☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
信長という人は、ご飯をたべる作法がダメだった。この作法は、室町幕府が作ったもので、いわゆる
小笠原流というものです。室町礼式は、日本人のなかに最初に確立した礼式で、今日の私たちも
その拘束を受けているわけです。たとえば婚礼の結納やらややこしい形式は、室町時代にできあがった。
室町幕府は、南北朝の争乱のなかから出てきた粗野な大小名どもを礼式で拘束していこうとした。
漢の高祖も儒者の進言を容れてそれをやりましたが、これは為政者の知恵なんでしょうが、
ともかく礼式というものが、日本の室町文化、近世文化の源泉のひとつになっている。いまのような
無礼式時代はきめのこまかい文化が育ちませんが、礼式というタブロウで人間をしばるばあい、
そのタブロウのなかで人間というのはこまやかな文化的作業をします。
『手掘り日本史』司馬遼太郎(1990)文藝春秋より
かつて日本には「水と安全はタダ」という神話がありました。
世界的に見ても、水道水が飲める国というのは珍しいようです。(ちなみに、田舎の私の家は井戸水を利用しているので、一度沸かして冷ましたものを飲料水や料理に使います。)
また、日本が治安の良い国だということは、かなり前から世界的に評価されていることで、海外から日本に移住したり、旅行で訪れる人たちの一番の理由が、この国の治安の良さであることもよく耳にします。
確かに、時々、眉をひそめたくなるような残酷で非道な事件や犯罪は起こりますが、他国に比べると件数や頻度は少ないようですし、夜に未成年者や女性が一人で出歩いても、何らかの被害に遭う確率は低いでしょう。
ですから、この神話は一見正しいように思えるのですが、否、ちょっと待て、そうではないだろうと私は反論したくなるのです。
ちゃんと考えてみれば、美味しくて安全な水道水も、安心して暮らせる治安の良さも、タダではありえないはずなのです。
それらを実現するために心を砕いている人たちがいることはもちろん、国土の広さや人口密度、経済状況や政府と自治体の関係性など、様々な条件や要因があってこそのものなのです。
決して、自然発生的に水と安全が手に入っていたわけではありません。
その証拠に、少しでも気を抜いたり、条件が変われば、あっという間に水は汚染され、地域の治安は悪くなるでしょう。
日本の治安が良いのは、そこに住んでいる日本人たちが礼儀正しく生活することを心がけているからだということを、海外から移住してくる人々は理解していないような気がします。
そして、その礼儀正しさが歴史的にどのように日本人の文化や暮らしの中に根づいていったのか、ともすれば、大人しい日本人を半ば揶揄するような、いわば「ナメた」目で見ている外国の人たちには到底考えの及ばないことでしょうし、令和の時代を生きる日本の若者たちの中には、そうした日本文化に興味がなく、「伝統」として人々の間でなされていることを平気で無視する人もいるようです。
司馬遼太郎氏の言う通り、「無礼式時代」なのです。
そんな現代でも、必ずしもやらなければいけないわけではないが、やっておくと平和的に物事が進む日本特有の慣習はあります。
例えば、自動車を運転する際に、相手に道を譲ったり、感謝を示したりするヘッドライトのフラッシングや、ハーザードランプの点滅です。
また、エスカレーターを利用する際に、右か左か一方に寄って、片側を空けておく行為もそうです。
駅や電車の中、公共の場の道の真ん中や階段など、人が通るだろう場所に座り込んだり、むやみやたらに立ち止まらないことも、争いや騒ぎの種を作らない気遣いになるでしょう。
無礼式時代とはいえ、こうした些細な慣習があるうちは、日本で暮らす人たちの大多数が、平和を大事にしているのだと思えて、私は少なからず安堵を覚えます。
もっとも、この慣習を守るか守らないかで、SNSが炎上することもあります。気遣いやマナーも場合によりけりで、とっさの判断はなかなかに難しいものです。
総じて言えることは、元来、日本人という民族は全人類の中でも、気配りの達人であるということです。
自己主張が得意でなくても、他者に対して礼を尽くすことができる、本当に変わった気質の集団なのです。(個人差はありますが…)
歴史的に、伝統的に、日本人以外に礼儀や格式を一般社会の文化にまで浸透させ、生活してきた民族が他に存在するでしょうか。
ルールを守る生真面目さや、勤勉さが「水と安全」神話を生み出していたのならば、それこそ、日本でしかありえない真の神話だということなのかもしれません。
なにしろ、太古の日本は八百万の神々を信仰する神話の国だったのですから。
その文化や伝統を守っていくかどうかは、これからの日本人に判断が委ねられていますし、日本で暮らす外国の人たちがどう振る舞うかにもよると思います。
今から50年後に、果たして日本は日本人が統治する国であり続けるのか、あるいは、どこかの国の一部になっているのか、その頃にはもう存在していないであろう私には関係のない話ではあるのですが…。
ヒトコトリのコトノハ vol.92
