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鏡よ鏡、鏡さん【動画紹介】ヒトコトリのコトノハ vol.86

2025年01月17日 | 動画紹介
☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
 ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!

 ●本日のコトノハ●
  散髪屋の鏡の前に坐らされると何時も思うことがある。鏡にうつっている顔は私の顔であるが
 正確には私の顔ではない。左右アベコベだからだ。しかしそのことを考えない限り我々は似而非なる
 この顔を自分の顔と思いがちである。
  人生において我々は他人という鏡に自分のさまざまな顔をうつして歩く。
 …(中略)そしてこうしたさまざまな他人という鏡にうつった私のイメージの集大成が、この人生での
 私の姿になるのである。だがそれは本当の私だろうか。本人にも本当に自分について知らぬ部分がある。
 他人という鏡にうつった自分は本当の私ではないと誰もが叫びたくなるにちがいない。

 『人間のなかのX』遠藤周作(1981)中央公論社より


 「自らを分かる」もしくは「自然と分かるもの」と書いて「自分」と呼びますが、本当に自分をすっかり理解できているかと言われると、私はあまり自信がありません。
 そして、他人が私のことを正しく理解してくれているかという点についても、疑わしいものがあります。
 また、私自身も誰かのことを理解できているかというと、それも確信をもって頷くことができません。

 私は子どもの頃から、家族に対する時と他人に対する時とで態度や言うことを変える父親の姿を見てきたので、他の人もそうかもしれないと思ってしまうことがよくあります。
 人間にはいろんな面があって、その時、その場によって礼儀正しくなったり、乱暴な態度になったりするものだと、私は子どもの時に学習しました。
 そして、そういうふうな人のことを世間では「裏表がある」とか「多重人格」などと、ネガティヴに捉えられがちだということも知りました。
 人はどんな時でも、誰に対しても同じ態度でいなければいけないと考えている人が、世の中にはけっこういるものです。

 例えば、何らかの犯罪を犯した人を日常的に見ていた人が「まさか、あの人がこんなことをするなんて…」や「そんなことをするような人には見えなかった」とインタビューに応じているのをよくニュースなどで見ますが、私からすれば、時々、道ですれ違う程度の関係性で相手のことをどれだけ知ったつもりでいるんだろう?と思ってしまいます。
 その人がどんな経緯でその犯罪をするに至ったのか知りもしないのに、ほんの少し切り取ったその人のごくわずかな一面だけを知っているだけで、その人の全てが語れるのでしょうか?

 同じことを自分にされたら、嫌な気持ちになりはしないでしょうか?
 「アンタなんかに何が分かる?」と言いたくなるに決まっています。
 私はそんな風に誰かを決めつけたくありませんし、私自身もそうされたくありません。

 ですが、今までの人生で私は何度となく、自分を勝手に決めつけられ、本当の自分を理解してもらえない経験をしました。
 赤の他人からそうされるのは、まだ仕方がないとして、自分に近しい存在である家族から、そんな扱いを受けるのは本当に残念なことです。
 親も兄たちも、私のことを家族の中で一番どうでもいい存在として接してくることが多く、「私に比べれば」自分たちは恵まれていて、優位に立っている人間だと自分に言い聞かせて満足しているように、私には見えました。

 両親は、子供に何か買うとなっても、上から順番に願いを聞き、最後の私については「後回し」あるいは、「この子には買わないでいい」という考えであると、子供の私にも伝わってくる態度でいましたし、事あるごとに「うちは貧乏でお金がない」と言われていたので、私はワガママが言いづらかったのです。
 それに、ワガママを言えば、父が大声で怒鳴り、時には叩かれたり、「誰のおかげで生活できていると…」という決まり文句を言われると分かっていたので、どうしても買ってくれとは言えませんでした。
 実際、私は子どもの頃から、あまり物を欲しがる性格でもなかったように思います。兄たちに比べれば、ボーっとしていて、目立たない性格の子どもだったかもしれません。

 男の子でも女の子でも、活発な子は活発ですし、大人しい子は大人しいという至極当然のことを、私の両親は受け入れられなかったのだと思います。
 子どもというものは元気に騒ぐものであり、そうじゃない子どもは「子どもらしくない」「取り澄ました」「生意気」だとネガティヴに捉えてしまったのかもしれません。
 それは無意識下にそう認識されていることなので、両親には、私を傷つけている自覚もなかったでしょうし、自分たちの考えや態度を改めるという発想も起こらなかったと思います。

 世間では、大人しい性格の人間を軽んじる傾向にあると思います。
 俗に言う「ナメられる」ということです。人は他人から「ナメられ」ないように、本来の自分ではない全く違う人間のフリをすることもあります。
 人の欲求の根源的な部分に、自分より弱い人間の優位に立ちたいというものがあるとでもいうのでしょうか。
 私には、自分と誰かを比べて自分の方が強いとか弱いとか考える場面があまりありません。
 あまつさえ、自分より弱いと思った人間に近づいて、「ナメる」ような態度をとりたいという欲求など湧かないのです。

 いったい、その欲求はどこからくるのでしょうか?
 これは、私の推測にすぎませんが、人には他人と自分を比べなければ(あるいは、他人との関わりにおいてしか)「自分」を保てない人がいるのかもしれません。
 私は、一人でいても、誰といても「私」でしかありませんが、他の人は、一人でいると自分という存在に自信がなくなって、「自分を自分に良く見せてくれる何か」が必要なのかもしれません。
 そういう人は、勝手に「自分より弱い、つまらない人間認定」をした人に近づいて、その人に「ナメたマネ」を働くことで、自分の中の「自分」を確立しているのだと思います。

 そういう行為を通してしか、「自分」を確認できない気の毒な存在なのでしょう。
 私は、この先、どんな孤独に苛まれたとしても、そんな惨めな行為だけはしたくないものだと、強く思います。
 誰かを傷つけて得る安心感など、ちっとも嬉しくありません。

 人は他人の鏡にうつる「自分」ではなくて、自分の鏡にうつる「自分」と向き合うべきだと思います。
 自分にとって「自分」はどんな人間なのか、自分の長所や短所、性格や口癖など、無意識に存在している「自分」を見つめることで、新たな発見もあるでしょうし、またその後の人生を生きやすくするヒントなども見つかるかもしれません。

 人生において、戦うべき相手は他人ではなく、自分自身です。
 それが分かっていない人は不用意に相手を傷つけますし、そのことをちっとも悪いことだとも思わないのです。
 私は人を見る目があまりない方なのですが、その人がどれだけ「自分」と向き合える人なのかということは、なんとなく接しているうちに分かるようになりました。
 そして、自分を省みず、他人の粗探しばかりしている人の鏡は、曇っていて真実が映ることがないということが分かりました。
 そのような鏡には映り込みたくないので、なるべく近づかないように気をつけますし、私自身の鏡もまた、そんなふうに曇ってしまわないように、日々磨いていくことを忘れずにいようと思います。





ヒトコトリのコトノハ vol.86


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