さっき見たカエルは二度嗤う

ちょっと一言いいたい、言っておかねば、ということども。

●トータス松本力強く唄い上げるの舞台はここでコケッコーなのか

2006-09-24 00:46:48 | ●CM放談
お、トータス松本がアカペラで<My Old Kentucky Home>か!
なにか、こう勝負に出たな、と思わせる力の入り具合を感じるCMだが、どこか、中途半端な感じがして仕方がない。なんでかな、と考えてみたら、どうも詰めの甘さに原因があるのではないかと思う。

トータス松本が出演する。アカペラで唄う。曲はおなじみの<My Old Kentucky Home>。うーん、いいね、とここで満足してしまい、どこで彼に唄わせるのか、というところまでしっかりと考えていなかったのではないか。とても安易に決めてしまったように思われる。
そういえば、似たようなシチュエーションで別の作品が以前あったことを思い出した。日本生命だったと思う。桑田佳祐が愛の讃歌をやはりアカペラで、たしか大きな木の下で(あくまで記憶なので不確かだが)唄っていた。命、愛をうたいあげるに、生命を象徴する樹木を背景に持ってくる、これはわかる。

しかし、トータス松本が唄っている背景が何を意図しているのかが、よくわからない。
2本の高速道路の高架下で、彼は雑草を踏みしめて片足でリズムを取っている。画面はそれほど整理されてはいない。作り手がかっこいいだろうと押しつけてきている感のある、2本の高速道路のカーブもさほど美しくないし、ラストでは、遠くに高層マンションが数棟見えるが、まさか、あれがマイホームを象徴しているとは思われない。おそらく、単に背景として映っているだけだろう。そして、画面の三分の一近くを占めてしまう橋桁はどう考えても画面を汚している。橋桁のおかげでボリュームが左に偏った構図になってしまっているのも残念。

最悪なのは一応フライドチキンのCMですから、とお断りのようにインサートされている商品袋カットだ。なんと、彼の足下、地面の上に白いケンタッキーの袋が置いてある。ちょっと待ってくれ、あったかいフライドチキンの入った袋ぞ。やはか、地面の上になぞ置く。靴と地面と食べ物商品の袋で構成されたカットが美しいか。食欲をそそるか。それに、唄っている間にさめちゃうじゃないか。
トータス松本のプロモーションビデオじゃないんだから、ちゃんど商品見せてくれなきゃ困るよと、クライアントに言われても、後半に出てくる揚げたての調理シーンのシズルで十分、と説得するべきであった。

ちなみに、どんな背景が良かったのだろうか。たとえば、同じ高速道路をモチーフにするなら、まだ出来ていない途中でぶつ切れた工事中の道路のまさに途絶えた突端で唄う。それを仰りから上にぐーんとクレーンアップしていく。すると、大きな川を挟んだ向こう岸に家並みがずらりとみえてくる。なんてのはどうだろう。はるかにヌケた画になるし、メッセージも伝わると思うのだが。

●やよ、君は見たか小林製薬の超リアリズムCMを

2006-09-10 02:15:56 | ●CM放談
小林製薬という会社はすごい。
イメージやムードだらけの他社CMの中にあって、断固としてリアリズムを通している。そのゆるぎなさ、潔さはしかし、何年にもわたっている。ということは、このトーン&マナーは、時の変遷で変わりゆく一宣伝部長の意思なんかではなく、それを越えたもの、おそらくはトップのそれであろうと推測される。
アイデアの細かいひとつひとつは、制作会社や、広告代理店のクリエイティブが出しているのかもしれないが、大枠の考え方は確実にクライアントの意思であろう。

登場人物のことばと、ナレーションをきっちり、確実に伝える。ウソはいわない。この「ウソ」とは、メッセージ上の言葉としてのウソ以外に、イメージを与えるウソも含まれる。ハッピーな世界やリッチなくらしなど描かない。ごく普通の、ありきたりな等身大の庶民の生活を描く。
ちょっと心地のいい音楽。そんなものはいらない、余計だ、じゃまですらある。美人のモデルなんかいらない。どこにもいるおばちゃんがいればいい。すがすがしい映像、カッコつけたコピー、ものものしいCGテロップ、甘い(渋い)声。透明な空気感、こうした近代CMがめざした憧れの世界をことごとく拒否しさる、この頑迷さはいったいなんなのか。

でも、実をいうと、世の中に溢れた、ソフトで甘いタッチの、目に耳にこころよいCMの中では、この地味さ無骨さが逆に、目立ち、強いのだ。
能のない代理店のクリエイティブがバカの一つ覚えですぐ口にしたがる「インパクト」だってある。
BGMのない、裸のせりふやナレーションは、耳にびしびしと飛び込んで来る。痒みを訴えれば本当に痒そうだし、痛みを訴えれば、まさしく痛そうに感じる。このCMの強さをひとことでいえば、嘘のなさげにある。CMなんだから、もちろん嘘はあるが、とりあえず、外見においてはまったく嘘のなさを感じる。そのための仕掛けが、音楽をつかわないなど、先に上げた近代CMの特徴(お飾り)をことごとく外すところにあるのだ。

