きもちはでこぼこ

文章を書くのが好きです。
普段のなんてことないことを書いてます。

ただでは歩けない 

2024年11月28日 | 日記

昔は電車の中で本を読んだり新聞を読んだりしてる人がたくさんいた。

満員電車の中でも新聞を半分や四分の一くらいに折って読んでいる人がいたけど

今はほとんどスマホなんだろうな。

 

最近は新聞なんて広げてる人は見なくなったなぁと

思ったら、きのう新聞読んでる人がいた。しかも歩きながら

新聞は半分の大きさだけど結構広がってる。

向こうから来たときは、新聞だけがこっちに向かって歩いてるようだった。

あんなんで前見えるのだろうか? たぶん見えないな

足元だけちらちら見ながら歩いてるんだろうか?

急に車や自転車や子供が飛び出して来たらよけられまい。

 

歩きスマホも危ないけど歩き新聞も危ないな。

いつだったか歩きながらカップ焼きそばを食べてる人がいた。

いやカップ焼きそばを食べながら歩いてるだけか。どっちでもええわ。

いつの世にも変な奴はいるんだな。

 


ちゃんと作ればちゃんとおいしいのだ。

2024年11月24日 | 日記

 

「きのう何食べた?」っていうコミックはずっと好きで

いまだに図書館で借りて読んでいる。

実写化されてドラマにもなってそっちも見てる。

男性カップルの話なのだけど

毎日の生活は男女のカップルとそんなに変わらなくて

話の中で出てくる毎日の食事はいつもおいしそうで

仕事から帰って作る簡単なものから休みの日に作る本格的なカレーとナンや

クレープなんかも出て来て

下手な女性よりもまめに作ってるから

「こんな恋人、私が欲しい」と思う。

 

この前読んでた19巻でピーマンの肉詰めが出てきたので

久々に作ってみようと思った。

いつも分量など計らずに適当に作ってピーマンと肉だねが

分かれてしまったりして、「肉詰めってこれよくあるんだよな」なんて思いつつ

おいしかったからいいか、で済ませてきたけど

たまには書いてある通りにやってみますか。

洗ったピーマンは縦半分に割って、へたと種を取る。

最近は種も食べられるのだから何も取らずに肉を詰めて焼く、って

レシピも多いから、好きな人はそっちでいいかも。

この種やわたが肉だねを固定させてはがれにくくなっていいとか

種も火が通ると全然分からなくなるとか。・・・・ほんとか?

 

中身を取って並べたところ。いや並べなくていいんだった。

肉を詰めた時にはがれないように粉を(片栗粉でも小麦粉でも)

まぶす作業があるので

 

私はポリ袋にピーマンを全部入れて粉をパパっと入れて

シャカシャカ振り回す。こうすると簡単に粉がまぶされる。

内側だけでいいのだけど外にもしっかり付いてる。あははは。

 

でもって肉だねを詰めて あんまり山盛りにしないのがいいんだって。

いよいよフライパンで焼く。

肉の面をフライパンにつけて焼いて、いい色に焦げ目がついたら

肉の面を下にしたまま、水とケチャップ、ソース、めんつゆ、酒を

入れて蓋をしてコトコト。

水分が飛んでトロッとして来たら出来上がり。

 

ピーマンの肉詰めはピーマンと肉だねがはがれやすいところが

いつも困っていた。

そっか、途中でピーマンをひっくり返さないで

蒸し焼きにすればよかったんだ。

 

いつも何個かは皮がはがれていたのに

今回は一つもはがれなかった。簡単な事だったのに

何で今までひっくり返していたんだろう。

 

コミックに教わることもあるんだな。

食事って初めてのものはレシピ通りに分量を測ったり

切り方を揃えたりやってるのに、作りなれたものは

ついつい自己流でやってたんだな、と思ったり。

 

料理本や料理番組で紹介しているものは

その調味料の量を決めるために何度も作り直すそうだ。

ある料理家はもう何年も料理番組に出てるベテランなのに

翌日の料理番組の収録前には寝ていても考えるそうだ。

大さじ2のしょうゆを「いや、大さじ1.5がいいのかも」という感じで

収録のぎりぎりに変更したり

細かく調整するという話を聞いた時、とても驚いた。

そして他の料理家の話では、本にするまでその家族は何度も何度も同じ料理が食卓に並び

嫌というくらい同じ料理を食べることになるとか。

 

