☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
ヴァイオリンと奏者の関係は、たんなる演奏者と楽器というだけではない、ときにミステリアスな絆を感じさせる。
ヴァイオリニストはいうまでもないが、蒐集家、愛好家など、ヴァイオリンをこよなく愛する人の多くが、
あたかも心があり、血が通った生き物であるかのように、この楽器のことを語る。
『悪魔と呼ばれたヴァイオリニスト パガニーニ伝』浦久俊彦(2018)新潮社
私が今使っているヴァイオリンは、中学生の時に兄から譲り受けたものです。
言わば「お下がり」です。
私と二人の兄はみな、地元のヴァイオリン教室に通っていました。
上の兄は、音楽高校を受験する時に専攻をヴァイオリン以外にしたので、先にその教室を卒業し、下の兄は私たちの中で一番上手だったので、より専門的な先生(東京に住んでいる音楽大学の教授)のレッスンを受けるため、やはり私より早くヴァイオリン教室を卒業しました。
そして、その高名な先生からのアドヴァイスで、両親はプロのヴァイオリニストたちが使う本格的な楽器を下の兄のために買いました。
イタリア製の何百万もするヴァイオリンを弾くことになった兄は、もうそれまで使っていたドイツ製で、ケースと弓を合わせても百万もしないヴァイオリンには見向きもしませんでした。
その楽器こそ、私が中学生の頃から四十代の今まで、四半世紀近く弾き続けているものです。
兄が高名な先生から「音楽大学の受験では使えない」と言われたその楽器で、私は音楽大学の入試を経験しました。
見事に落ちましたが、それは楽器のせいというよりも、私自身の技術やヴァイオリニストとしての素質が足りなかったせいだと思います。
当時所属していた、アマチュアの市民オーケストラでは、コンサートミストレスを務めたこともあります。
ちょっとした演奏会で、私のヴァイオリンの音を聞いた何も知らない知人からは「(値段の)高そうな楽器だね!」と言われたこともあります。
高校の時のヴァイオリンの先生が、私の楽器を弾いたことがあったのですが、自分の楽器とは思えない見事な音がしたので、決してその楽器が使えない代物というわけではないと思います。
ただ、イタリア製の楽器は、よりよく音が響く構造をしているので、輝かしい音色で楽器としての存在感を示したり、聴く人に強い印象を残すという点では非常に優れていると言えます。
とても耳の肥えた聴衆の中には、イタリアのヴァイオリンの華々しさ一辺倒の音色に物足りなさを感じ、ルーマニアなど東欧で作られた楽器や、フランスやドイツ製の楽器の素朴ながらも品のある音色を好まれる人もいます。
でも、それはほんの一部の耳の鋭い人たちの話で、たいていの人はイタリアの楽器も、その他の楽器も同じ音色に感じるようです。
私自身は子どもの頃からずっと、いろんなヴァイオリンの音を聞き続けているので、なんとなくは音の違いを感じることができます。
自分の楽器より良い音のする楽器は沢山ありますし、ヴァイオリニストの知人や音楽教室の同僚の先生が使っている楽器は、かつて兄が両親から買ってもらったものと同等、もしくはそれ以上のものだということも、音を聞けば分かるのです。
大人になって、兄は今度は自分のお金で新しく楽器を買いました。
そして、それまで使っていたイタリア製のヴァイオリンは弾かれることなくしまわれています。
私はこの先、どんなにお金持ちになっても(その可能性はないけれど)、自分のために新しい楽器を買うことはないと思います。
そこまで音楽に情熱を持てないということもありますが、誰にも弾かれないヴァイオリンが時と共に楽器としての機能を失っていくことを知っているので、今使っている楽器をそんな目に遭わせたくないという気持ちがあります。
ただの木の箱としてケースにしまわれたままの楽器に、兄たちよりは私の音楽的能力が低いと認識していたにもかかわらず、音楽以外の選択肢を与えずに、ただ漠然と「音楽家」になることを強要し続けた両親と私の関係を重ねて見てしまっているのかもしれません。
両親は盲目的に私に音楽を続けさせましたが、私の仕事、将来のことには無関心でした。それどころか、努力して確保した仕事でも、兄たちのように誇れるものではないと、完全に無視をするか、鼻で笑うかのどちらかでした。
それでも、常に音楽の勉強しか許されていなかった私には、他にできることがありませんでしたし、世間からも「音楽を続けている人」と思われるので、音楽から一般の仕事に移行することもできませんでした。
常に兄たちとの比較において低評価をされ、自分なりに頑張っても無視されながら続ける音楽が楽しいと思いますか?
