さっき見たカエルは二度嗤う

ちょっと一言いいたい、言っておかねば、ということども。

サルマネXperia登場!

2010-05-02 19:22:43 | ●CM放談
ついに満を持してサルマネ機登場! CMまでサルマネ?
docomoからXperiaという、見るからにiPhoneのサルマネ機が出た。
内容の詳細については知らないが、少なくとも、CMを見る限りにおいては、iPhoneのまねをしたスマートフォンなのだとわかる。そして、CM表現においても、そっくりのサルマネをしている。

ところが、ご多分にもれず、サルマネは本体についても、広告表現についても、ごく表層的な部分に対してなされているだけなので、XperiaのCMをみて伝わるのは、タッチパネル方式なのだな、ということ位である。
マネをされているiPhoneがあれだけ、スマートに洗練された語り口で機能をいくつもわかりやすく伝えているのに対し、そのマネをしたXperiaの方は、表現がマネなのに、なにができるのか、何処がユニークでセールスポイントはどこなのか、全く伝わってこない。
そして、それがかっこいいと思い込んでいるのか、ちょっと時代遅れっぽい音楽を当てて、機能説明のナレーションすら排除してしまっているところが、救い難い。
さらに、PSPから始まったSONYお気に入りの青い抽象壁紙もかっこいいだろうと言わんばかりに多用しているが、カラフルなアプリアイコンを引き立たせるためにシンプルな白、もしくは黒を効果的に配しているアップルの方が役者が2枚も3枚も上手である。

先に内容がよくわからないと言ったが、こうした始末を見る限り、内容もろくなもの-じゃないことを推測するに十分だ。かつてマイクロソフトがアップルのMacOsをそっくり猿真似して、商売の才あって、大勝したが(商売として。内容としては勝てないでしょう、永遠に)、そのサルマネでガラパゴス日本でトップシェアを走るdocomoも勝ちを狙ってるんだろうが、そううまくいくかどうか。

まあどっちにしろ、さる真似しかできないのだから仕方がないのか、悲しき哉、サルマネ王国日本!
そして、韓国、中国はその日本のサルマネをし続けるのだろうか。

●アリエナイ話を作るアリエール

2008-01-14 01:20:28 | ●CM放談
今オンエア中よりも一つ前にやっていたアリエールのCMで、草薙剛が「毎年妻の誕生日には洗濯機の掃除をしてあげる」という、気持ち悪いCMがあった。
誕生日に洗濯機の掃除をしてくれてうれしいわ! と歓喜の雄叫びをあげる奥さんがいたら手を挙げてください。

これを考えたヒトはおそらく、結婚をしていない若い男性であろう。およそ、洗剤を買ってくれる奥さんに向けてこれほど的外れな攻め方はない。
妻は洗濯女ではない。家に洗濯を専門とする家政婦がいて、その人の誕生日に洗濯機の掃除をしてあげるのなら、わかる、ともやはり言えないなあ。
たとえ、洗濯女であっても、自分の誕生日には洗濯機の掃除なんかでなく、ほかのものが欲しいと思うよ。
むしろ洗濯が専門であれば、洗濯機自体の掃除も自分の仕事と言う自負が有るはず。

ここで大事なことは、全国の妻たちの「女を馬鹿にしている、家事を女の仕事であると断じている!」「してあげるという言い方がおしつけがましい」とかの感情的な批判ではなく、<誕生日に>というところに目を向けることである。
要するに、誕生日と言う夢のある楽しげでロマンチックな日のお祝いに、洗濯漕の淵の奥にこびりついた洗剤滓をこそぎとる行為が、ふさわしいものであるかどうか、そのへんをとくと考えてほしいのである。当の妻なら「誕生日にそれかい!」とさけびたくもなろう。

このCMを救うとしたら、草薙は妻の誕生日云々をいわず、黙って洗濯機の掃除をしている、それをかげから見ている奥さんがいる。製品の説明がはいる。さいごに妻を前に誕生日のケーキ、そして、引き絵のボケで草薙が渡すプレゼントのシーンの上に商品がのれば、よい。
洗濯機の掃除のくだりは気持ちのおまけ程度にしてしまえばいいだろう。

