フェイクニュースという言葉が、世間に認識・受容されるようになって、しばらく経ちます。
これも「デマ」の一種と言えるでしょう。
デマの語源である「デマゴーゴス」という古代ギリシャ語には、「大衆を扇動する指導者」という意味があるといいますから、人間が思いつくことや抱く感情、行動パターンは昔から変わっていないのだと実感します。
高度情報化社会の現代において、与えられた情報にどのように対処するかということは、なかなか難しい問題です。
電話での詐欺が横行する今の時代、聞いた情報を素直にそのまま鵜呑みにするのは、少し警戒心がなさすぎだと思います。
人間不信ぎみの私は、時に、情報の信ぴょう性もさながら、その情報の出所まで辿って判断する必要性を感じてしまいます。
先日、《ハンナ・アーレント(原題:Hannah Arendt)》(2012、ドイツ、ルクセンブルク、フランス)という映画を観ました。
私は大学生の時、初めてドイツリートに出会い、ドイツ語の美しさに感動しました。
それから、ドイツ語を勉強するようになり、ドイツの文化やドイツという国についても積極的に知ろうとしてきました。
しかし、同時に、ドイツという言葉を耳にするだけで不快な感情を抱く人がいるということも知りました。
ちょうど、東アジアの国々の中で、「日本」という言葉を聞くだけで嫌悪感を抱く人がいるように。
ハンナ・アーレント(1906-1975)は第二次世界大戦を生き抜いたドイツ出身のユダヤ人政治学者です。
生涯を通じて、揺れ動く人の価値観や、掴みどころのない人間の心理と戦った文筆家でもあります。
戦後、イスラエルでナチスの戦犯アイヒマンAdolf Otto Eichmann(1906-1962)の裁判が行われ、アーレントはこの裁判を傍聴し、レポートを発表します。
そこで、彼女はアイヒマンのことを、彼はユダヤ人を憎む残虐非道な怪物などではなく、ただ彼の職務に忠実であっただけだと書いたのです。
彼は命令に違反しなかっただけ(そのために大量のユダヤ人が収容所で殺されたのですが)の、ごく普通の平凡な人間だと。
これは、危険思想も、政治的プロパガンダも持たないごく普通の人間でも、全体主義という特殊な状況下では、アイヒマンのように、無意識下に犯罪に加わる可能性があるという、人間一般社会に対するある種の警告でもありました。
また、戦争中にナチスに協力したユダヤ人がいたことを指摘し、彼らはナチスの大量殺人を助長させる一因になったと論じたことで、アーレントの記事は物議を醸すことになりました。
第二次大戦中に、ユダヤ人やその他の少数民族が虐殺されたという事実は、消そうと思っても消せることではありません。
しかし、その残虐行為の執行に携わったナチス党員の多くは、上層部が定めた職務を忠実に果たしていただけでした。
彼らは明確な人種差別的思想を持っていたわけでもなく、殺戮に喜びを覚える精神異常者でもありませんでした。
ただ、全体主義という社会システムの中で、下された命令に背かずに従っていただけにすぎなかったのです。
そして、当時、そのナチスに協力して保身を図るユダヤ人もまたいたということも、確かな事実なのです。
アーレントは、アイヒマンを罪に問うならば、そうしたユダヤ人たちも同様に裁かれるべきではないかと考えたのです。
彼女もまたユダヤ人ですが、政治学者として、人間として、「現実に起こったことの善悪を判断する」という観点からこれらの事実を述べただけに過ぎないのですが、それは「ヒトラーを擁護しユダヤ人を糾弾した」と理解されてしまいました。
もちろん、彼女は一言もそんなことを書かなかったのですが、彼女を批判した当時の人々の多くが、実際に彼女の書いた記事を読まずに風評に煽られていたといいますから、群衆心理の恐ろしさを感じます。
インターネット技術とは関係なく、いつの時代でも人は自分の目で真実を確かめようともせず、曖昧な情報に感化・扇動されてしまうということなのでしょうか。
レポートを発表した後、アーレントは親しかった友人の多くと疎遠になってしまいました。
ただ、彼女の書いた言葉を一言も漏らさずに読み、客観的な視点から彼女の主張を理解できた学生たちだけは、アーレントを支持したということは多少なりとも希望の持てることです。
事の善悪を判断しようとする時、また何かを理解しようとする時、自分の個人的な感情や嗜好、自分が存在する環境や背景を完全に排除するのはとても難しいことだと思います。
仮に、家族や親しい友人と何かについて話したとして、それぞれの意見が食い違った時、自分の意見を絶対だと主張できるでしょうか。
