2021年もあっという間に最終月になりました。
一日一日を大切に過ごしたいと常日頃思ってはいるのですが、毎日やらなければいけないことと時間に追われて、気がつけば飛ぶように一年が過ぎてしまったという感覚です。
日々、遭遇する何気ない事柄をその都度、書き留めておけるほど私はマメな性格ではありませんが、それでも、今年一年で印象に残っていること、強く感じたことなどを、2021年の終りに書き残しておこうと思います。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
今年は、昨年から引き続き新型コロナウイルスが世界を翻弄する一年でした。
正直、私は活動的な性質ではないし、体調が悪いことの方が多く、体力も乏しいのでウイルスが流行する前から人に頻繁に会ったり、外食したり、旅行に行ったりはしていませんでした。
ですから、緊急事態宣言や外出自粛要請があっても、普段と変わらない日常を送っていました。
むしろ、元気な人たちのように活発に動き回れないことを負い目に感じることなく、息苦しいほどだった世間の活気が穏やかになって、過ごしやすいと思うくらいでした。
そんなコロナ禍の生活リズムに慣れていたある朝、一緒に暮らしている母の具合が悪くなり、救急搬送された病院で母はその日のうちに息を引き取りました。
その日は、午前中から仕事があったので、私は仕事に行く準備をしながら救急車に乗る母の後姿を見送りました。それが、生きている母を見た最後でした。
昼休みに母に付き添っていた父から連絡があり、母が亡くなったことを知りました。
私の仕事は雇用契約ではなく、遅刻や早退はただのドタキャンになってしまうので、私は帰ることができず、心ここにあらずの状態で午後も仕事をして帰りました。
母は82歳でした。83歳の誕生日まであと10日足らずの出来事でした。
死因は急性心不全とのことでしたが、病院に搬送されてからも症状の原因が分からず、3時間ほど様々な検査をして、それでも判明しなかったので入院することになったその時に心臓が止まってしまったと父から聞きました。
私は今まで、病院に行けば全ての病気が判明し、治療してもらえるものだとなんとなく思っていました。
病名や原因がはっきりして、治療をしたけれどダメだったというのなら、仕方ないと気持ちを整理できるのですが、あまりに急な出来事だったことと、はっきりした原因が分からないまま死んでしまったということがショック過ぎて、私は母が死んだという事態をすぐには吞み込めずにいました。
人が年齢に関係なく死ぬという事実は理解できています。
母よりも若い人たちが亡くなっていることも知っています。ですが、反対に母よりも年上の人たちが健在でいることも事実です。
82歳という年齢は、人によったらいつ死んでもおかしくない年なのかもしれません。それでも、母がもう少し長く生きることができたのではないかと考えてしまう自分がいました。
とはいえ、実際、こういうことはいずれ誰の身の上にも起こる出来事で、仕方のないことです。
「いつかはこうした別れがある」と覚悟していたはずなのに、私は救急車に乗る母の姿を見ておきながら、母がそのまま死んでしまうなんて、これっぽっちも思わなかったのです。
それほど、母は普段の生活が元気でした。母は亡くなる前日まで日記をつけていましたし、亡くなる朝もいつものように血圧を測ってから台所に立っていました。
まさか、突然気分が悪くなって、訳の分からないまま心臓が止まってしまうとは、母自身も思っていなかったでしょう。
母には作業に没頭する癖がありました。性分だったのだと思います。
働いた分だけ休むということも、あまりしませんでした。むしろ、くたくたに疲れるまで身体を動かすことに生きがいを感じているようなところもありました。80歳を越えても、その癖はなかなか治らないようで、気が進まないと思っても、無理をして父と外出している時もありました。
私は母に十分休んで欲しいと思っていましたし、何から何まで父の言うことやることに付き合うことはないと母に言ってきました。母が私の言葉に耳を貸すことはありませんでしたが。
けれども、母がそのように生きたかったのならば、それはそれで仕方のないことのように思えます。
母が亡くなって一番強く思ったのは、後悔しないように生きたいということです。
