美濃の守護、土岐頼清の次男である頼兼が、康永元年(1342)頃に築城したとされます。
明智城(長山城)跡主郭とされている地点は、現在配水池となっており、旧状はとどめていません。そのほかに、東出丸、搦手曲輪、二の丸、三の丸、西出丸、乾曲輪と伝わる場所があります。
現在の可児市東部から可児市御嵩町西部にかけて、明智荘とよばれた地域(現在の石井・石森・平貝戸・渕之上・柿田・顔戸・古屋敷あたり)に関わりを持ったとされるのが土岐明智氏であり、後に明智光秀を生む一族です。室町幕府の奉公衆としての存在も確認でき、在京していた一族もいました。
後々の記録では、土岐頼兼が明智氏を名乗って、康永元年(1342)に「長山城」を築き、その子孫が代々居城したとあります。また、弘治2年(1556)には、明智光秀の叔父に当たる光安が城主だったとき、稲葉山城主斎藤義龍の攻撃を受けて落城したとされます。
明智一帯は、光秀が織田信長に仕えた後、再度所領として与えられ、代官として石森九郎左衛門が置かれたと言います。
場所は岐阜県可児市瀬田
東海循環道「可児御嵩」IC下車、国道21号線に右折。「柿田」交差点で左折し、県道381号線を南下します。瀬田川を渡り「ぎふワールド・ローズガーデン」のところで右折。最初の三叉路を右に曲がって町内を進みます。突き当たりを右に曲がると菩提寺の「天龍寺」があります。

そこを直進すると左手に明智城「大手口」専用駐車場があります。

〈明智荘を見つめる会〉の施設が常設されていますが駐車可能です。ただしイベント等が開催される日は利用できないので注意が必要です。
イベント情報は同会のHPにて確認要です→こちら

この駐車場の横が「大手道」になります。

明智(長山)城跡 鳥瞰図
※明智荘を見つめる会作成に行動履歴を加筆

大手道(桔梗坂)を進むと「大手門」が出迎えてくれます。
2024年6月〈明智荘を見つめる会〉の皆さんによって完成しました。

左手の山の斜面に刻まれた竪堀跡

同じく帯曲輪

頂上近くになると右手に「中ノ丸」の切り岸が見えてきます。

石畳が整備された「桔梗坂」

山頂分岐

山の反対側、広見地区・羽崎地区からの登り口が頂上まで舗装されています。

順路的にはこの分岐から「中ノ丸」→「本丸広場」と進みますが、自分は分岐から左手方向に登ってみました。
山頂部平坦地には、貯水池(長山配水池)と電波塔の施設が建設されていました。

貯水池の背後にあるフェンスからは土塁のようなものが見えます。

さらには堀切のような人工物も

後に確認したところでは、貯水池建設時のものだそうです。
さらに、背後の尾根を進んでみました。この先、何かありそうですが時間の都合で引き返しました。(本当は怖かった


この施設がある場所は標高181mで、現在本丸広場となっている場所が標高175mと、6mも高く本丸が築かれていたのでは無いでしょうか?
本丸跡の平坦な場所だったので貯水施設を建設するのにうってつけの場所だったのでは?という素朴な疑問が浮かびます。
「中ノ丸」


切岸
大手道から見えていた切り岸です。

中ノ丸からは下を通る大手道が丸見え
駆け上がってくる敵を狙い撃ち、本丸を防御する砦の役割がありました。

「七ツ塚」

「馬場跡」

「馬防柵」

「逆茂木」
現在のバリケード・有刺鉄線のようなもので、枝からはチクチクのとげが生えており、この枯れ枝をズラーッと並べて敵の侵入を阻止します。

「本丸広場」





「西の曲輪」
現在の羽生ヶ丘方面への配水池となっています。

この先、西側の尾根には堀切があったようですが、現在は埋め立てられています。

西出丸


搦手曲輪

「展望台」

目の前には美濃金山城

遠くには冠雪の御嶽山

十兵衛坂を下って乾曲輪方向


乾曲輪の腰曲輪

竪堀群

尾根を分断した堀切
堀切の北側に「乾曲輪」があります。

堀切は谷に向かって竪堀として落とし込まれています。


堀切の向かい、乾曲輪虎口

乾曲輪

切岸

乾曲輪に建つ祠
「六親眷属幽魂塔(ろくしんけんぞくゆうこんとう)」明智一族と家の子郎党を指し、逆臣光秀をはばかって、明智城将兵の供養のために村の人たちによって祀られた。
祠に祀ってある石の下からは、人の大腿骨や鎧の一部の金属、着物の一部と思われる繊維片が発見されました。


乾曲輪北端の小高い部分は見張り台でしょうか?

眺望
明智荘が眼下に広がります。

乾曲輪を後にして山を下りると「搦手門跡」があります。

石仏

搦手登城口

乾曲輪、搦手道方向全景

【まとめ】
城址がある長山の北と南では趣が随分違います。
南は、かつての明智荘があった城下町。いまでも歴史を感じる一帯です。

反対に北側は、山の中腹まで開発が進み、集合住宅や振興の住宅地となっています。なので、高台にある城址に貯水施設を建設したものと思われます。

明智城が、ギリギリその分水嶺となっている感じです。
逆臣明智光秀の関係先と言うことで、史料などは処分されてのでしょうね。敗者は歴史から抹殺され、書き換えられてしまう。
近年ようやく光秀の人物像や功績が再評価がされ、この地を訪れる観光客も増えたようです。
城址南側の旧明智荘の住民にとっては地域の誇りとして、環境整備や街おこしに取り組んでいることがよくわかります。
光秀とこの城を結びつける一次資料が発見され、この城のことがもっと解れば良いと痛切に感じました。
遺構的には、乾曲輪がもっとも残存度が高く見応えがありました。
【御城印】
〈明智荘を見つめる会〉→こちら
配布記事は→こちら


【明智城】
《》
名称(別名);あけちじょう(長山城、明智長山城)
所在地;岐阜県可児市瀬田1238-3
城地種類;山城
標高/比高;175m/80m
築城年代;康永元年(1342年)
廃城年代;伝・弘治2年(1556年)
築城者;明智頼兼
主な改修者;
主な城主;明智氏
文化財区分; 可児市指定史跡
主な遺構;曲輪、土塁、竪堀
近年の主な復元等;
地図;