私にはできません。自分の意見は胸にしまい込んで、ただ黙って相手の言葉に頷きを返すと思います。
良好な人間関係を壊したくないですし、意見が対立することによって、疎外感や孤独を感じたくないのです。
他人と違う意見を主張して、自分だけ孤立したくないというほとんどの人の胸の中にある、この無意識の自己防衛心理が、第二次大戦中のドイツでの全体主義における史上最悪の大量殺人を引き起こしましたし、現代も学校や職場という、ある集団の中で繰り返されるイジメの一因となっているのだと思います。
アーレントが対峙しなければならなかった問題と、私が日常的に感じている他人との関係におけるほんのちょっとのズレなんて、比べようもないことですが、例えささいなことでも、人は誰かに異論を唱えることを躊躇うことがあります。
まして、ユダヤ民族という、自身の精神的にも根源的にも支えとなる母体からも距離を置いて、ただ起きた出来事のみを客観的にかつ公平な目線で冷静に語ることは、アーレントにとってどんなに苦しく辛いことだったでしょうか。
裁判の概要をかいつまんで書き、あえて自分の所見を明らかにしないことも彼女にはできたはずです。それがジャーナリストとして正しいことかどうかは別にして。
しかし、アーレントは「一人の人間」として、人種にとらわれない全ての人間の心の奥底に訴える必要性を感じたのです。
人間の命をゴミのように扱った、決して許されざる恐ろしい行為を、二度と繰り返させてはいけないという、強い思いの前では、ユダヤ人としての個人的感情は無視せざるを得なかったのです。
けれども、それは決してユダヤ人を裏切ったということではありません。
真に世界の平和、正義とは何かを考える時、私たちはまず「一人の人間」として存在しなければならないということなのです。
母でもなく、娘でもなく、女性としてでもなく、政治家としてでも、宗教家としてでもなく、そして日本人としてでもなく、この地球上に生を受けた一生命体として、命の大切さを考えなければならないのです。
(花火を打ち上げるごとくミサイルを打ってくる指導者や、ビジネスと政治をはき違えている大統領や、どこの党の公認を受けて出馬するか考えている人たちにも、真面目に考えてほしい問題ですよ。やれやれ・・・)
これも「デマ」の一種と言えるでしょう。
デマの語源である「デマゴーゴス」という古代ギリシャ語には、「大衆を扇動する指導者」という意味があるといいますから、人間が思いつくことや抱く感情、行動パターンは昔から変わっていないのだと実感します。
高度情報化社会の現代において、与えられた情報にどのように対処するかということは、なかなか難しい問題です。
電話での詐欺が横行する今の時代、聞いた情報を素直にそのまま鵜呑みにするのは、少し警戒心がなさすぎだと思います。
人間不信ぎみの私は、時に、情報の信ぴょう性もさながら、その情報の出所まで辿って判断する必要性を感じてしまいます。
先日、《ハンナ・アーレント(原題:Hannah Arendt)》(2012、ドイツ、ルクセンブルク、フランス)という映画を観ました。
私は大学生の時、初めてドイツリートに出会い、ドイツ語の美しさに感動しました。
それから、ドイツ語を勉強するようになり、ドイツの文化やドイツという国についても積極的に知ろうとしてきました。
しかし、同時に、ドイツという言葉を耳にするだけで不快な感情を抱く人がいるということも知りました。
ちょうど、東アジアの国々の中で、「日本」という言葉を聞くだけで嫌悪感を抱く人がいるように。
ハンナ・アーレント(1906-1975)は第二次世界大戦を生き抜いたドイツ出身のユダヤ人政治学者です。
生涯を通じて、揺れ動く人の価値観や、掴みどころのない人間の心理と戦った文筆家でもあります。
戦後、イスラエルでナチスの戦犯アイヒマンAdolf Otto Eichmann(1906-1962)の裁判が行われ、アーレントはこの裁判を傍聴し、レポートを発表します。
そこで、彼女はアイヒマンのことを、彼はユダヤ人を憎む残虐非道な怪物などではなく、ただ彼の職務に忠実であっただけだと書いたのです。
彼は命令に違反しなかっただけ(そのために大量のユダヤ人が収容所で殺されたのですが)の、ごく普通の平凡な人間だと。
これは、危険思想も、政治的プロパガンダも持たないごく普通の人間でも、全体主義という特殊な状況下では、アイヒマンのように、無意識下に犯罪に加わる可能性があるという、人間一般社会に対するある種の警告でもありました。
