真・日本の国史を求め

我々が教えられた歴史、それは歪曲とねつ造のシロモノだとご存じですか。史実の探求で日本の精神を探究していけたらと願います。

日本の始まり〈 第七回〉

2020-05-24 13:53:00 | 日本史
日本の初めはいつでしょうか。

「天地の初めの時」と記紀に有りますが、物質宇宙の始まりは幾ら何でも遡り過ぎですね。138億年前と言われていますから。やはり精神宇宙の始まりの時が日本の始めでしょう。それは何年前か。はっきりとは分かりません。しかし例えば人類が地球上に誕生してから現在までの間で、日本人の記憶の限り遡れる時点、そこが日本の始まりの時と考えることは出来ないでしょうか。

日本にはいくつもの古い時代を記した書が有ります。記紀や各地の風土記そして万葉集などがそれらの編纂された時代より更に古い時代の記憶を書き記しているのです。例えば古事記にある大国主命と因幡の白兎のエピソードや天照大御神の孫の邇邇芸命の皇子の妃である豊玉毘売命の話では和邇(わに)が登場しています。日本に野生のワニはいないのに和邇と書かれています。



古事記から一旦離れ、人類の進化の過程を人類学っぽく整理してみようと思います。人類は昔からどの様に繋がって来ているのか図で見てみると、


大体こんな感じです。厳密には色々な説がありましょうが、これで見ると一番下の現世人類というのが我々ですね。我々は「ヒト属」であり、ヒト属には我々の他に原人、旧人と呼ばれる種もいました。彼らも人類ですが我々の種ではありません。一般的に有名なジャワ原人、北京原人、ネアンデルタール人やデニソワ人及び未知の人類がまだいるかもしれません。

ヒト属の上流は「ヒト亜族」と言い、ヒト亜族にはヒト属の他に猿人と呼ばれる「アウストラロピテクス属」と「パラントロプス属」があります。

ヒト亜族の上流は「ヒト族」ですが、ここはヒト亜族とチンパンジー亜族が別れた所ですので、ヒトの始まりを見るときにここまで遡らなくても良いでしょう。ヒト亜族以降で考えたいと思います。

「アフリカ単一起源説」という説が有ります。簡単に言うと、約20万年前迄にはアフリカで誕生していた現世人類ホモ-サピエンスが8~5万年前にアフリカ大陸からユーラシア大陸へ進出し世界中に広がりながら各地で遺伝的な変化(進化)を繰り返して今日の多様な人々になっていったというものです。(アフリカ大陸内で誕生したホモ-サピエンスが世界に広がった)

それとは別に「多地域進化説」と言うものがあって、これも東アフリカで200数十万年前にはホモ-ハビリス(図のヒト属の一番上)が誕生していたという考えはアフリカ単一起源説と同じなのですが、アフリカを出た時期がもっと早く、150万年前までにはユーラシア大陸に拡散して各地で並行的にそれぞれの原人や旧人からホモ-サピエンスが分岐し進化したというものです。(アフリカ大陸外へ出てからホモ-サピエンスが誕生した)

(上の図ではヒト属は同時期に個々の種に分岐したように画いていますが、詳しい各種間の系統や分岐時期等が分からないのでその様に画いているだけです)

ホモ-サピエンスがアフリカで誕生してから出アフリカを果たしたにせよ、出アフリカを果たした後に各地で(アフリカも含みます)ホモ-サピエンスへ進化したにせよ、同時期に地球上に存在していた複数の種が交雑(異種交配)していたことは遺伝情報から分かっているそうです。例えば我々ホモ-サピエンスのゲノム(全遺伝子情報)の2%前後はネアンデルタール人のもののようです。しかし現存している人類はホモ-サピエンスのみでその他の種は絶滅しています。

どちらの説をとっても元々はアフリカから広がっているのでユーラシア大陸を数万年かけて或いは数十万年かけて西から東へ移り日本へやって来たことでしょう。その間にも進化(遺伝子の変異)をなして更に枝分かれしていました。

人類の拡散経路

進化というより突然変異を想像する方が分かり易いかもしれませんね。あるグループに突然変異をした個体が誕生して、その個体の遺伝子を受け継いだ子孫が遺伝的に新しいグループになるのです。こういったグループをハプログループといいます。

日本の地で誕生したハプログループや、日本にだけ残されたハプログループなどがあって日本人の遺伝子は近縁のはずの他の東アジアの地域との違いが分子遺伝子学等によって顕著に示されてきています。

日本独特のハプログループの傾向は日本の歴史を通して様々な要因の影響を受けた結果です。その様々な要因は全て日本の地理(国土)に起因することでしょう。気候、食料供給、国民、国民性、社会、文化など全てが恵みある日本列島に育まれ発展し続けるこの国は神々に愛された楽園であり故に神国なのです。この神から預かった国土を一片たりとも譲ったり貸すようなことがあってはならないのですけれどね。