もちろん、料理家によってはみんなそうではないだろうし

本の評価を見ると「どれも味が決まらずまずかった」なんて

評価がとても悪いものもある。

 

味覚というものはみんな違うから誰かがおいしいと言っても

すべての人がそう思うはずはない。

ただ、どこかで紹介してるのは、私たちが

知らないところで何度も微調整を繰り返してるのかも。

 

大胆に大雑把に作っておいしいものもあるのだけど

たまには料理家のレシピにそって

丁寧に作ってみるのもいいのかも、と思った日だった。

 

 

 

 

前にやってたブログにも「きのう何食べた?」のことは

書いてました。

こちらも よかったら。

   ↓

だからどうした:普通のしあわせ

 


食べるってどういうことなんだろう

2024年11月19日 | 日記

朝はだいぶ冷え込んでる。

夫が早く出かけてしまったので私は洗濯をして一息。

さて、朝ごはん何にしようか。

こんなことを考える時間も楽しい時間だ。

 

買っておいたそうめんを一束ゆでる。

あっという間に茹った。流水でしっかり洗って

水けをきって、だし、しょうゆ、みりんで作っためんつゆを沸かして

そこにそうめんとしめじと油揚げを入れて軽く煮る。

 

どんぶりに入れてねぎをいっぱい散らしただけの

かんたんなもの。 

写真を撮るほどでもないくらいの地味なもの。

だけどあえて写してみる。

 

簡単だけど、きのこや油揚げから味が出て

そうめんはしこしこして「おいしいなぁ」としみじみ。

ひとりで食べていても誰かと食べていても

ちゃんと味わいたい。

 

 

「ながら食べ」をする人が多いそうだ。

何かをしながら、という意味の「ながら食べ」

中でも多いのがスマホを見ながら、だそうで

2024年の調査では10代~20代の8割がスマホを見ながら食事しているそうだ。

 

 

 

あるラーメン屋さんでは注文したラーメンが目の前に来ても

スマホを見てて食べるのにとても時間がかかったりして困って

そのせいで回転率が下がってしまったとの事。

店主は困ってしまって、

「スマホを見ながらの食事を遠慮して下さい」と

メッセージをテーブルの近くに置いたところ8割の「ながら食べ」していた人が

4割ほどまで減ったそうだ。 それでも4割か。

 

スマホを見ながらの食事は食べ物に集中しないため

ダラダラ食べたりスマホに夢中でやたらに早食いになったりして

健康にも影響があるとか。

 

 

街中でのインタビューでも「ながら食べ」をしてますか?と

質問するとスマホを片手にもったまま食べるとか

テーブルに置いて見ながら食べるというのは当たり前になってるようで

なぜ『ながら食べ』をするのかという質問には

「食べ物に興味がないから」「食べてる間、暇だから」

「時間がもったいないから」

「食べ物なんて、おなかに入ればいいだけだから」

そんな理由だったのが何だか腹が立つ。

 

食べ物に興味がないって何だろう?

とにかくスマホを触りたいだけ、スマホにばかり気をとられ

無意識に口に物を運んでいる様子は、想像するだけでもとても気持ちが悪い。

 

ひとりでいる時や仕事に追われてその短時間で食べるものは

「ながら食べ」になることはあるだろうし

わからないでもない。

 

 

だけど お店で食べるもの、家で自分以外の誰かが用意してくれたものを

食べるときはそれはマナー違反じゃないかなと思う。

ラーメンだって定食屋のご飯だって、それが一番いい状態で

出してくれてるんじゃないかな。

ゆでたてとか揚げたてとかね。

 

お店で食べるものはお客さんがお金を出してるんだから

どんな食べ方をしようが自由だという人がいるけど

食べる方にも礼儀ってあるんじゃないか。

目の前に置かれても写真を撮りまくって、なかなか手を付けない。

SNSにあげて人からの評価は欲しがるくせに

食べ方が汚かったり、たくさん残したり

「いただきます」も「ごちそうさま」も言えない人が多い。

 

「いただきます」って言葉は何かの、誰かの命を「いただく」ということ。

そして誰かがおいしく調理してくれたものを「いただく」

ということでもあるのかも。

 

奥さんや母親や恋人が作った食事をそんな風に「ながら食べ」できる人

それはマナーだの健康問題だのではなく思いやりもない。

自分が作った料理をそんなスマホ片手で食べられたら

私なら「食べなくていい」とさっさと料理を下げるかも。

 

