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あなたの知識、ソフトタイプ?ハードタイプ?【動画紹介】ヒトコトリのコトノハ vol.90

2025年02月14日 | 動画紹介
☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
 ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!

 ●本日のコトノハ●
  …知を創造する行為と既存の知を伝える行為は、まったく別ものである。
  学問の最前線で活動している学者たちに、一般読者や一般視聴者たちの関心に合うような情報を、
  わかりやすい形で供給することを求めるのは、彼らの知的創造行為を強く阻害することになる。
  彼らが、自分たちの研究の意味や社会的意義を、社会に対してわかりやすく説明できるに越した
  ことはないが、多くの場合その余裕はないはずである。ハード・アカデミズムとソフト・アカデ
  ミズムは、まったく別の目的をもっており、まったく別の技術と才能、方法を要求する。
  両方のエキスパートになることはほとんど不可能だということを忘れるべきではない。

 『ハード・アカデミズムの時代』高山博(1998)講談社より


 大学院に在籍していた時によく思っていたのは、「研究と実際の現場をつなげたい」ということでした。
 私が大学院に進学を決めた時期、ちょうどその頃は、新卒でも就職が厳しいと言われていた時期で、特に女子の採用は絶望的だとテレビのニュースで特集される程でした。

 もちろん、そうした報道が必ずしも真実ではないということは、昨今のマスコミに対する批判を見れば理解できます。
 もしかしたら、地域によっては新卒でも、新卒でなくても、男女問わずに積極的に採用していたかもしれません。
 ですが、私が学生だった二十年以上も前は、今よりも情報収集が困難で、IT化も進んでいませんでした。

 また、私は大学受験時にすでに浪人を経験していましたし、大学もそんなに就職に有利なネームバリューを持っていないことや、進んだ分野が音楽だったことから、おそらく一般企業に採用されることはないだろうと思い、就職浪人をするくらいだったら、学生という立場でいようと思い、大学院への進学を決めました。
 (有名大学を卒業している人でも採用されないというのに、地方の私大で音楽を勉強していた人間が採用されるはずもないのです。)
 とはいえ、この選択も決して正解ではなく、むしろ、その先のことを考えれば、自分の首を絞めるようなものであることも分かっていたのですが、他にどうすれば良かったのか、どうすることができたのか、今でもよく分かりません。

 戦中派の母は高卒で、そのせいか娘には良い教育を受けさせたいと願っていたので、大学院への進学はむしろ賛成でしたが、その先の人生―つまり、高学歴ワーキングプアになること―については、考えが及んでいないようでした。
 あの時、私が就活を選んだとしても、きっと就職浪人という名のニートかフリーターになることしかできなかったと思うので、いずれにしろ「詰んでいる」ことに変わりはありません。
 (こうして私は、社会の「通常コース」を外れたのです。)

 実際、音楽の大学院に在籍していると言うと、「へぇ…」とか「ふぅん…」と微妙な顔をされることがほとんどでした。
 大学院といえば研究職で、そこでは将来の人類社会に貢献するような技術が研究されていると、ほとんどの人は考えているはずです。
 だから、大学院で音楽を研究することが具体的にどういうことなのか思い浮かばないでしょうし、正直、「そんなことをして、何の役に立つの?」と思うでしょう。

 私自身、他国の文化である西洋音楽を、その歴史や作品、作曲家について文献資料を集めたり、楽譜の分析をしたり、他の文化―例えば、美術や文学―との関係性を調べたりといったことが、これからの社会にどう還元されるのか、皆目見当もつかないでいました。
 ただ、当然、人より音楽に従事する時間は多かったので、楽器の演奏技術は身につきましたし、その技術を誰かに伝える(教える)ことは、学生の時から始めていたので、そういった関わり方で自分が大学院で培ったものを社会に還元できているのかなと思います。

 「学者」というと、世間一般では「難しいことを言ったり、やったりしている人」であり、どこか近寄りがたいイメージが強いと思います。
 そして、そういう人たちのしていることが、自分たちの実生活をどれほど豊かにしているか、直接的に理解できる人は少ないでしょう。
 一般人の感覚では理解に苦しむような、もっと言えば無意味に思えるような研究でも、決して「無駄」の一言で片付けてはいけません。

 この本で言うところのハード・アカデミズム―新たな知の創造―に挑戦し続ける人たちがいなければ、現在の便利で豊かな日本社会はなかったでしょうし、今後も決して完璧ではないこの世界を生き抜いていくためには、彼らの存在は不可欠なのです。
 そして、ハード・アカデミズムに挑むためには、知の歴史および既存の知を知ること(ソフト・アカデミズム)が必要になります。
 ハード・アカデミズムが「ワケの分からん学者のお遊び」でもなければ、ソフト・アカデミズムが「単なる教養」であるわけでもありません。

 これらの知のおかげで今の生活があるのだと、先人たちに感謝しながら今日もまた、お勉強に勤しみたいと思います。
 (身に着けた知識は、社会に還元しましょう。人を見下したり、馬鹿にするために使うものではありませんよ。)



ヒトコトリのコトノハ vol.90


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