次に、考古学の側面から日本を含む東アジア及び世界の出土品を参考に日本の歴史を探ってみます。

縄文時代といえば誰もが聞いたことはあると思います。約16000±500年前~3000年前迄がその期間です。そして土器と弓矢の発明をもって縄文時代の始まりとしています。それ以前の時代を土器が作られる前の時代なので先土器時代や旧石器時代(日本に人類が暮らし始めてから縄文時代に移る迄)と呼ばれています。

日本に人類が暮らし始めたのはいつ頃なのでしょうか。先土器時代とは日本における縄文時代の前を指すのに対し、旧石器時代とは世界の考古年代での石器文化の時代区分を言います。日本の先土器時代は旧石器時代の中期及び後期(約30万年前~1万年前頃)に当たります。前期旧石器時代は最古の人類(ヒト属)の存在が石器によって確認されている260万年前~石器の作り方や使用方法に変化が見られる30万年前迄ですので、日本には未だアフリカから辿り着いていないと考えられますが、既に居たかもしれません。しかし既に日本に居た物的証拠が有りませんので居たとも未だ言えませんね。

現在日本列島(北海道から沖縄県)には旧石器時代から江戸時代までの遺跡が約46万ヵ所で発見されています。この中で旧石器時代のものは7565ヵ所、縄文時代のものは9万531ヶ所有ります。まだまだ増えるでしょうし世界最多でもあります。未知の事実が眠っているかもしれません。

人類の石器は大きく二つに区別できます。打製石器と磨製石器です。打製石器は石を割って出来た鋭利な部分を刃物として使用した石器で、時代を下る程に加工技術の進歩で小さい物も作られています。磨製石器は打製石器を更に滑らかにし意図する大きさや形に加工された革命的と言える道具です。

それぞれの石器の確認されている最も古い年代は、打製石器は260万年前、磨製石器では3万8千年前です。

最古の打製石器が見つかったのはタンザニア北部オルドヴァイ渓谷で、複数の石器を組み合わせた使用も観られるので人類の最古の物と見なされています。割られた石を単に使用していた痕跡はもっと古くにあるのですが、そういった石は意図的に割られたかどうかも分かりませんし、現在の猿にも観察できることなのです。

一方、世界最古の磨製石器が発見されたのは貫の木遺跡(長野県信濃町)、石の本遺跡(熊本市)など日本です。この年代の最初の発見が岩宿遺跡(群馬県笠懸村)であったことから3万8千年前から縄文時代の始まる1万6千年前迄を先土器時代と呼ばずに岩宿時代と呼ぶこともあります。日本の地で世界最古の磨製石器という革命的発展があった背景にはその比較的穏やかな気候による豊かな環境で食料確保の容易さがあるように考えます。食料調達に掛ける時間が省け、生活上の様々な活動に余裕を持てたのではないでしょうか。

磨製石器の出土は日本以外では古い順にオーストリアで2万5千年前、オーストラリアで2万2千年前、ロシアで2万年前、支那で1万4千年前の遺物が発見されています。これらは早い方で、世界では概ね1万年前辺りの遺跡に磨製石器が多く見られます。

ちなみに世界最古の釣り針はサキタリ洞遺跡(沖縄県南城市)の貝整の釣針です。

前回〈倭国 第六回〉で3万8千年前を日本の歴史の始まりとしましたが(それでもまだ謙虚に言ったつもりなんですよ)日本人の記憶はそんなものじゃないと考えています(個人的にですよ)

6~2.5万年前頃の日本列島

3万8千年前は磨製石器の最古ですが、打製石器の日本最古は12万年前の物で砂原遺跡(島根県出雲市)で見つかりました。ホモ-サピエンスのものでないかもしれませんし、定住者でなく獲物を追って移動しながら一時的に滞在していただけかもしれません。何とも言えないのが本当のところではないかと思います。

大陸と地続きであった日本列島には人類以前に動物が生息していたことは化石などが出土していますのでその発見された地層から年代を特定することができます。日本にいた哺乳類の化石で最も古い物は1億年以上前だそうです。人類は未だ居ませんから記憶も有りません。ならばいつ頃日本に人類が居たかを知る術として最も古い客観的記憶を古事記に記された和邇に結び付けられないでしょうか。日本列島で人類がワニと遭遇していても年代的に何ら不自然ではありません。兎は今もいますから物語に現れても自然ですものね。