また、戦争中にナチスに協力したユダヤ人がいたことを指摘し、彼らはナチスの大量殺人を助長させる一因になったと論じたことで、アーレントの記事は物議を醸すことになりました。
第二次大戦中に、ユダヤ人やその他の少数民族が虐殺されたという事実は、消そうと思っても消せることではありません。
しかし、その残虐行為の執行に携わったナチス党員の多くは、上層部が定めた職務を忠実に果たしていただけでした。
彼らは明確な人種差別的思想を持っていたわけでもなく、殺戮に喜びを覚える精神異常者でもありませんでした。
ただ、全体主義という社会システムの中で、下された命令に背かずに従っていただけにすぎなかったのです。
そして、当時、そのナチスに協力して保身を図るユダヤ人もまたいたということも、確かな事実なのです。
アーレントは、アイヒマンを罪に問うならば、そうしたユダヤ人たちも同様に裁かれるべきではないかと考えたのです。
彼女もまたユダヤ人ですが、政治学者として、人間として、「現実に起こったことの善悪を判断する」という観点からこれらの事実を述べただけに過ぎないのですが、それは「ヒトラーを擁護しユダヤ人を糾弾した」と理解されてしまいました。
もちろん、彼女は一言もそんなことを書かなかったのですが、彼女を批判した当時の人々の多くが、実際に彼女の書いた記事を読まずに風評に煽られていたといいますから、群衆心理の恐ろしさを感じます。
インターネット技術とは関係なく、いつの時代でも人は自分の目で真実を確かめようともせず、曖昧な情報に感化・扇動されてしまうということなのでしょうか。
レポートを発表した後、アーレントは親しかった友人の多くと疎遠になってしまいました。
ただ、彼女の書いた言葉を一言も漏らさずに読み、客観的な視点から彼女の主張を理解できた学生たちだけは、アーレントを支持したということは多少なりとも希望の持てることです。
事の善悪を判断しようとする時、また何かを理解しようとする時、自分の個人的な感情や嗜好、自分が存在する環境や背景を完全に排除するのはとても難しいことだと思います。
仮に、家族や親しい友人と何かについて話したとして、それぞれの意見が食い違った時、自分の意見を絶対だと主張できるでしょうか。
私にはできません。自分の意見は胸にしまい込んで、ただ黙って相手の言葉に頷きを返すと思います。
良好な人間関係を壊したくないですし、意見が対立することによって、疎外感や孤独を感じたくないのです。
他人と違う意見を主張して、自分だけ孤立したくないというほとんどの人の胸の中にある、この無意識の自己防衛心理が、第二次大戦中のドイツでの全体主義における史上最悪の大量殺人を引き起こしましたし、現代も学校や職場という、ある集団の中で繰り返されるイジメの一因となっているのだと思います。
アーレントが対峙しなければならなかった問題と、私が日常的に感じている他人との関係におけるほんのちょっとのズレなんて、比べようもないことですが、例えささいなことでも、人は誰かに異論を唱えることを躊躇うことがあります。
まして、ユダヤ民族という、自身の精神的にも根源的にも支えとなる母体からも距離を置いて、ただ起きた出来事のみを客観的にかつ公平な目線で冷静に語ることは、アーレントにとってどんなに苦しく辛いことだったでしょうか。
裁判の概要をかいつまんで書き、あえて自分の所見を明らかにしないことも彼女にはできたはずです。それがジャーナリストとして正しいことかどうかは別にして。
しかし、アーレントは「一人の人間」として、人種にとらわれない全ての人間の心の奥底に訴える必要性を感じたのです。
人間の命をゴミのように扱った、決して許されざる恐ろしい行為を、二度と繰り返させてはいけないという、強い思いの前では、ユダヤ人としての個人的感情は無視せざるを得なかったのです。
けれども、それは決してユダヤ人を裏切ったということではありません。
真に世界の平和、正義とは何かを考える時、私たちはまず「一人の人間」として存在しなければならないということなのです。
母でもなく、娘でもなく、女性としてでもなく、政治家としてでも、宗教家としてでもなく、そして日本人としてでもなく、この地球上に生を受けた一生命体として、命の大切さを考えなければならないのです。
(花火を打ち上げるごとくミサイルを打ってくる指導者や、ビジネスと政治をはき違えている大統領や、どこの党の公認を受けて出馬するか考えている人たちにも、真面目に考えてほしい問題ですよ。やれやれ・・・)
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