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謎多き書『万葉集』(2)【動画紹介】ヒトコトリのコトノハ vol.68

2024年08月30日 | 動画紹介
☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
 ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!

 ●本日のコトノハ●
  本来漢字のみで書かれた『万葉集』は、今日の私たちには❝よみにくい❞ものという印象を与えます。
  そして、その❝よみにくさ❞を克服するために、平安時代に平仮名が発明され、これによって和歌を
  書き記すようになったと考えがちです。(中略)しかし、八世紀に定着した『万葉集』の《文字法》は、
  平安時代でも、漢字に通じ、歌の表現に馴染んでおり、さらに、何を書き何を書かないかのルールを
  習得した人々にとっては、❝よみやすい❞ものであったと思われます。

 『万葉集 隠された歴史のメッセージ』小川靖彦(2010)角川学芸出版より


 万葉集における漢字の使い方は独特です。
 現在の用い方と違うということも言えますが、法則性に乏しく、何故そのような使われ方をしたのかを理解するのが難しいのではないでしょうか。
 もちろん、専門家にとっては解読可能なものなのでしょうが、現在でもどのように読むのかが明らかにされていない歌が残っているのも事実です。
 つまり、誰もが簡単に読んで理解できるようには作られていなかったということなのです。
 この点は、『万葉集』以降に作られた『古今和歌集』との大きな違いの一つと言えると思います。

 現代における「文字」の役割は、情報や意志の伝達及び共有、もしくは知らない人間同士が友好的な関係を築くための交流ツールだと考えられます。
 それは万葉の時代でも同じものであったと推測できますが、『万葉集』という形のある書物として残す場合は、一般に使われている文字ではない特別な文字が特別な使い方で採用されたのではないかと、私は考えています。
 そして、和歌に対する捉え方も今とは違ったのではないでしょうか。

 現在では、和歌は文芸作品の形態の一つとして、つまり学問や教養として日本文化を表現するものと認識されていると思いますが、『万葉集』が作られ始めた時代は、まだ言葉に魂が宿ると本当に信じられていた頃であり、「呪い」や「祈禱」が現代の科学技術や医療に代わるものでもあったようです。
 実際に、人を呪った罪で処罰される例が少なくなかったのです。(今だったら冗談かと思われますよね。)

 そんな中、決められた字数の中に言葉をはめ込む和歌という行為は、単なる教養を超えたほとんど儀式に近かったと言っても過言ではないかもしれません。
 今のように、手軽に紙に書いては消し、何度も書き直すなどということはできません。
 心の中で言葉を選びに選び、組み立て、練りに練ってようやく出来上がったものをそのまま詠みあげるのです。
 自分の中で何度も反芻するうちに、その言葉に自分の魂が乗り移ったような気持になるのではないでしょうか。
 そのようにして出来上がった和歌には、何らかの魔力があると人々が信じたとしても不思議はないかもしれません。

 『万葉集』の当初の役割は、そんなふうに生み出された人々の言魂を収録し、封じ込めておくことだったのではないでしょうか。
 当時の権力者たちは、自分たちが倒した相手から恨まれることを警戒していました。
 都に起こる凶事や疫病の流行、天変地異などはすべて、自分たちに恨みを持つ人々の怨念によるものと信じていたのです。

 自分たちに災いが降りかからない防衛として、言葉の中に彼らの怨念を封じ込め、『万葉集』という檻の中に収監しておきたかったのではないかと思うのです。
 だから、使う文字は特殊なものでなければならなかった。一般の人が軽々しく口にできるものではダメだったのです。
 ところが時が経つにつれ、和歌や言葉が本来持っていた呪術性は薄れていき、それらが知識人としての基礎教養、習得すべき学問の一つとなると、『万葉集』の法則性を持たない文字の使い方が、言語としての欠点として捉えられてしまうのです。

 『万葉集』を単なる和歌集とみなし、その特殊な文字の使い方に不満を持ち、学問的に正しい和歌集『新撰万葉集』を作ろうとした人物がいました。
 その人こそ、学問の神様として知られている菅原道真です。
 道真が『新撰万葉集』に収めた和歌はすでに文芸作品になっており、本家『万葉集』に閉じ込められている怨念とはまったく種類の違うものだったのです。

 道真は学者としての立場から、旧来の『万葉集』に代わるものを作ろうとしたのですが、その結果、幾万もの言魂たちの怒りに触れてしまい、呪われてしまったのかもしれません。
 エリートでありながら、理不尽なやり方で失脚させられ罪人として最期を迎えた道真は、死後は怨霊と呼ばれ、とうとう学問の神様にまでなりました。
 これほどまでに、ドラマティックな人生を送った人は珍しいのではないでしょうか。
 そんな道真が辿った運命を裏で操っていたのは『万葉集』に宿っている言魂や怨念だったのではないか…
 こんな文学ミステリー&ホラーはいかがですか。


(本記事は科学的あるいは学術的根拠に基づいて書かれているわけではありません。フィクションとしてお楽しみください。)


ヒトコトリのコトノハ vol.68


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