☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
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●本日のコトノハ●
「お前はほんとに悪い性質だ。そして今日までわたしにとても解らない性質だよ。
九年の間、どんな目にあってもじっと耐えて何一つ言わないでいられたお前が、十年目に、
どうしてありったけのうっぷんを爆発させたのか、とてもわたしには解らない」
『ジェイン・エア上巻〔全2冊〕』シャーロット・ブロンティ著/遠藤寿子訳(1957)岩波書店より
イギリスの作家シャーロット・ブロンティによる長編小説『ジェイン・エア』は、私の好きな文学作品の一つです。
特に、病的なまでに詳細な描写が気に入っています。建物の外観や部屋の内装、また、それに使われている材料の質感まで、登場人物に対する細かすぎる人間観察や、心情の変化に至るまで、よく言えば丁寧、悪く言えば言葉が多すぎて説明文のよう。
それでいて、余分だから削るような言葉は一つもない。どの言葉も、この小説の中にあるべくして納まっている。
初めは、その細かさに戸惑ったり、面倒くささを感じたりしますが、しばらく読み進めると、しつこいまでに細かいその描写が心地よく感じられるようになり、やがて雨のように降り注ぐシャーロットの言葉を待ち望んでいる自分がいることに気がつきます。
さらに、なかなか言葉で言い表すことが難しい微妙な人間関係まで、シャーロットは巧みに描き出します。
『ジェイン・エア』の第21章には、この作品の中でも私の一番共感を覚える人間模様が辛辣なエピソードと共に描かれています。
ジェインの母方の伯父の妻である義理の伯母、リード夫人は両親を失った孤児のジェインを養育した人ですが、ジェインに対して愛情をもって接することができず、自分の子供たちとは明らかに違う理不尽な態度でジェインを扱い、挙句の果てにはジェインを寄宿学校へと厄介払いするという仕打ちをしました。
そのリード夫人が、時を経て家庭教師として働くようになったジェインのもとへ会いたいと連絡してくるのです。
もし、私がジェインの立場であれば、何かと理由をつけて断ると思います。もしかしたら、リード夫人もそれを願っていたかもしれません。
40歳を過ぎた今の私なら、これまでの社会経験から何年経とうと変わらない人間は変わらないと分かっているので、リード夫人のような慈悲の心を持たない人間とは金輪際関わりを持ちたくないと思い、会いには行かないでしょう。
ですが、ジェインと同じような若い年齢だったら、リード夫人がかつて自分にしたひどい仕打ちに対して詫び、和解をしたがっているかもしれないと思って、会いに行ったかもしれません。
しかし、やはりジェインが長旅をしてまで会いに行っても、リード夫人は相変わらずジェインに対して嫌悪の感情を隠そうともしないのです。
そして、ジェインを理解できないと言い放ちます。(自分が呼びつけておいて、なんという傲慢でしょう!)