同じP&Gのボールズはあんなに突き抜けたCMを作っているのが不思議でならない。荒くれ男たちの頬にやさしい感触のタオルのシズル感というのがとてもよくわかるし、何より洗剤CMに荒くれ男たちをもってきた発想がすばらしい。ユーモアを交えながら、基本の効能効果をしっかり伝えているあたり、よくできたCMである。

●森永「ダース」のCMはなんだかなあ

2008-01-05 13:56:01 | ●CM放談
★お断り★
当方の都合によるブログの整理統廃合のため、今回は過去に他サイトで発表済みのものをアップします。(念のため初出のブログ名と年月日を記載しておきます)


 森永「ダース」のKinKi Kids出演のCMがちょっと。光一編の方はまあいいとして、気にかかるのは剛編の方だ。
 会社帰りの電車の中。疲れた様子で吊革につかまって立つ堂本が前に座っているカメラ(同僚? 後輩?)に向かって「やめちゃえば」といいながらダースを差し出す。

 悩みか愚痴かをうち明けられた後のリアクションというわけだろうが「やめちゃえば」とは、ずいぶんとかんたんに言ってくれちゃってると思うのだ。その言い方のニュアンスがまた、いかにもかったるそうで、投げ出すような、無責任きわまりない感じなのだ。

 実際にいま会社でイヤなことがあったりして悩んだり疲れたりしているときに、先輩や同僚からこう言われたら、どんな気がするだろう。しかもチョコレートをさし出されたら。

 ここにはメーカーや制作者側が意図しているような癒しなどは感じられない。まして「前向きに生きていくことを提案」(森永のCM裏話より)しているなどとはとても思えない。なぜなら「やめちゃえば」という言葉には、慰めるとか癒すとかではなく、これ以上あなたの愚痴や悩みにつきあいたくはない、という拒絶の底意が感じられるから。

 リアリティを装った表現ながら、これほどリアリティのないものはないのではないか。
 せめて「少しやすんだら」とか「やすんじゃいなよ」とかにしてほしかった。フリーターやニートが騒がれる世相をいかにも反映したような内容だ。

 たった今、現実に会社をやめるかどうしようかと思い詰めるほどの岐路に立っている人が見たとき、不快の念を禁じ得ないだろうと思う。
 ターゲットに当たる20代前半の女性たちは堂本剛のこの言葉をどう受け止めているのだろう。

(2005.5.13:ameblo)

●いい加減にしてくれ、小林製薬!

2008-01-03 18:56:05 | ●CM放談
たしかに、最初は小林製薬のCMをかっていた。他社のそれとはあきらかに一線を画し、体のいいイメージ音楽はいっさい使わず、言いたいことをかっちりとしゃべりまくる。こうした独自のスタイルが小林製薬CMの特徴である。以前そのよさをこのコーナーでほめたばかりである。(「やよ、君は見たか小林製薬の超リアリズムCMを」参照)

流されないから、目はとまり、耳は立つ。メッセージはしっかりと受け止めてしまう。まじめに聞いていると、そのような気がしてくる。CMであることを忘れてしまうのかもしれない。
その魔力ある作り方に一目置いてきたのは事実だ。

しかし、である。どうもそうした評価の声が小林自身にも聞こえているらしく、最近図に乗っている節がある。これは看過できない。
前回もいったが、小林製薬のCMを見ていると、訴える症状や現象がじんとくる。ホントに痛そうだし、ホントにかゆそうだし、ホントに臭そうだし、総じてつらそうなのだ。
ほかのどんなCMよりも同じ症状のつらさをよく語っている。つまり見ている方もつらくなる。それがインパクトなのだといえば、誠にその通りだが、それにしても、限度があるのではないかと、最近思うのである。

いったい、私たちはテレビを見て笑い、楽しんでいる。なのに、その気持ちのいい映像や音楽の流れをぶったぎって、画面はめいっぱいつらさを訴えかけてくる。かゆいよう! 痛いよう! 臭いよう! そしてその痛そうな痒そうななまなましい患部、臭そうな表情。
いいかげんにせんかい! と言いたくもなるのである。そこまで、言うか、と抗議したくもなるのである。指の関節のしわが切れて赤身がのぞいている映像を見て、不快に思わない人はいないだろう。いくらなんでもやりすぎでないか。小林製薬!