母と私の関係は表面的には良好でしたが、折り合いのつかない部分も多く、たいていは私が自己主張をせず、母の意見を黙って容認することで成り立っていました。
それでも、うまくいかない問題については、私が母から距離をとることで処理していました。江戸っ子で勝気な母はそんな私に「張り合いがない」とか「根性がない」というようなことを言っていましたが、私には二人の考えが平行線を辿ることは分かっていましたし、分かり合えない問題について延々と不毛な議論をすることほど時間と労力の無駄はありません。
私と母がうまくいかない部分はどうにもなりませんでしたし、それは私のせいでも母のせいでもないような気がするのです。
私に独自の考え方と生き方があるように、母にも母なりの人生の経験値と自負心があったので。
私はどちらも否定したくはありませんでした。だから、私が一定の距離をとって母と接したことは最善の策だったと今は思います。
感情の発露によって人物を理解したり、絆を深めたい母に対して、私は強すぎる感情を表に出すこと・出されることに生理的嫌悪を感じてしまう体質でした。(おそらく、子供の頃から父親が日常的に大声で怒鳴り散らしていたり、叩くなどの暴力的行為を繰り返していたことと関係があると思います。)
結局、母は(私が思うように)私のことを理解してくれないまま亡くなりましたが、私は母への自分の対応について後悔はありません。
利己的で独善的な母親との関係性は少なからず私を苦しめ続けたのですが、私はどうせうまく行かないのだからと諦めず、ゆっくりですが、そのことと向き合って足らない考えを絞り出しました。
結果はあまり良くなかったかもしれませんが、自分にできる限りの努力はしたという思いがあります。
これから先の人生においても、様々な難しい局面があるだろうと思いますが、無い知恵を振り絞って最善を尽くそうと思います。
そうすれば、例え最悪の結果になったとしても前向きに受け止められるのだと思います。
母との関係、母の死はそういうことを私に教えてくれました。
今年、一番インパクトの強かった出来事でした。
一日一日を大切に過ごしたいと常日頃思ってはいるのですが、毎日やらなければいけないことと時間に追われて、気がつけば飛ぶように一年が過ぎてしまったという感覚です。
日々、遭遇する何気ない事柄をその都度、書き留めておけるほど私はマメな性格ではありませんが、それでも、今年一年で印象に残っていること、強く感じたことなどを、2021年の終りに書き残しておこうと思います。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
今年は、昨年から引き続き新型コロナウイルスが世界を翻弄する一年でした。
正直、私は活動的な性質ではないし、体調が悪いことの方が多く、体力も乏しいのでウイルスが流行する前から人に頻繁に会ったり、外食したり、旅行に行ったりはしていませんでした。
ですから、緊急事態宣言や外出自粛要請があっても、普段と変わらない日常を送っていました。
むしろ、元気な人たちのように活発に動き回れないことを負い目に感じることなく、息苦しいほどだった世間の活気が穏やかになって、過ごしやすいと思うくらいでした。
そんなコロナ禍の生活リズムに慣れていたある朝、一緒に暮らしている母の具合が悪くなり、救急搬送された病院で母はその日のうちに息を引き取りました。
その日は、午前中から仕事があったので、私は仕事に行く準備をしながら救急車に乗る母の後姿を見送りました。それが、生きている母を見た最後でした。
昼休みに母に付き添っていた父から連絡があり、母が亡くなったことを知りました。
私の仕事は雇用契約ではなく、遅刻や早退はただのドタキャンになってしまうので、私は帰ることができず、心ここにあらずの状態で午後も仕事をして帰りました。
母は82歳でした。83歳の誕生日まであと10日足らずの出来事でした。
死因は急性心不全とのことでしたが、病院に搬送されてからも症状の原因が分からず、3時間ほど様々な検査をして、それでも判明しなかったので入院することになったその時に心臓が止まってしまったと父から聞きました。
私は今まで、病院に行けば全ての病気が判明し、治療してもらえるものだとなんとなく思っていました。