子供の頃から家でそういう食べ方をしていたら

親が何も言わなかったんだろうか。

 

料理を出す方は 

温かいうちに食べてもらいたい、これを食べて元気になってもらいたい

季節を味わってもらいたい という気持ちではないか。

 

食べ物を用意するのには手間暇だけじゃなくて

たくさんの気持ちが入ってる と私は思う。

自分が逆の立場に立って誰かのために作ったものを

そんな食べ方されてもいいのかな。

 

「口に入ればいい」とか「食べ物に興味がない」って人は

そこまでは考えないってことなのかな。

 


アボカドその後

2024年11月07日 | 日記

前回載せたアボカド3兄弟は

こんな感じだったけど

一番奥のアボカドが少し育って

 

 

葉っぱが出て来ました。

茎もぴよーんと伸びてきた。

 

この種を載せるためのお皿が

なかなかちょうどいいのが見つからず

樹脂粘土でムチムチこねて作ってみました。

写真で見ると紙みたいだけど

種を乗っけても安定が悪かったクリアファイルから卒業して

アボカドの種も一安心 

・・・・してるかどうかは知らんけど。


何でもない日が愛おしい。

2024年11月01日 | 日記

山本文緒 の「無人島のふたり」を読んだ。

全く内容も知らずに読んだ。


「私は突然すい臓がんと診断され」

という前書きがあって、あ、これはがんにかかった人の

それからの闘病記 またはそういう小説かな?と思って

いや、もしかしたらと本文を読む前に最後の方を

のぞいてみる。

本文が終わった後のページに

2021年 10月13日 すい臓がんのため58歳で逝去

とあって、本人の事だったんだと思う。

 

無人島のふたり


突然20フィートの大波に襲われ

ふたりで無人島に流されてしまったような

世の中の流れから離されてしまったような我々が

これから少しずつ親しい人を無人島に招待してお別れの挨拶を

(こころの中で)しようと思っている

と書いてあった

 

 

それで「無人島」なのか。 

すい臓がんは気が付いた時には

もう手遅れという場合が多いから、きっと著者もそうだったのだろうか。

 

いかにも闘病記という感じのはわざわざ読む気がしないけど

この「無人島のふたり」というタイトルからは

そんな感じがしなくて、名も知らない小さな無人島で夫婦二人で

過ごした日々の記録、くらいに思わせるこのタイトル、

ちょっといいなぁと思った。

 

内容は日記形式でその日の体調などが記されていて

病気なんてどこにやら、という感じの日もあるし

真剣に死について考えるような日もある。

 

病気じゃなくても、人はいつ死ぬかわからないのに

今日とか明日とか死んでしまうかも?なんて思って暮らしてる人は

少ないのでは?

当たり前に今日を過ごして当たり前に明日は来ると思ってる。

 

私は40代から50代にかけて友達や知り合いが数人亡くなって

まだまだ若いしやりたいこともあって

こんな年齢で死んでいくなんて無念だろうな

そう考えたら

やっぱり生きてるうちにやりたいことをしないと後悔する

そうだ、いまだからこそできることをしなくては!

その時は思っていたのに 特に何かやるわけじゃない。

 

私の毎日なんて 

ほとんど同じような繰り返しで

かわり映えのしない毎日なんだよなぁ。 いいのか私。

 

 

そんな何でもない平凡な毎日だけど、いざ余命を知らされたり

体が不自由になったりすれば、当たり前に過ごしていた日々が

とても大事で愛おしいものになるのだろうか。

 

自分の足で歩いて自分の目で見て、普通にごはんが食べられて

当たり前にできていたことが、急にすごいことに思える。

出かけたいと思ったところに出かけて

食べたいものを食べられるのは、当たり前のことではないのかも。

 

ここまで生きてきたのだから

やりたいこともあんまりないし、今死んでしまったとしても

それほどでもない、と思ったりすることもある。

著者もそんな風に書いてあったのに

でもいざ、数か月後にこの世から自分が消えるとなると

どんなことをしてもいいから、どんな状態でもいいから

生きていたい、と思う と 書いてあり

うーん そうなんだろうなとしみじみ思う。

 

かわり映えない毎日でも期限が付いたら

やっぱりもっと生きたい、 と 思うのだろうか。