さて、もうひとつ、これは細君の逆鱗に触れたらしく、ぜひぜひ言っておけとの厳命を受けているので付け加えるが、熱のある時にさましてくれるような気がする、額に貼る冷感シートがあるが、あのCMの設定によると、奥さんは熱を出したが、晩飯の時間になり。シートを額に貼ってがんばり、見事、家族みんなの食事を用意できた、という美談になっているのだが、画面の右端に映っている肘から先の部分が、細君どうしても許せなかったらしいのだ。

この手はなんだ、と。誰の手だ、と。奥さん額に青いシート貼った姿でいじましくもほほえんでいるというのに、この手の持ち主は何をしているんだ、なぜ黙ってすわっている? なぜ席を立って手伝わない? 子どもは仕方ないそんなものだ。しかし、旦那だったら奥さんのつらさがわからぬはずはないではないか。肘から先の腕がじっとしていることにいたくお怒りなのである。

これは小林製薬、ぬかったのではないかな。

●耐震設計の風呂ほしい?

2007-12-16 01:09:15 | ●CM放談

 タカラスタンダードという会社の耐震性システムバスのCMを見た。
 画面には震度6相当と思われる強い揺れの浴室が映し出される。浴槽に張られた水面は荒れ狂う嵐のごとく波だち、蛇口から何から全体が右に左にわさわさ揺れている。

 送り手としてはここで十分な恐怖を感じてもらいたいところだろう。ところが、そのすごい揺れを目にしても、あまり恐怖感とか危機感とかいうものが感じられず、むしろ、へんな話だが、妙におかしい。思わず笑ってしまうのだ。

 これはいったいどういうことなのか。どうも、見ているこちら側に、風呂だけ頑丈にしてどうするんだ、という疑念があるからではないか、と思う。最初、笑えるのは無人のせいだろうと思ったが、人がいたらいたでもっと笑えたかも知れない。

 今、風呂に入っている人がいる。洗い場で髪を洗っているか、ゆったりと風呂に浸かっているかわからないが、そこへ震度6の激しい揺れが来る。あわてふためいて、上を見る。どうしていいものやら波立つ湯の中で中腰になって、浴槽の縁をつかむとかするだろう。
 裸で頭をシャンプーだらけにして右往左往する姿はどうしたっておかしい。本当に地震が起きた時のニューズ映像ですら、不謹慎ではあるが、しゃがみ込んでしまう人たちに聊かの滑稽味を覚えてしまうほどだから、CMのような作りモノの世界では笑えて当然だとも思う。

 耐震設計の偽装問題で揺れた世相に鑑み、建物はそれとして、風呂は大丈夫ですか、とタカラは心配してくれているのだろう。
 だがしかし、である。安心システムバスとかいっちゃっているが、風呂がどんなに激しい揺れに耐え抜いた所で、肝心の家が倒壊してたら、安心どころではないだろう。

 つぶれた家の浴室だけのこって、そこでどうするのか? 
 とりあえず、シャンプーは落としたい所だが、家の中で生き残った風呂で果たして水が出るのかどうか、それが問題だなあ。


●ジャッキーチェン出演もむなし不明CMーVISA

2007-10-21 22:42:13 | ●CM放談
またしてもVISAである。
どうして、こう、わからないことをしてしまうのか。広告主と、広告代理店と制作プロダクションと、多くのスタッフが関わってできていくのがCMだが、誰も疑問に思わないのが不思議なくらいだ。

