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富埼城は、山田川が平野に差し掛かる地点の右岸山頂(標高92.5m)に築かれた山城で、別名滝山城・福山城ともいう。この城は戦国時代、越中最大の勢力者だった神保氏の有力支城の一つとして知られる。『越登賀三州志』は、嘉吉元年(1441)神保八郎左衛門が居城したと伝え、それから100年ほど経て、富山へ進出した神保長職が、天文年間(1532~55)に本格的に築城したと考えられる。富埼に城が築かれたのは、そばの長沢が南北朝時代より婦負郡の政治的中心だったこと、また射水郡から飛騨に通じる街道の要地にあたっていたことなどによる。伝承によると、長職は永禄年間(1558~70)居城の富埼城を上杉謙信に攻められ、近くの蓮華寺で討ち死にしたという。しかし、当時の資料によると、長職は永禄5年(1562)の戦いで謙信に降り、その後は増山城(砺波)に本拠を移し、上杉氏に属した。元亀2年(1571)12月以降に長職が没すると、富埼城には長職の旧臣水越氏が一向一揆と共に城内に立て籠もり、翌年9月、謙信に攻められ落城している。この時、謙信は城内を悉く焼き払い、城を取り壊したという。
天正年間(1573~92)には、一時期上杉氏が支城として使ったとみられ、同9年(1581)には、長職旧臣の寺嶋牛之助らがここを拠点に織田方に対抗した。しかし、同年5月、城を攻められた牛之助らは城に火を放って、五箇山へ落ちのびていった。富崎城はその後、佐々成政の支城となり、城尾城(八尾)の斎藤氏攻めの拠点として使われたとみられるが、詳細は不明である。廃城になったのは、遅くても成政が秀吉に降伏した天正13年(1585)頃と考えられる。
山城としてはそれほど高くないが、山田川に臨む断崖で守られ、二重の空堀や広い郭、井戸などを備え、馬出を設けている点も注目される。旧婦負郡の中でも、有数の規模を誇る山城跡であり、今も遺構を良好に残している点で貴重である。近年まで主郭(本丸)付近から落城の際の焼き米が出土したといわれる。
、、、現地案内板より(富山市教育委員会)
場所は富山県婦中町富埼
富山市と砺波市を結ぶ国道359号線(通称音川線)が472号線と交差する「長沢西交差点」を八尾方向に進み、山田川を渡ると「城山中学校」が右手に見えてきます。その先「富埼西」交差点を右折。(クリニックの交差点です)
富崎町内を抜けると「八阪神社」前に出ますので、神社左側の「林道」を登ります。
林道終点は「丘の夢牧場」で、ゲートの横に「富埼城跡」の案内看板が建っています。
城跡全景(南側より撮影)
牧場ゲートから城跡看板に従い農道を3分位歩くと、左手に大きな説明看板が建っています。
周辺の道と城跡の縄張り図は以下の通りです。(安田城資料館提供、、、佐伯氏著越中城郭地図)※ブログ管理者加筆
大型説明看板の北側10m程のところに登城口があるのですが、今の時期下草が伸び藪となっています。
どうしたものかと不安になりましたが、なんとなく人が通った跡(草が踏み倒された跡)のようなものをみつけ跡を辿っていくと、藪の先には杜が広がり視界が開けてきました。鬱蒼とした雑木林の中は日差しが届きにくいので、下草が生えにくいのでしょうね。
進入ルートは縄張り図の「黒い実線の矢印」で示した通りです。
D郭の北側から入ってA郭に至ったわけですが、まずは「井戸」を目標に南下しました。
「A郭(主郭=本丸)」
規模は約120m×75m
中央部の一段高い場所に「神保城址」の標柱が建っています。
杜の中で人工物を発見して少し安堵しました(笑)
「富埼城址」ではなく「神保城址」と表記したのは、ここの城主で一帯の領主でもあった神保氏に対するリスペクトなのか、地元で愛されている証拠ですね。
余談ですが近くには神保氏の名前が残る「神保小学校」が実在しています。
「井戸」
この一段高い盛り土された場所は城主の居館があったのでしょうか? 現在でも枯れることのない直径が約2.6mもある井戸が残っています。
「内堀」
井戸の南側には内堀と呼ばれる空堀があります。
上幅11m~14m、深さ2mもある大規模なものです。
この空堀は東側の山田川に面した崖から、A郭とD郭を区切るように北方向に屈折して伸びています。また、主郭であるA郭と南側のC郭を分断する役割もあります。
「B郭(馬出)」
そしてC郭に至る通路として空堀には土橋が架かり、その先は約21m×14mもある馬出(B郭)によって厳重に防御されています。
自分のようなミーハー素人には「馬出」がハッキリとは認識できませんでしたが、縄張り図を見て想像を膨らませるのが精一杯です(;^ω^)
「外堀」
馬出を抜けると「外堀」という案内看板が見えてきます。それに従って進むと城外への出入り口のような場所に出ました。
縄張り図では「破線の矢印」で示したところです。
先ほど歩いてきた丘の夢牧場ゲートから大型説明看板までの、農道に面した城域の東面にあたります。
外堀とC郭は高さが2.5mもある切岸で守られています。
「C郭(副郭)」
城内では最も広く(約160m×75m)、南側のヘリに土塁を築き、空堀と外堀で守られています。
高さは約2.5mもある東面切岸
南面空堀
上幅約8~12m、深さ約3~3.5mもあり、西側は山田川に面した崖に至る
西側の崖に施されている現在の護岸工事とフェンス
積雪を受け谷側に曲がった松の木が厳しい自然環境を物語る
「D郭」
A郭とC郭を守る東の曲輪で、東面は高さ約4.5mの切岸が施されている。
東面には虎口があって城下との出入りに使われていたようです。
この先はクランクして防備を固める工夫がされています。
A~C間を分断する東西の空堀が屈折して北に延び、A~D間を南北に分断している。
深さはさほどでもないが、上幅が広くそれ自体が曲輪のようにも感じる。
途中土橋のような箇所があり、主郭A郭と繋がっているようにも感じた。
「大手口」
山田川に近い北側に、麓からの登り道に通じる出入り口(大手口)がある。
北側尾根を分断する堀切
尾根の反対側から見た主郭側
この堀切は農道からの出入り口(縄張り図の実践矢印部)を跨いで、A~D間の空堀に繋がっているようにも感じました。
城跡東側の農道を北端へ向かって歩いてみました。そこは山田川に面した崖で行き止まりでした。
やはり、先ほどの堀切のある急峻な尾根が唯一北側の大手となっています。
農道を夢の丘牧場ゲートの方向に戻る途中、土塁の切れ目に気が付きました。
これは先ほどD郭でみた虎口の外側にあたり、縄張り図の破線矢印で示した、当時の侵入経路と推定されています。
築城者で婦負・射水二郡の守護代神保氏が没落後、一向一揆・上杉方越中土豪が在城しその際「馬出」などが改修されたと考えられています。
山田川の河岸段丘を背に広大な平坦面が広がる山腹にあって、比較的訪れやすい城跡でした。
【富埼城】
名称(別名);とみさきじょう(滝山城)
所在地;富山県婦中町富埼
城地種類;山城
標高/比高;比高60m
築城年代;嘉吉元年(1441)
廃城年代;
築城者;神保八郎左衛門
主な改修者;水越氏、上杉氏
主な城主;神保氏、水越氏、寺崎氏
文化財区分;
主な遺構;曲輪、土塁、内堀、外堀、切岸
近年の主な復元等;
※出典、、、
地図;
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