「音楽を仕事にしている人は音楽が好きだ」と思い込んでいる人がなんと多いことか。
「好きなことを仕事にできて羨ましい」という考えが「遊びが仕事で楽している」とまで飛躍して思う人がいるらしく、音楽の仕事をしているということの世間的な捉えられ方に苦しめられることもあります。
三十代の頃は、楽器を構えるだけで吐き気がしたり、胸がギュッと締め付けられて涙が出てしまうこともありました。
ヴァイオリンを見たくもない触りたくもない、誰かが弾いている音を聞くことも嫌で仕方ない時期がありました。
それでも、何かをしなければ社会の中では生きていけないと、自分に言い聞かせて、なるべく感情を無にして、何も感じないように、自分の中の喜怒哀楽を無視して、ただ機械的に楽器を弾き続けました。
この経験を経て、私は自分自身のことでも客観的に、まるで他人事のように考えるようになりました。そうでなければ、辛過ぎて現実世界では到底生きていけないからです。
それはともかく、ヴァイオリンは弾き手との相性がとても重要な楽器だと思います。
より派手な、輝かしい音を求める人にとっては物足りなく感じる私の楽器は、あまり音楽に積極的になれない私には丁度良い響きの楽器ですし、長年弾き続けている私だからこそ出せる音もあります。
私以外の、私よりも上手な弾き手(例えば、兄)が私の楽器を使っても、良いパフォーマンスはできないでしょうし、私もイタリア製の高額のヴァイオリンを弾けば、必ず最高のパフォーマンスができるとは限らないのです。
1000万円以上もするヴァイオリンさえ手に入れれば、その日から良い仕事ができると思うのは間違いです。
まるで、人付き合いをするように、長い年月をかけて出来上がる(逆を言えば、それでしか成り立たない)ものが、弾き手とヴァイオリンの間にはあります。
演奏が上手か下手かという視点で音楽を捉える人は多いと思いますが、ヴァイオリンの演奏を聞く時は特に、その人が楽器とどのように付き合ってきたか、弾き手とヴァイオリンの関係性にも目を向けてみると、また違った音楽鑑賞の楽しさが感じられるかもしれません。
ヒトコトリのコトノハ vol.67
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
ヴァイオリンと奏者の関係は、たんなる演奏者と楽器というだけではない、ときにミステリアスな絆を感じさせる。
ヴァイオリニストはいうまでもないが、蒐集家、愛好家など、ヴァイオリンをこよなく愛する人の多くが、
あたかも心があり、血が通った生き物であるかのように、この楽器のことを語る。
『悪魔と呼ばれたヴァイオリニスト パガニーニ伝』浦久俊彦(2018)新潮社
私が今使っているヴァイオリンは、中学生の時に兄から譲り受けたものです。
言わば「お下がり」です。
私と二人の兄はみな、地元のヴァイオリン教室に通っていました。
上の兄は、音楽高校を受験する時に専攻をヴァイオリン以外にしたので、先にその教室を卒業し、下の兄は私たちの中で一番上手だったので、より専門的な先生(東京に住んでいる音楽大学の教授)のレッスンを受けるため、やはり私より早くヴァイオリン教室を卒業しました。
そして、その高名な先生からのアドヴァイスで、両親はプロのヴァイオリニストたちが使う本格的な楽器を下の兄のために買いました。
イタリア製の何百万もするヴァイオリンを弾くことになった兄は、もうそれまで使っていたドイツ製で、ケースと弓を合わせても百万もしないヴァイオリンには見向きもしませんでした。
その楽器こそ、私が中学生の頃から四十代の今まで、四半世紀近く弾き続けているものです。
兄が高名な先生から「音楽大学の受験では使えない」と言われたその楽器で、私は音楽大学の入試を経験しました。
見事に落ちましたが、それは楽器のせいというよりも、私自身の技術やヴァイオリニストとしての素質が足りなかったせいだと思います。
当時所属していた、アマチュアの市民オーケストラでは、コンサートミストレスを務めたこともあります。
ちょっとした演奏会で、私のヴァイオリンの音を聞いた何も知らない知人からは「(値段の)高そうな楽器だね!」と言われたこともあります。
高校の時のヴァイオリンの先生が、私の楽器を弾いたことがあったのですが、自分の楽器とは思えない見事な音がしたので、決してその楽器が使えない代物というわけではないと思います。
ただ、イタリア製の楽器は、よりよく音が響く構造をしているので、輝かしい音色で楽器としての存在感を示したり、聴く人に強い印象を残すという点では非常に優れていると言えます。