だが、ほんとうに小林製薬がすごいのは、超リアリズムCMの表現なんかではなく、商品そのものにまで、いっさいの粉飾を嫌ったところにある。
ネーミングや、パッケージデザインを見よ。およそ、現代の時代感覚を無視しさった剛毅木訥な姿を。
例えば「トイレその後に」。どこで、何のために使うのかこれほどわかる商品名は他にない。CMの表現はお父さんが「大」をしたあとに娘が入って顔をしかめるという生っぽさで、見ているだけで臭ってくるような気さえする。遠慮を知らない、余白の美などとは無縁なバカでかい商品ロゴ。
そしてまた「消臭元」。工夫も何もない、そのままの名前。そしてあの形、臭いを吸い取るために、ずるずると異様にヘッドが伸びる。とにかく、徹底しているところがすごい。

しかし、である。だからといって、こんなものをトイレには置きたくない。なんだか、この家の者は特別臭いのをするみたいでいやだ。
「消臭元」のヘッドがのびたおぞましいほどの醜さ、あの下品きわまりない形を自分の部屋で目にしたくない。

あれを部屋のどこかに置きたいという人は手を挙げてほしい。商品は外見より中身が勝負? たしかに痒み痛みをおさえてくれそうだし臭いも消してくれそうだが、あくまで「くれそう」という予想であって、事実は他社の製品と五十歩百歩にちがいない。だって、考えてみると、小林製薬の製品CMは、表現がリアルだから痒そう、痛そう、臭そう、のシズル感は群を抜いてあるものの、痒みや痛みや臭いの「消失感」についてはさほどシズルを感じないからである。

●ポテトチップスになれなかったポテト。それがどうした!

2006-09-03 02:30:03 | ●CM放談
最近、気になっているのは、『結婚できない男』の隣に住んでいる女(国仲涼子)が白ホリバックにポテトチップスのパッケージを持ってストレートトークをするやつ。

ジャガイモにキスして、パッケージの袋に戻すと、ポテトチップスになるかと思いきや、あれ、ならない、というもので、これが見ていられない。これなん、はるか昔のセブンイレブンの名作CMハンバーガーUFO「今日はとびませんねえ」のまねに違いないが、なんともはや、パロディにもなりきれず、どう反応していいかわからなくさせられる後味の悪いCMにしあがっている。

実は、カルビーはこの手ははじめてではない。例を上げたいが不覚にも失念してしまっておるため、あげられないが、とにかく、このストレートトークスタイルがいたくお気に入りらしい。
それはおそらく、この会社の数少ない成功作の一つである、「100円でカルビーのポテトチップスは買えますが、カルビーのポテトチップスで100円は買えません。悪しからず」(藤谷美和子)のヒットが忘れられないのだろう。

が、それはおいといて、ここではポテトチップスにならなかったじゃがいもと、飛ばなかったハンバーガーについて考えたい。まねしてるぐらいだから、似ていると思われるかもしれないが、実は作り方の緻密さにおいて両者には雲泥の差がある。

セブンイレブンの方は、斉藤祐子という、めがねをかけたおとぼけキャラを使っており(何かふざけたことを言うぞきっと)、手のひらに載せたハンバーガーが飛びますと始めに宣言する(やはりぶさけたことをぬかしやがる)。見ている方は「え?!」と一瞬驚くが、まあ、CMのことだからさもあらん、特撮なり、CGなり使って飛ぶのであろうと、待つ。すると、同じように待っていた斉藤祐子が絶妙な間をとってから「……今日は飛びませんねえ」とくる。なるほど、やられたわい、と。ちょっと驚かされ(驚くというほどではないがふんふんと興味をいだかせておいて)何も起きないことで、逆に肩すかしを食らわせられるわけだ。テレビ番組における手品の失敗や、愛犬の芸の失敗シーンのパロディになっているのだが、そこに工夫があり、インパクトがあった。

ところが、カルビーの方はいきなり「じゃがいもに愛情込めてこうすると」と言って、じゃがいもにキスしてパッケージの袋に入れて袋をゆさぶるが、まだ何がおこるか言ってないし、視聴者もわからない。けれどもポテトチップスのCMなんだからじゃがいもがポテトチップスに変わるんだろうぐらいに想像しようとする。するが、彼女は「おいしいポテトチップスに……」と間髪をいれずしゃべり始めており、しかも、その時すでにポテトチップスにならなかったじゃがいもを袋から取り出しているのである。そして、元の姿のままのジャガイモを恨みがましくみつめる間をとっている。この間は何の間だろう。
ハンバーガーが飛ぶのを待つ間と、このポテトチップスにならなかったじゃがいもを見つめる間とは、全然異質のものである。

前者の間には視聴者を引き込むための仕掛けがあるが、後者の間には何もない。もちろん理屈的にはポテトチップスにならなかったことへの国仲のショックを表しており、それを視聴者と共有していると思っているところが大間違いで、視聴者にはショックでも何でもないことなのだ。だいたい、じゃがいもがポテトチップスになったからって、それが何だというのだ! と人は思ってしまう。視聴者が待ったのは、そのとき国仲が何を言うかであり、ショックを受けて沈黙している姿なんかではないのだ。

ここに、欠けているのは、視聴者に与える<反応する時間>である。どこでどうリアクションをとればいいのか、構えているうちに勝手に終わってしまうのだ。そして、恥ずかしさだけが残る。これやまさしく机上オチ、考えオチというもの。視聴者不在のCMになりさがっている。
まあ、とにかく、カルビーのCMは失敗作が多いが、見ている人に恥ずかしい思いをさせるようなCMはやめてほしいものだ。