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バリシニコフのすべて

2008年09月12日 | LD

1982年 製作 ドキュメンタリー
1983年 アメリカ TV放映
(LDソフト国内版より)81分
ナレーション シャーリー・マクレーン

「The Dancer and the Dance」

ミーシャの魅力を探るため直接話を聞き、
新作にかける彼の姿を追ってみました。

アメリカン・バレエ・シアター(ABT)の芸術監督に就任した
彼の新作「コンフィギュレイションズ」は
私には思い出深い。
ワシントンバレエ団の若手振付家
チュー・サン・ゴーに委嘱した作品です。

Part One THE DANCER

ミーシャは毎日欠かさず数時間
新旧の作品のステップを練習します。
彼のテクニックは完璧です。
柔軟で伸びやかな身体
理想的に訓練されたライン
スピードと正確さ
彼に毎日の練習を習慣づけたのは、
恩師アレクサンダー・プーシキンでした。
本格的レッスンを故郷のラトヴィアで、11歳の時に始めました。
15歳でレニングラードに出て、
有名なプーシキン先生に紹介されました。

ダンサーになれたのは先生のおかげです。

先生はごく普通の人で、物静かな父親みたいな存在でした。
先生のクラスの生徒は7人から8人
学校では最高の権威者で、ソ連全土から最良の素材を選ぶ特権を持っていました。
ヌレエフをはじめ、彼の生徒は世界中で活躍しています。
僕は15歳でしたが、彼はジッと僕を見て言いました。
「では下の診療室に行ってキミがどんな人かキミの手足や頭の具合を見よう」
みんなにジロジロ見られステップをやらされ
まるでそれは子犬選びでした。
先生は何時間も僕を見つめたり話しかけたり、こんな小さい部屋で。
「踊りを見てください」と言うと
「いや必要ない」と先生
何が問題なの?お願い入学させて
人生の分かれ道で僕は汗ビッショリ
「よし」先生がやっと口を開いて
事務長みたいな女性に言いました。
「私のクラスに入れよう」
先生とは学校で3年、バレエ団で3年
亡くなる迄一緒でした。

1967年ミーシャはレニングラードのキーロフ・バレエ団に入団。

プーシキンのバレエ学校は帝政時代の教授法を守っていました。

ミーシャが学んだのは、テクニックだけではありません。
彼は一番大切なことを教えてくれました。
毎日の訓練を尊重する態度です。
ひどく退屈な日課ですが、身体は毎日変化しています。
カゼをひいたり背中が痛かったり、
ただ寝ていたい時もある。
でもレッスンに行き、この仕事が好きだと自分に言いきかせる。
それが習慣になるとひと汗かくのをさぼった時は、
自己嫌悪に陥るようになるのです。
これが先生が教えてくれた。
プロとしてやっていく秘訣でした。
問題は自分を克服すること。
バレエは別にしても彼は天才でした。
良し悪しを見抜く眼が光ってました。

1969年ミーシャは注目の的になりました。
21歳でモスクワ国際コンクールの金賞に輝いたのです。
今や彼はスターでした。
しかしキーロフのレパートリーはすぐに窮屈となりました。
スターでさえいつも同じ役を踊らされ
冒険は許されませんでした。
1961年ヌレエフがロシアを離れ
1970年マカロワも亡命
1974年ミーシャが彼らに倣いました。

ミーシャはカナダ公演中に西側に留まる決心をします。
亡命直後のカナダでの記者会見(1974年7月10日)


本拠地に選んだのはニューヨーク

アントワネット・シブレイのコメント(ロイヤル・バレエのプリンシパル)
ミーシャの印象はまさに
これがバレエだ。そして刺激的。
信じがたいテクニック。
スッと跳んで地上でやる技を
彼は空中で凄いステップを踊る人。
今まで見たこともない素晴らしいステップ。
楽しげに振る舞っても笑いの奥に悲しい顔が覗いているわ。

1980年9月彼はABTの芸術監督に就任しました。
彼はABT参加以来後進の育成にも努めてきました。
作品の性格を教えられるのと
彼らと一緒に踊れるからでしょう。
もっとも若手が多いバレエ団です。
朝10時から夜7時まで練習します。
ABTは、ニューヨークでのシーズンが終わると全米ツアーに出ます。
およそ36のレパートリーを携え
90名のダンサーが18週間旅を共にします。

彼がいるとみんな緊張して、時間の無駄がない。
これは重要です。

ミーシャは原則として自分で振付はしません。
自分が音楽と一体になってしまい。
他人の動きはなかなか想像出来ない。

チュー・サン・ゴーはミーシャが最初に作品を依頼した振付家です。


Part Two THE DANCE

女性4名を含む13人のダンサーの為の作品
プリマのマリアナはたびたびミーシャのパートナーを務めます。
初日まで あと3日追い込みです。
総稽古の段階で事故が起こりました。
ミーシャが足首を痛めて、医者の許可が出るまで踊れないのです。
6週間の稽古にもかかわらず出来上がっていない部分があります。

Part Three THE PERFORMANCE


オーストラリアの公演で、
コーダのアントルシャの後グランフェテで左足をグイッとやっちゃった。
それからジャンプ、舞台を歩き回ってコーダが終わった。
パートナーはナターシャで
彼女のコーダの時初めて足を見たんだ。
何かおかしい。
彼女のコーダが終わると
左足でグラン・ピルエットなんだ。
右足でやった。
ピルエットのあと彼女のリフト
ラストポーズ 幕が下り気絶!
気がついたら楽屋で、靱帯が3カ所切れていた。
何週間も休んだ。


<コンフィギュレイションズ>
振付 チュー・サン・ゴー
音楽 サミュエル・バーバー

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