とても耳の肥えた聴衆の中には、イタリアのヴァイオリンの華々しさ一辺倒の音色に物足りなさを感じ、ルーマニアなど東欧で作られた楽器や、フランスやドイツ製の楽器の素朴ながらも品のある音色を好まれる人もいます。
でも、それはほんの一部の耳の鋭い人たちの話で、たいていの人はイタリアの楽器も、その他の楽器も同じ音色に感じるようです。
私自身は子どもの頃からずっと、いろんなヴァイオリンの音を聞き続けているので、なんとなくは音の違いを感じることができます。
自分の楽器より良い音のする楽器は沢山ありますし、ヴァイオリニストの知人や音楽教室の同僚の先生が使っている楽器は、かつて兄が両親から買ってもらったものと同等、もしくはそれ以上のものだということも、音を聞けば分かるのです。
大人になって、兄は今度は自分のお金で新しく楽器を買いました。
そして、それまで使っていたイタリア製のヴァイオリンは弾かれることなくしまわれています。
私はこの先、どんなにお金持ちになっても(その可能性はないけれど)、自分のために新しい楽器を買うことはないと思います。
そこまで音楽に情熱を持てないということもありますが、誰にも弾かれないヴァイオリンが時と共に楽器としての機能を失っていくことを知っているので、今使っている楽器をそんな目に遭わせたくないという気持ちがあります。
ただの木の箱としてケースにしまわれたままの楽器に、兄たちよりは私の音楽的能力が低いと認識していたにもかかわらず、音楽以外の選択肢を与えずに、ただ漠然と「音楽家」になることを強要し続けた両親と私の関係を重ねて見てしまっているのかもしれません。
両親は盲目的に私に音楽を続けさせましたが、私の仕事、将来のことには無関心でした。それどころか、努力して確保した仕事でも、兄たちのように誇れるものではないと、完全に無視をするか、鼻で笑うかのどちらかでした。
それでも、常に音楽の勉強しか許されていなかった私には、他にできることがありませんでしたし、世間からも「音楽を続けている人」と思われるので、音楽から一般の仕事に移行することもできませんでした。
常に兄たちとの比較において低評価をされ、自分なりに頑張っても無視されながら続ける音楽が楽しいと思いますか?
「音楽を仕事にしている人は音楽が好きだ」と思い込んでいる人がなんと多いことか。
「好きなことを仕事にできて羨ましい」という考えが「遊びが仕事で楽している」とまで飛躍して思う人がいるらしく、音楽の仕事をしているということの世間的な捉えられ方に苦しめられることもあります。
三十代の頃は、楽器を構えるだけで吐き気がしたり、胸がギュッと締め付けられて涙が出てしまうこともありました。
ヴァイオリンを見たくもない触りたくもない、誰かが弾いている音を聞くことも嫌で仕方ない時期がありました。
それでも、何かをしなければ社会の中では生きていけないと、自分に言い聞かせて、なるべく感情を無にして、何も感じないように、自分の中の喜怒哀楽を無視して、ただ機械的に楽器を弾き続けました。
この経験を経て、私は自分自身のことでも客観的に、まるで他人事のように考えるようになりました。そうでなければ、辛過ぎて現実世界では到底生きていけないからです。
それはともかく、ヴァイオリンは弾き手との相性がとても重要な楽器だと思います。
より派手な、輝かしい音を求める人にとっては物足りなく感じる私の楽器は、あまり音楽に積極的になれない私には丁度良い響きの楽器ですし、長年弾き続けている私だからこそ出せる音もあります。
私以外の、私よりも上手な弾き手(例えば、兄)が私の楽器を使っても、良いパフォーマンスはできないでしょうし、私もイタリア製の高額のヴァイオリンを弾けば、必ず最高のパフォーマンスができるとは限らないのです。
1000万円以上もするヴァイオリンさえ手に入れれば、その日から良い仕事ができると思うのは間違いです。
まるで、人付き合いをするように、長い年月をかけて出来上がる(逆を言えば、それでしか成り立たない)ものが、弾き手とヴァイオリンの間にはあります。
演奏が上手か下手かという視点で音楽を捉える人は多いと思いますが、ヴァイオリンの演奏を聞く時は特に、その人が楽器とどのように付き合ってきたか、弾き手とヴァイオリンの関係性にも目を向けてみると、また違った音楽鑑賞の楽しさが感じられるかもしれません。
ヒトコトリのコトノハ vol.67
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