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あみの3ブログ

和歌山城@和歌山市 20212年10月21日

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国指定史跡・国名勝・日本100名城
和歌山城(わかやまじょう)

和歌山城は天正13年(1585)、羽柴(豊臣)秀吉が紀州を平定し、弟の秀長に命じて岡山(虎伏山)の峰に創建したのが和歌山城。藤堂高虎らが普請奉行を務め、高虎が手掛けた最初の本格的な近世城郭と言える。秀長は大和郡山城を居城としたため、桑山重晴が城代を勤めた。秀長家が途絶えると、桑山氏が城主となる。豊臣・桑山時代に山頂部分や岡口の整備に取り組んだ。
 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、浅野長幸が37万6千石の領主となり、城の大規模な増築を行った。連立式の天守閣を建て、現在の本丸・二の丸・西の丸に屋敷を造営。大手を岡口門から一の橋の門に変え、本町通りを大手珠洲として城下町を整備した。
 元和5年(1619)徳川家康の十男・頼宜が55万5千石を拝領して入国し、紀州徳川家が成立する。二の丸を拡張するため西内堀の一部を埋め立て、南の丸・砂の丸を内郭に取り入れ、ほぼ現在の和歌山城の姿となった。紀州徳川家は、「南海の鎮」として西日本を監視する役目を担い、八代将軍吉宗、十四代将軍家茂を輩出した。
 明治4年(1871)の廃藩置県により、和歌山城は陸軍省の管轄となる。明治34年和歌山城公園として一般に公開され、昭和6年(1931)に史跡に指定された。
嘉永3年(1850)に再建された天守は第2次世界大戦で焼失したものの、昭和33年(1958)鉄筋コンクリート造りで再建された。

場所は和歌山市一番丁3、和歌山城公園。
国道26号線(国道42号線)県庁前交差点から県道138号線(三年坂通り)に入り、一つ目の信号から公園内駐車場に進むことができますが公園内の一般駐車場はここだけで、公園反対側の市役所南別館(わかやま歴史館)前にある駐車場は大型観光バス専用です。
周辺にはコインパーキングも多数ありますが、自分は県庁前交差点歩道橋の北西角にあるコインパーキングに停めました。

和歌山城公園案内図、、、公式パンフレットより




「天守閣」
浅野家が虎伏山の西の峰に、黑板張りだが、ほぼ現在と同様の天守閣を築造。三層の大天守から時計回りに多聞、天守二之御門(楠門)、二之御門続櫓、多聞、乾櫓、多聞、御台所、小天守へと続く連立式天守だった。



寛政10年(1798)十代藩主徳川治宝により白壁の白亜の天守となるが、弘化3年(1846)の落雷で焼失。御三家ということで特別に認められ嘉永3年(1850)にほぼ元のまま再建される。昭和10年(1935)国宝に指定されるが、同20年7月9日の和歌山大空襲で焼失。戦後市民からの要望もあり、昭和33年に鉄筋コンクリートで復元された。
天守台石垣より(南面)


西の丸より(北面)


追廻門より(西面)




「岡口門」
築城時は大手門だったが、浅野期の途中から搦手門(裏門)となる。現在の門は元和7年(1621)、徳川家が建造した二階建ての門である。岡口門は空襲でも焼けずに残った旧藩時代の数少ない遺構で、北側の土塀と共に昭和32年(1957)重要文化財に指定された。






「二の丸」
徳川家が藩主の時代、本丸御殿が山上にあったが、不便で手狭なため、二の丸に殿様の居館や藩の政庁が置かれた。二の丸の機能は藩の行事の場である「表」、殿様の公邸である「中奥」、殿様の私邸で、奥女中の生活の場である「大奥」の三つに分かれていた。




「御橋廊下」
御橋廊下は殿様とお付きの人、奥女中が二の丸と西の丸を行き来するために架けられた徳川期の橋である。そのため外から見えないように壁と屋根が設けられ、部屋のような造りになっている。斜めに架かる廊下橋としては全国的に珍しい。平成18年3月に復元。


西の丸庭園(紅葉渓庭園)より




「西の丸庭園(紅葉渓庭園)」
江戸時代初期に作庭された池泉回遊式の城郭庭園。虎伏山の渓地形を利用し、立石として緑色片岩(紀州青石)を多用する。御舟石のある上の池だけではなく、柳島を浮かべて内堀を池に見立てている。昭和60年(1985)には、国の名勝に指定。






「追廻門」
追廻門は西から和歌山城(砂の丸)に入る門で、大手門の反対側の搦手に位置します。門を出て道を隔てた外側に、馬術を練習する追廻があったので、この名が付いた高麗門形式の門です。元和5年(1619)に紀州徳川家初代頼宜が入国し、和歌山城を拡張して砂の丸や南の丸を内郭に取り込みました。当然、追廻門もその際に建立されたもので、岡口門と共に空襲でも焼けずに残った旧藩時代の数少ない遺構です。追廻門は藩主が座る二の丸御座之間の南西に位置し、陰陽道の裏鬼門にあたるので、除災のため朱色に塗られたと考えられています。