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●本日のコトノハ●
信長という人は、ご飯をたべる作法がダメだった。この作法は、室町幕府が作ったもので、いわゆる
小笠原流というものです。室町礼式は、日本人のなかに最初に確立した礼式で、今日の私たちも
その拘束を受けているわけです。たとえば婚礼の結納やらややこしい形式は、室町時代にできあがった。
室町幕府は、南北朝の争乱のなかから出てきた粗野な大小名どもを礼式で拘束していこうとした。
漢の高祖も儒者の進言を容れてそれをやりましたが、これは為政者の知恵なんでしょうが、
ともかく礼式というものが、日本の室町文化、近世文化の源泉のひとつになっている。いまのような
無礼式時代はきめのこまかい文化が育ちませんが、礼式というタブロウで人間をしばるばあい、
そのタブロウのなかで人間というのはこまやかな文化的作業をします。
『手掘り日本史』司馬遼太郎(1990)文藝春秋より
かつて日本には「水と安全はタダ」という神話がありました。
世界的に見ても、水道水が飲める国というのは珍しいようです。(ちなみに、田舎の私の家は井戸水を利用しているので、一度沸かして冷ましたものを飲料水や料理に使います。)
また、日本が治安の良い国だということは、かなり前から世界的に評価されていることで、海外から日本に移住したり、旅行で訪れる人たちの一番の理由が、この国の治安の良さであることもよく耳にします。
確かに、時々、眉をひそめたくなるような残酷で非道な事件や犯罪は起こりますが、他国に比べると件数や頻度は少ないようですし、夜に未成年者や女性が一人で出歩いても、何らかの被害に遭う確率は低いでしょう。
ですから、この神話は一見正しいように思えるのですが、否、ちょっと待て、そうではないだろうと私は反論したくなるのです。
ちゃんと考えてみれば、美味しくて安全な水道水も、安心して暮らせる治安の良さも、タダではありえないはずなのです。
それらを実現するために心を砕いている人たちがいることはもちろん、国土の広さや人口密度、経済状況や政府と自治体の関係性など、様々な条件や要因があってこそのものなのです。
決して、自然発生的に水と安全が手に入っていたわけではありません。
その証拠に、少しでも気を抜いたり、条件が変われば、あっという間に水は汚染され、地域の治安は悪くなるでしょう。
日本の治安が良いのは、そこに住んでいる日本人たちが礼儀正しく生活することを心がけているからだということを、海外から移住してくる人々は理解していないような気がします。
そして、その礼儀正しさが歴史的にどのように日本人の文化や暮らしの中に根づいていったのか、ともすれば、大人しい日本人を半ば揶揄するような、いわば「ナメた」目で見ている外国の人たちには到底考えの及ばないことでしょうし、令和の時代を生きる日本の若者たちの中には、そうした日本文化に興味がなく、「伝統」として人々の間でなされていることを平気で無視する人もいるようです。
司馬遼太郎氏の言う通り、「無礼式時代」なのです。
そんな現代でも、必ずしもやらなければいけないわけではないが、やっておくと平和的に物事が進む日本特有の慣習はあります。
例えば、自動車を運転する際に、相手に道を譲ったり、感謝を示したりするヘッドライトのフラッシングや、ハーザードランプの点滅です。
また、エスカレーターを利用する際に、右か左か一方に寄って、片側を空けておく行為もそうです。
駅や電車の中、公共の場の道の真ん中や階段など、人が通るだろう場所に座り込んだり、むやみやたらに立ち止まらないことも、争いや騒ぎの種を作らない気遣いになるでしょう。
無礼式時代とはいえ、こうした些細な慣習があるうちは、日本で暮らす人たちの大多数が、平和を大事にしているのだと思えて、私は少なからず安堵を覚えます。
もっとも、この慣習を守るか守らないかで、SNSが炎上することもあります。気遣いやマナーも場合によりけりで、とっさの判断はなかなかに難しいものです。
総じて言えることは、元来、日本人という民族は全人類の中でも、気配りの達人であるということです。
自己主張が得意でなくても、他者に対して礼を尽くすことができる、本当に変わった気質の集団なのです。(個人差はありますが…)
歴史的に、伝統的に、日本人以外に礼儀や格式を一般社会の文化にまで浸透させ、生活してきた民族が他に存在するでしょうか。
ルールを守る生真面目さや、勤勉さが「水と安全」神話を生み出していたのならば、それこそ、日本でしかありえない真の神話だということなのかもしれません。
なにしろ、太古の日本は八百万の神々を信仰する神話の国だったのですから。
その文化や伝統を守っていくかどうかは、これからの日本人に判断が委ねられていますし、日本で暮らす外国の人たちがどう振る舞うかにもよると思います。
今から50年後に、果たして日本は日本人が統治する国であり続けるのか、あるいは、どこかの国の一部になっているのか、その頃にはもう存在していないであろう私には関係のない話ではあるのですが…。
ヒトコトリのコトノハ vol.92
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