ジャッキーチェンが突然北京オリンピックに行きたくなり、オリンピックにいくために、卓球やサッカーの選手になるべくすぐに特訓を始めるが、結局ダメ。そこにスーパーで、「もっと簡単な方法が、ありますよ」。それ以外は一言のナレーションもなく、忙しそうな音楽が流れるだけ。そうしてジャッキーはVISAでオリンピックチケットを買って北京へ。ところが、会場の席の前にバスケットボールの巨大な選手がいて、よく見えない。そこでジャッキーお得意のトリッキーな技を使って、巨人の前の席にするっとはいって、競技を観てご満悦という流れ。

これはいったい何が言いたいのか。わかるヒトは手を挙げてください。

最後のメッセージは「VISAさえあれば」あのう、ジャッキーはもともとVISA持ってるんですけど。
そのカードで、サッカーボールを買ったりしてるんですけど。
選手になって行くより、観客として行った方が楽ですよ。ということらしいが、それとVISAカードと何の関連があるのか。
VISAがなくたって、DCカードでチケット買えば、北京に行ける。

ジャッキーはもともとVISAカード持ってる訳だから、使い方がよくない、ということなのだが、それでは全体としてのCMメッセージとの関連性がなくなってしまうではないか。
そうではなく、本当にいいたいのはVISAインターナショナルは北京オリンピックの公式スポンサーです、ということだろう。だったら、こんな入り組んだ誤解の多いシチュエーションやお話をつくらず、シンプルな表現にすればいい。このCMでは、そんなVISAの思惑は全く伝わってこない。

ついでに言えば、これよりひとつ前のシリーズで観月ありさ出演の世界通貨というのがあったが、これは言いたいことがそのまま表現されていてストレートにつたわるものであったが、皮肉にも落ちがあまりにはっきりしたものだったので、一回か二回観れば十分なものであった。そのため、何度もみさせられたのは苦痛でしかなかった。それは誰も同じであったと思う。

リチャードギアのは偽善者のおせっかいを描いて女の子と消費者の反発を買い、観月ありさのはわかりきった落ちを何度も観させる苦痛を与え、今回のジャッキーでは不可解な気分にさせられただけで、いずれもVISAカードの必要性を微塵も感じられなかった。

作るCMことごとくはずれるVISAはいったい何を考えているのでしょうか。
わかるヒトは挙手願います。

●またカルビーがやってくれました

2006-10-11 20:57:48 | ●CM放談
カルビーというところはつくづく,CMがへたくそなんだなあ、と思いました。(そのくせ下手の横好きみたいにCM打つ予算は潤沢のようだ)
あの観ている方が恥ずかしくなってしまうポテトチップスの袋からジャガイモを出すCMが終わったかと思ったら、今度はジャガイモ畑で父と息子らしき?ふたりが並んで立っている。
お、今度は何かやってくれそうだなと予感、しかし甘かった。二人はおもいきりきばって、いっせいにジャガイモの葉と茎を持ち上げる。すると、土の中からジャガイモの代わりにポテトチップスのパッケージがいくつもぶらさがってきた……。なんともまたまた寒くなるようなおそまつなオチですが、幼稚園からせいぜい小学校低学年くらいまでは笑いをさそえるかもしれません。

その後、別の機会に女性が自らの膝小僧を見つめているCMをみかけたとき、膝小僧がジャガイモに変わったので、いやな予感がしたら案の定またまたまたしてもカルビーのCMで、もう救いようがないと思いましたが、さて、もうこれについては論評しませんが、よほどジャガイモにこだわりたいのだなと言う気持ちはわかりました。
ので、カルビーばかり責めるつもりはありませんが、こう次から次へと失敗作を流されると、一応公共の電波を使ってのことですから、ひとこと言わずにはおれません。
そうかといって、本当に貶すばかりでは申し訳ないので、今回はいかにしたらこのCMが救えるかということまで考察してみたいと思う、思います。