「和歌山城の石垣」
和歌山城の石垣は、城主ごとに違いがあり、豊臣・桑山期(1585-1600)、浅野期(1600-1619)、徳川期(1619-1869)を通じて積まれました。
 虎伏山頂上から山裾にかけて多く分布する結晶片岩による野面積みの石垣は、主に豊臣・桑山期のものと考えられています。浅野期になると、和泉砂岩も用いられるようになります。主に打ち込み接ぎの石垣で、刻印が多くみられるのも特徴の一つです。
 徳川氏により新たに造成された砂の丸・南の丸では、17世紀前半に積まれたと考えられる和泉砂岩による打ち込み接ぎの石垣が見られます。またより時代が下がると、切込み接ぎの石垣が見られるようになり、隅角部等一部には、花崗斑岩が用いられているものもあります。

◆天守台石垣
和歌山城は天正13年(1585)羽柴(豊臣)秀吉が弟の秀長に命じて築城されました。天守台の石垣はこの築城時に積まれた和歌山城の中でも最も古い石垣と考えられています。
結晶片岩による野面積みで、各所に転用石(石塔や石仏)が見られるのが特徴です。



◆新浦坂下の石垣
浅野期(17世紀前半)に積まれたと考えられている打ち込み接ぎの石垣です。石材は和泉砂岩で浅野期の石垣の特徴である刻印が数多く見られます。



◆砂の丸高石垣
元和5年(1619)徳川頼宜が城主となって以降、大規模な城の増改築が行われ、城の西側・南側に新たに砂の丸・南の丸が作られました。その際に積まれたのがこの石垣で、和泉砂岩を用いた打ち込み接ぎです。



◆鶴の渓の石垣
浅野期に鶴が飼われていたという伝説から鶴の渓と呼ばれているこの場所には、山の斜面に沿って緩やかな石垣があります。豊臣・桑山期(16世紀後半)に積まれたと考えられ、天守台石垣と比べると非常に大ぶりな結晶片岩を用いた野面積み石垣です。



◆不明門跡付近の高石垣
角石に熊野地方産の花崗斑岩が使われ、他は和泉砂岩で積まれた徳川期の石垣。


◆松の丸櫓台石垣
角石に熊野地方産の花崗斑岩が使われ、他は和泉砂岩で積まれた徳川期の石垣。


◆一中門跡の石垣
熊野地方産の花崗斑岩を多角形に加工して積む亀甲積という技法が見られます。


◆不明門跡奥の松の丸石垣
和歌山城の中には城主ごとに変遷していった石垣の様子がよくわかる場所がいくつかあります。この場所では、豊臣・桑山期(16世紀後半)に山の斜面に沿って積まれた野面積みの石垣に、打ち込み接ぎの石垣が後で取り付けられた様子がわかります。打ち込み接ぎの石垣は徳川期(17世紀前半)のものです。



「伏虎の像」
和歌山城が建っている虎伏山は、海上から見ると虎が伏している姿に似ていることからのの名が付いたと伝わり、その故事にちなんで銅像が建立され有吉佐和子の小説「紀の川」にも登場するが戦時中に供出され現在は二代目。



東側内堀の高石垣
藤堂高虎の気配を感じます。





天守からの眺望
紀の川と和歌山湾が見渡せる交通の要衝ということもわかります。



恥ずかしながら「和歌山城」ハツホーです💦
櫓・門・石垣・庭園、広大な城域
徳川御三家の威厳をまざまざと見せつけられました。
しかし、豊臣秀長・藤堂高虎らが手掛けた近世城郭だということも忘れてはならないと思いました。




※参考資料、、、公式パンフレット、現地説明板、和歌山城石垣散策MAP他

【和歌山城】
《西国支配の要となった紀伊徳川家の巨城》

名称(別名);わかやまじょう(竹垣城、虎伏城)
所在地;和歌山市一番丁3
城地種類;平山城
築城年代;天正13年(1585)、慶長5年(1600)、元和5年(1619)
築城者;羽柴(豊臣)秀長、浅野幸長、徳川頼宜
主な城主;羽柴(豊臣)氏、桑山氏、浅野氏、徳川氏
文化財区分;国指定史跡、国指定名勝
近年の主な復元等;平成18年に御橋廊下を復元、表坂入り口付近・西の丸西側石垣修理等
天守の現状、形態;層塔型 三重三階 鉄筋コンクリート一部木造

※出典、、、日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
地図;


【御城印】


販売所:和歌山城チケット売り場
場所:和歌山城公園内 天守閣入り口



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