さて、マチカネワニ(待兼鰐)と申します。東京オリンピックが行われた1964年、大阪大学豊中キャンパスがある待兼山丘陵の55万年前~35万年前と考えられる地層からほぼ完全な骨格化石で全長約7メートルの大型のワニが発掘されました。生息当時の環境は温暖湿潤気候で内陸部の沼地にマチカネワニはいたとされています。同時期の哺乳類にはトウヨウゾウ、シナサイ、オオツノジカ、オオカミやネズミの仲間等がいました。

現代の我々にはワニの現世種が熱帯から亜熱帯気候に生息域を持つことから日本での生息は考えにくく、日本にワニはいなかったと言わずもがなの常識だったのかもしれません。

(この発見も磨製石器の発見も民間のアマチュア考古学者さん達でした。凄いですね日本のアマチュアは。勿論、専門の調査が入って研究されました)

マチカネワニ出土地から東へちょうど7キロメートルの地点に日本万国博覧会EXPO’70のシンボル「太陽の塔」があります。岡本太郎さんは、侘び寂びを伝統とする日本美術を覆しそれまで無かった縄文のダイナミックで独創的なデザインを取り入れました。縄文時代の土器には機能性は勿論のことデザイン要素が加えられています。その理由はそこに呪術的意味があるからです。土器や土偶はただ使うものとしてだけでなく、美しく心溢れるものに仕上げられているのです。岡本太郎さんの言葉に「芸術は呪術だ」とあります。縄文土器が豊かな装飾が施されているのは生活の隅々に縄文人の思いが込められているからなのです。縄文は単なる時代というより文化または更に文明と言っても過言ではないのではありませんか。日本の源流は縄文にあり、縄文の源流は岩宿時代にあります。マチカネワニ出土地と岡本太郎さんの太陽の塔がある万博記念公園がすぐ近くというのは運命的にも感じます。



話をもとに戻しまして、これら動物を追って人類がその当時に日本へ渡ってきていても不自然ではないと思います。数十万年前の話です。

ホモ-サピエンスは他の人類と交雑(混血)していますし、原人や旧人はホモ-サピエンスより昔から世界中に暮らしていましたから、その頃の膨大な記憶は古事記が編纂された頃まで残っていたとすればどうでしょう。伝達手段が分かりませんが、例えば歌、画、踊り等、文字でない方が長く伝え残されることもあるでしょうから。

因幡の白兎は隠岐島から出雲国へ海を渡るために和邇を並ばせて背の上を跳びましたね。現代解釈訳された古事記ではワニでなくサメと置き換えてあります。ワニはいないと考えているか、マチカネワニのことを古事記が記すはずがないと考えているからでしょう。これは現代人の驕りと言えないでしょうか。昔より現代の方が博識であると。むしろ現代人の方が無知蒙昧でありましょう。

白兎の逸話も出雲、日本最古の打製石器が見つかったのも出雲。偶然かもしれませんけれど。また豊玉毘売命(トヨタマヒメノミコト)が鵜葺草葺不合命を生む場面で和邇に姿を変えています。
ちなみにマチカネワニの学名はToyotamaphimeia machikanensis
(トヨタマフィメイア マチカネンシス)
です。

またはこんなニュースも有りました。島根県隠岐の島で2千万年前の地層でワニの背骨の化石が見つかりマチカネワニの仲間と見ているそうです。

(古事記の和邇はマチカネワニかも。日本の人類はワニを見ていたかも。その記憶が伝えられていたと考えられなくもない)とは単に希望的観測に過ぎませんけれどね。次の見方がより自然かもしれません。

古事記編纂頃の渡来人からワニについて聞き及んでいたのかもしれませんし、それを得体の知れないものとして描写されたとも考えられます。兎が和邇を並べた様に、ワニが並ぶ様子も知っていたのでしょう。

記紀編纂当時の8世紀頃は唐とイスラム帝国の二大勢力が世界を二分していてお互いの往来もありますからワニの情報もイスラムから唐経由で日本に届くことは十分考えられます。実際に唐に朝貢していた国々の使いは同時に玄宗皇帝に謁見する機会もありました。日本、吐蕃(チベット)、大食(イスラム)、新羅等です。この時日本とイスラムは直接会っています。唐とイスラムの前にも漢とローマ帝国の時代も世界情勢は比較的安定していましたから人々の往来も盛んに行われていたことでしょう。


これらのことから日本の記憶を古事記の和邇とマチカネワニに求めたいのですが今のところ何せ証拠がありません。と言うことで日本の初発たる精神宇宙の自発は岩宿時代の初期3万8千年前から支那の易の創始者伏羲(ふぎ)に言霊原理を支那の言語や自然観に則した抽出で教授した5千年前頃の間の何れかの時点となってしまうのです。日本の言霊宇宙の精神はムハンマドはおろかイエス、釈尊、さらにはモーゼにさえ影響を与え得た人類の宝であることは推して知るべし、なのであります。