もし、カルビーがジャガイモにこだわってこだわってこだわり抜いているのはポテトチップスがジャガイモから出来ていることを伝えたいのであれば、ギャグは不要だ。じゃまです。あのまま二人して本物のできの良いジャガイモを掘り出せばよい。ただし、真剣なそれぞれのまなざし、力のはいる手元などのクローズアップをインサートするなど、本物感を狙う迫力を演出します。そして、そのいいジャガイモにカメラが寄っていく。一方スライスされたジャガイモを今しも油からあげているカットにだぶらせる。そして、さらにだぶりつつ商品パッケージになる、と。これで十分。というか、この方がよほど、品格も、おいしさもシズルも新鮮感もつたわるでしょう。

さて、もうひとつ、カルビーが拘っていることがありますね。それはギャグ、笑いです。毎度失敗して笑いそこなっていますが、もし、笑わせることで、ああカルビーという会社は楽しいことをやってくれる会社だなあと印象づけたいならば、こうしたらいい。
ふたりで一斉にふんばって、やや間をおいたら、親父が奇声を上げながら突如土の中へ逆に引っ張り込まれるのだ。それと同時に息子の方は逆にいきおい余って後ろに倒れるようにして引っ張り上げるが、ツルにつかまって飛び出してきたのは親父だった。そのまま背中から倒れ込んだ息子の上に土だらけの親父が覆い被さってきて、どうしていいかわからない二人は奇声を上げ続ける……「おおお、おやじィィィ!」「む、むむむむ、むすこォォォ!」……とかね。

パッケージは最後にぽんと2秒も出れば、十分でしょう。成熟商品なんだから、一生懸命ジャガイモやら商品やらを見せる必要はないのです。ポテトチップスがジャガイモから出来てることくらい、いまさら知らない人は居ないのですから。

●トータス松本力強く唄い上げるの舞台はここでコケッコーなのか

2006-09-24 00:46:48 | ●CM放談
お、トータス松本がアカペラで<My Old Kentucky Home>か!
なにか、こう勝負に出たな、と思わせる力の入り具合を感じるCMだが、どこか、中途半端な感じがして仕方がない。なんでかな、と考えてみたら、どうも詰めの甘さに原因があるのではないかと思う。

トータス松本が出演する。アカペラで唄う。曲はおなじみの<My Old Kentucky Home>。うーん、いいね、とここで満足してしまい、どこで彼に唄わせるのか、というところまでしっかりと考えていなかったのではないか。とても安易に決めてしまったように思われる。
そういえば、似たようなシチュエーションで別の作品が以前あったことを思い出した。日本生命だったと思う。桑田佳祐が愛の讃歌をやはりアカペラで、たしか大きな木の下で(あくまで記憶なので不確かだが)唄っていた。命、愛をうたいあげるに、生命を象徴する樹木を背景に持ってくる、これはわかる。

しかし、トータス松本が唄っている背景が何を意図しているのかが、よくわからない。
2本の高速道路の高架下で、彼は雑草を踏みしめて片足でリズムを取っている。画面はそれほど整理されてはいない。作り手がかっこいいだろうと押しつけてきている感のある、2本の高速道路のカーブもさほど美しくないし、ラストでは、遠くに高層マンションが数棟見えるが、まさか、あれがマイホームを象徴しているとは思われない。おそらく、単に背景として映っているだけだろう。そして、画面の三分の一近くを占めてしまう橋桁はどう考えても画面を汚している。橋桁のおかげでボリュームが左に偏った構図になってしまっているのも残念。

最悪なのは一応フライドチキンのCMですから、とお断りのようにインサートされている商品袋カットだ。なんと、彼の足下、地面の上に白いケンタッキーの袋が置いてある。ちょっと待ってくれ、あったかいフライドチキンの入った袋ぞ。やはか、地面の上になぞ置く。靴と地面と食べ物商品の袋で構成されたカットが美しいか。食欲をそそるか。それに、唄っている間にさめちゃうじゃないか。
トータス松本のプロモーションビデオじゃないんだから、ちゃんど商品見せてくれなきゃ困るよと、クライアントに言われても、後半に出てくる揚げたての調理シーンのシズルで十分、と説得するべきであった。