若いジェインは、自分の真心が通じるかもしれないという望みを捨てきれずに、夫人の考えが変わるのを待ちますが、その願いも空しく夫人は息を引き取ります。
この場面は、人間関係の真実の一側面を、そして人間の愚かしさ、未熟さをとても如実に描いていると思います。
分かり合えない人とは、死ぬまで(死んでも?)分かり合えないという真実が提示されている共に、それでも、人間の善意を信じたいと思ってしまう衝動を抑えられない人の甘さ(良くも悪くも)を見て取ることができます。
どちらか一方だけが、一方的に我慢をして成立している関係は決して永くは続きません。
その我慢が限界に達した瞬間に終りを迎えるからです。
リード夫人は9年間も子供のジェインにほとんど虐待に近い扱いを続けていました。
そして、10年目にとうとうジェインの我慢は限界に達し、夫人に対して反抗的な態度をとり、暴言を吐いたのです。
それは、自然発生的になされた行為ではなく、9年間の我慢によって引き起こされた結果なのです。
どんなに頑丈な物でも、無理な負荷を長年にわたってかけ続ければ、いつかは壊れてしまうことぐらい、誰にも分かることではないかと思うのですが、何故、こんな簡単なことを理解できない人がいるのか、私には不思議でたまりません。
リード夫人は死に瀕してもなお、ジェインのことだけでなく、自分がジェインにしたこと、自分がどういう人間だったのかということが理解できずにいます。
夫人は決して完璧な人間ではありません。むしろ、愚かしく思えますし、永遠に分かり合えないこの関係に絶望すら覚えます。
いずれにしろ、人を理解することは難しいと私は感じています。
世の中にはいろんな人がいるので、その人のことを完全に理解できていると過信することは危険ですし、相手に対して失礼かもしれないとも思いますが、それでも、私は誰の事も傷つけたくないし、誰からも傷つけられたくないのです。
自分を守りたいなら、相手のことも守ること。それはお互いを尊重し合うことでもあります。
もちろん、それは理想論にすぎなくて、それが実現できる関係性の人と出会える確率はそんなに高くないと思います。
若い頃は、やたらと友達を作りなさいと周りからも言われますし、自分でも一人でいることは悪いことなんじゃないかと考えがちです。
そして、闇雲に交友関係を広げることで、誰かを嫌ったり、誰かから傷つけられたりもします。
それらのネガティヴな経験を通して、その後に付き合う人たちを考えたり、あるいは、あらかじめ嫌な経験をしたくないと思って、初めから人間関係を厳選していくのもアリだとは思います。
しかし、時には自分で付き合う人を選べない場合も、社会生活の中では度々あります。
そんな時には、相手も自分も愚かで未熟な人間なんだということ、そして、分かり合えない人とは分かり合えないのだということを忘れずにいることです。
一人の人間が抱く感情は複雑で、一概にこうと割り切れるものではありませんが、時にはスパッと「割り切って生きる」というスキルも必要なのではないかと思う今日この頃です。
ヒトコトリのコトノハ vol.82
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●本日のコトノハ●
「お前はほんとに悪い性質だ。そして今日までわたしにとても解らない性質だよ。
九年の間、どんな目にあってもじっと耐えて何一つ言わないでいられたお前が、十年目に、
どうしてありったけのうっぷんを爆発させたのか、とてもわたしには解らない」
『ジェイン・エア上巻〔全2冊〕』シャーロット・ブロンティ著/遠藤寿子訳(1957)岩波書店より
イギリスの作家シャーロット・ブロンティによる長編小説『ジェイン・エア』は、私の好きな文学作品の一つです。
特に、病的なまでに詳細な描写が気に入っています。建物の外観や部屋の内装、また、それに使われている材料の質感まで、登場人物に対する細かすぎる人間観察や、心情の変化に至るまで、よく言えば丁寧、悪く言えば言葉が多すぎて説明文のよう。
それでいて、余分だから削るような言葉は一つもない。どの言葉も、この小説の中にあるべくして納まっている。
初めは、その細かさに戸惑ったり、面倒くささを感じたりしますが、しばらく読み進めると、しつこいまでに細かいその描写が心地よく感じられるようになり、やがて雨のように降り注ぐシャーロットの言葉を待ち望んでいる自分がいることに気がつきます。
さらに、なかなか言葉で言い表すことが難しい微妙な人間関係まで、シャーロットは巧みに描き出します。
『ジェイン・エア』の第21章には、この作品の中でも私の一番共感を覚える人間模様が辛辣なエピソードと共に描かれています。
ジェインの母方の伯父の妻である義理の伯母、リード夫人は両親を失った孤児のジェインを養育した人ですが、ジェインに対して愛情をもって接することができず、自分の子供たちとは明らかに違う理不尽な態度でジェインを扱い、挙句の果てにはジェインを寄宿学校へと厄介払いするという仕打ちをしました。
そのリード夫人が、時を経て家庭教師として働くようになったジェインのもとへ会いたいと連絡してくるのです。
もし、私がジェインの立場であれば、何かと理由をつけて断ると思います。もしかしたら、リード夫人もそれを願っていたかもしれません。
40歳を過ぎた今の私なら、これまでの社会経験から何年経とうと変わらない人間は変わらないと分かっているので、リード夫人のような慈悲の心を持たない人間とは金輪際関わりを持ちたくないと思い、会いには行かないでしょう。
ですが、ジェインと同じような若い年齢だったら、リード夫人がかつて自分にしたひどい仕打ちに対して詫び、和解をしたがっているかもしれないと思って、会いに行ったかもしれません。
しかし、やはりジェインが長旅をしてまで会いに行っても、リード夫人は相変わらずジェインに対して嫌悪の感情を隠そうともしないのです。
そして、ジェインを理解できないと言い放ちます。(自分が呼びつけておいて、なんという傲慢でしょう!)
