニー
とか、マッカーサーとか、マッキーバーとか …
さて、今回は、
かなり背伸びしてアカデミックに迫ってみましたが
カッコイイつもりでもマック並みのファーストフード
では、メイン・ディッシュにはなり得ません
「人間は、時間的な存在である」
ドイツの哲学者 マルティン・ハイデッガーの言葉です。
時間的な意味と存在が随分と違うような気がしますが、
短時間での付け焼き刃では、こんなもんでしょう
では、そう言ったところで、
ハイデッガー(さいでっか)、ほな、サイナラ
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