ちなみに、どんな背景が良かったのだろうか。たとえば、同じ高速道路をモチーフにするなら、まだ出来ていない途中でぶつ切れた工事中の道路のまさに途絶えた突端で唄う。それを仰りから上にぐーんとクレーンアップしていく。すると、大きな川を挟んだ向こう岸に家並みがずらりとみえてくる。なんてのはどうだろう。はるかにヌケた画になるし、メッセージも伝わると思うのだが。

●やよ、君は見たか小林製薬の超リアリズムCMを

2006-09-10 02:15:56 | ●CM放談
小林製薬という会社はすごい。
イメージやムードだらけの他社CMの中にあって、断固としてリアリズムを通している。そのゆるぎなさ、潔さはしかし、何年にもわたっている。ということは、このトーン&マナーは、時の変遷で変わりゆく一宣伝部長の意思なんかではなく、それを越えたもの、おそらくはトップのそれであろうと推測される。
アイデアの細かいひとつひとつは、制作会社や、広告代理店のクリエイティブが出しているのかもしれないが、大枠の考え方は確実にクライアントの意思であろう。

登場人物のことばと、ナレーションをきっちり、確実に伝える。ウソはいわない。この「ウソ」とは、メッセージ上の言葉としてのウソ以外に、イメージを与えるウソも含まれる。ハッピーな世界やリッチなくらしなど描かない。ごく普通の、ありきたりな等身大の庶民の生活を描く。
ちょっと心地のいい音楽。そんなものはいらない、余計だ、じゃまですらある。美人のモデルなんかいらない。どこにもいるおばちゃんがいればいい。すがすがしい映像、カッコつけたコピー、ものものしいCGテロップ、甘い(渋い)声。透明な空気感、こうした近代CMがめざした憧れの世界をことごとく拒否しさる、この頑迷さはいったいなんなのか。

でも、実をいうと、世の中に溢れた、ソフトで甘いタッチの、目に耳にこころよいCMの中では、この地味さ無骨さが逆に、目立ち、強いのだ。
能のない代理店のクリエイティブがバカの一つ覚えですぐ口にしたがる「インパクト」だってある。
BGMのない、裸のせりふやナレーションは、耳にびしびしと飛び込んで来る。痒みを訴えれば本当に痒そうだし、痛みを訴えれば、まさしく痛そうに感じる。このCMの強さをひとことでいえば、嘘のなさげにある。CMなんだから、もちろん嘘はあるが、とりあえず、外見においてはまったく嘘のなさを感じる。そのための仕掛けが、音楽をつかわないなど、先に上げた近代CMの特徴(お飾り)をことごとく外すところにあるのだ。

だが、ほんとうに小林製薬がすごいのは、超リアリズムCMの表現なんかではなく、商品そのものにまで、いっさいの粉飾を嫌ったところにある。
ネーミングや、パッケージデザインを見よ。およそ、現代の時代感覚を無視しさった剛毅木訥な姿を。
例えば「トイレその後に」。どこで、何のために使うのかこれほどわかる商品名は他にない。CMの表現はお父さんが「大」をしたあとに娘が入って顔をしかめるという生っぽさで、見ているだけで臭ってくるような気さえする。遠慮を知らない、余白の美などとは無縁なバカでかい商品ロゴ。
そしてまた「消臭元」。工夫も何もない、そのままの名前。そしてあの形、臭いを吸い取るために、ずるずると異様にヘッドが伸びる。とにかく、徹底しているところがすごい。

しかし、である。だからといって、こんなものをトイレには置きたくない。なんだか、この家の者は特別臭いのをするみたいでいやだ。
「消臭元」のヘッドがのびたおぞましいほどの醜さ、あの下品きわまりない形を自分の部屋で目にしたくない。

あれを部屋のどこかに置きたいという人は手を挙げてほしい。商品は外見より中身が勝負? たしかに痒み痛みをおさえてくれそうだし臭いも消してくれそうだが、あくまで「くれそう」という予想であって、事実は他社の製品と五十歩百歩にちがいない。だって、考えてみると、小林製薬の製品CMは、表現がリアルだから痒そう、痛そう、臭そう、のシズル感は群を抜いてあるものの、痒みや痛みや臭いの「消失感」についてはさほどシズルを感じないからである。

●ポテトチップスになれなかったポテト。それがどうした!