若いジェインは、自分の真心が通じるかもしれないという望みを捨てきれずに、夫人の考えが変わるのを待ちますが、その願いも空しく夫人は息を引き取ります。
この場面は、人間関係の真実の一側面を、そして人間の愚かしさ、未熟さをとても如実に描いていると思います。
分かり合えない人とは、死ぬまで(死んでも?)分かり合えないという真実が提示されている共に、それでも、人間の善意を信じたいと思ってしまう衝動を抑えられない人の甘さ(良くも悪くも)を見て取ることができます。
どちらか一方だけが、一方的に我慢をして成立している関係は決して永くは続きません。
その我慢が限界に達した瞬間に終りを迎えるからです。
リード夫人は9年間も子供のジェインにほとんど虐待に近い扱いを続けていました。
そして、10年目にとうとうジェインの我慢は限界に達し、夫人に対して反抗的な態度をとり、暴言を吐いたのです。
それは、自然発生的になされた行為ではなく、9年間の我慢によって引き起こされた結果なのです。
どんなに頑丈な物でも、無理な負荷を長年にわたってかけ続ければ、いつかは壊れてしまうことぐらい、誰にも分かることではないかと思うのですが、何故、こんな簡単なことを理解できない人がいるのか、私には不思議でたまりません。
リード夫人は死に瀕してもなお、ジェインのことだけでなく、自分がジェインにしたこと、自分がどういう人間だったのかということが理解できずにいます。
夫人は決して完璧な人間ではありません。むしろ、愚かしく思えますし、永遠に分かり合えないこの関係に絶望すら覚えます。
いずれにしろ、人を理解することは難しいと私は感じています。
世の中にはいろんな人がいるので、その人のことを完全に理解できていると過信することは危険ですし、相手に対して失礼かもしれないとも思いますが、それでも、私は誰の事も傷つけたくないし、誰からも傷つけられたくないのです。
自分を守りたいなら、相手のことも守ること。それはお互いを尊重し合うことでもあります。
もちろん、それは理想論にすぎなくて、それが実現できる関係性の人と出会える確率はそんなに高くないと思います。
若い頃は、やたらと友達を作りなさいと周りからも言われますし、自分でも一人でいることは悪いことなんじゃないかと考えがちです。
そして、闇雲に交友関係を広げることで、誰かを嫌ったり、誰かから傷つけられたりもします。
それらのネガティヴな経験を通して、その後に付き合う人たちを考えたり、あるいは、あらかじめ嫌な経験をしたくないと思って、初めから人間関係を厳選していくのもアリだとは思います。
しかし、時には自分で付き合う人を選べない場合も、社会生活の中では度々あります。
そんな時には、相手も自分も愚かで未熟な人間なんだということ、そして、分かり合えない人とは分かり合えないのだということを忘れずにいることです。
一人の人間が抱く感情は複雑で、一概にこうと割り切れるものではありませんが、時にはスパッと「割り切って生きる」というスキルも必要なのではないかと思う今日この頃です。
ヒトコトリのコトノハ vol.82
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