病名や原因がはっきりして、治療をしたけれどダメだったというのなら、仕方ないと気持ちを整理できるのですが、あまりに急な出来事だったことと、はっきりした原因が分からないまま死んでしまったということがショック過ぎて、私は母が死んだという事態をすぐには吞み込めずにいました。
人が年齢に関係なく死ぬという事実は理解できています。
母よりも若い人たちが亡くなっていることも知っています。ですが、反対に母よりも年上の人たちが健在でいることも事実です。
82歳という年齢は、人によったらいつ死んでもおかしくない年なのかもしれません。それでも、母がもう少し長く生きることができたのではないかと考えてしまう自分がいました。
とはいえ、実際、こういうことはいずれ誰の身の上にも起こる出来事で、仕方のないことです。
「いつかはこうした別れがある」と覚悟していたはずなのに、私は救急車に乗る母の姿を見ておきながら、母がそのまま死んでしまうなんて、これっぽっちも思わなかったのです。
それほど、母は普段の生活が元気でした。母は亡くなる前日まで日記をつけていましたし、亡くなる朝もいつものように血圧を測ってから台所に立っていました。
まさか、突然気分が悪くなって、訳の分からないまま心臓が止まってしまうとは、母自身も思っていなかったでしょう。
母には作業に没頭する癖がありました。性分だったのだと思います。
働いた分だけ休むということも、あまりしませんでした。むしろ、くたくたに疲れるまで身体を動かすことに生きがいを感じているようなところもありました。80歳を越えても、その癖はなかなか治らないようで、気が進まないと思っても、無理をして父と外出している時もありました。
私は母に十分休んで欲しいと思っていましたし、何から何まで父の言うことやることに付き合うことはないと母に言ってきました。母が私の言葉に耳を貸すことはありませんでしたが。
けれども、母がそのように生きたかったのならば、それはそれで仕方のないことのように思えます。
母が亡くなって一番強く思ったのは、後悔しないように生きたいということです。
母と私の関係は表面的には良好でしたが、折り合いのつかない部分も多く、たいていは私が自己主張をせず、母の意見を黙って容認することで成り立っていました。
それでも、うまくいかない問題については、私が母から距離をとることで処理していました。江戸っ子で勝気な母はそんな私に「張り合いがない」とか「根性がない」というようなことを言っていましたが、私には二人の考えが平行線を辿ることは分かっていましたし、分かり合えない問題について延々と不毛な議論をすることほど時間と労力の無駄はありません。
私と母がうまくいかない部分はどうにもなりませんでしたし、それは私のせいでも母のせいでもないような気がするのです。
私に独自の考え方と生き方があるように、母にも母なりの人生の経験値と自負心があったので。
私はどちらも否定したくはありませんでした。だから、私が一定の距離をとって母と接したことは最善の策だったと今は思います。
感情の発露によって人物を理解したり、絆を深めたい母に対して、私は強すぎる感情を表に出すこと・出されることに生理的嫌悪を感じてしまう体質でした。(おそらく、子供の頃から父親が日常的に大声で怒鳴り散らしていたり、叩くなどの暴力的行為を繰り返していたことと関係があると思います。)
結局、母は(私が思うように)私のことを理解してくれないまま亡くなりましたが、私は母への自分の対応について後悔はありません。
利己的で独善的な母親との関係性は少なからず私を苦しめ続けたのですが、私はどうせうまく行かないのだからと諦めず、ゆっくりですが、そのことと向き合って足らない考えを絞り出しました。
結果はあまり良くなかったかもしれませんが、自分にできる限りの努力はしたという思いがあります。
これから先の人生においても、様々な難しい局面があるだろうと思いますが、無い知恵を振り絞って最善を尽くそうと思います。
そうすれば、例え最悪の結果になったとしても前向きに受け止められるのだと思います。
母との関係、母の死はそういうことを私に教えてくれました。
今年、一番インパクトの強かった出来事でした。
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