2006-09-03 02:30:03 | ●CM放談
最近、気になっているのは、『結婚できない男』の隣に住んでいる女(国仲涼子)が白ホリバックにポテトチップスのパッケージを持ってストレートトークをするやつ。

ジャガイモにキスして、パッケージの袋に戻すと、ポテトチップスになるかと思いきや、あれ、ならない、というもので、これが見ていられない。これなん、はるか昔のセブンイレブンの名作CMハンバーガーUFO「今日はとびませんねえ」のまねに違いないが、なんともはや、パロディにもなりきれず、どう反応していいかわからなくさせられる後味の悪いCMにしあがっている。

実は、カルビーはこの手ははじめてではない。例を上げたいが不覚にも失念してしまっておるため、あげられないが、とにかく、このストレートトークスタイルがいたくお気に入りらしい。
それはおそらく、この会社の数少ない成功作の一つである、「100円でカルビーのポテトチップスは買えますが、カルビーのポテトチップスで100円は買えません。悪しからず」(藤谷美和子)のヒットが忘れられないのだろう。

が、それはおいといて、ここではポテトチップスにならなかったじゃがいもと、飛ばなかったハンバーガーについて考えたい。まねしてるぐらいだから、似ていると思われるかもしれないが、実は作り方の緻密さにおいて両者には雲泥の差がある。

セブンイレブンの方は、斉藤祐子という、めがねをかけたおとぼけキャラを使っており(何かふざけたことを言うぞきっと)、手のひらに載せたハンバーガーが飛びますと始めに宣言する(やはりぶさけたことをぬかしやがる)。見ている方は「え?!」と一瞬驚くが、まあ、CMのことだからさもあらん、特撮なり、CGなり使って飛ぶのであろうと、待つ。すると、同じように待っていた斉藤祐子が絶妙な間をとってから「……今日は飛びませんねえ」とくる。なるほど、やられたわい、と。ちょっと驚かされ(驚くというほどではないがふんふんと興味をいだかせておいて)何も起きないことで、逆に肩すかしを食らわせられるわけだ。テレビ番組における手品の失敗や、愛犬の芸の失敗シーンのパロディになっているのだが、そこに工夫があり、インパクトがあった。

ところが、カルビーの方はいきなり「じゃがいもに愛情込めてこうすると」と言って、じゃがいもにキスしてパッケージの袋に入れて袋をゆさぶるが、まだ何がおこるか言ってないし、視聴者もわからない。けれどもポテトチップスのCMなんだからじゃがいもがポテトチップスに変わるんだろうぐらいに想像しようとする。するが、彼女は「おいしいポテトチップスに……」と間髪をいれずしゃべり始めており、しかも、その時すでにポテトチップスにならなかったじゃがいもを袋から取り出しているのである。そして、元の姿のままのジャガイモを恨みがましくみつめる間をとっている。この間は何の間だろう。
ハンバーガーが飛ぶのを待つ間と、このポテトチップスにならなかったじゃがいもを見つめる間とは、全然異質のものである。

前者の間には視聴者を引き込むための仕掛けがあるが、後者の間には何もない。もちろん理屈的にはポテトチップスにならなかったことへの国仲のショックを表しており、それを視聴者と共有していると思っているところが大間違いで、視聴者にはショックでも何でもないことなのだ。だいたい、じゃがいもがポテトチップスになったからって、それが何だというのだ! と人は思ってしまう。視聴者が待ったのは、そのとき国仲が何を言うかであり、ショックを受けて沈黙している姿なんかではないのだ。

ここに、欠けているのは、視聴者に与える<反応する時間>である。どこでどうリアクションをとればいいのか、構えているうちに勝手に終わってしまうのだ。そして、恥ずかしさだけが残る。これやまさしく机上オチ、考えオチというもの。視聴者不在のCMになりさがっている。
まあ、とにかく、カルビーのCMは失敗作が多いが、見ている人に恥ずかしい思いをさせるようなCMはやめてほしいものだ。