私の観音さまが年が始まって
13日目を
苺を食べる日と決めなさった
私にとって苺は
観ては心が癒やされ
食べれば体が浄化される
ありがたい果物
他人の不安は
当事者じゃないから
余計な感情がない分
全体像がつかみやすく
よく分かり
どうしたらいいのか
見えやすい
でも
その本質を伝えることは
よっぽどの関係じゃない限り
伝えない
家族であっても躊躇する
だからって
伝えることも伝えないことも
優しさでも意地悪でもない
でも
伝えかた次第で
優しさや意地悪にもなる
その違いは何から生じるのか
正しいか間違っているかでも
善か悪でもない
それは
伝える人の
心のセンスでしかない
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日本は神道だし
ネパールあたりは仏教だったし
中国あたりは道教や儒教
キリスト教は中東あたり
救世主は
その地域を救いたくて
その地域の価値観や習慣に合うように
その地域に根差した
分かりやすい教えを説いている
だから
その教えが
その地域から出てしまうことは
もう間違っている
信者を増やしたいだの
他の地域の人も救いたいだの
人間の浅知恵が動いた時点で
その宗教は終わりだ
あとは人間の欲を満たすために
巧妙に利用される
人間の欲が神をかたり
どれだけ人間が乱れてきたか
歴史を見れば分かることだ
シャカやキリストは
お経も聖書もかいてない
儀式的な礼拝も
偶像崇拝も教えてない
それはのちの人間が
つくりだしたものだ
でも
この世の中を救えるのは
人間なんだ
だって
シャカもキリストも
肉体を持った人間だった
きっと教えは
とてもシンプルで
難しい儀式も
読めない経典もいらなくて
与え続けるばかりの
自然のエネルギーと
自分の命をつないでくれた
亡くなったものたちに
ありがたいと
日々思うことができたなら
世の中が変わりだすと思う
物語や音楽や誰かの体験や
人は感動して泣く
自分の日常に
右往左往して
喜んで悲しんで怒って
私は泣く
何らかに心を揺さぶられると
涙が出るのは人だけ
人は涙を流すことが
多かれ少なかれ
好きなようだ
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時折やってくる無気力感
すべてが面倒に思えてくる
わずらわしいものから
解放されて
楽になりたい
そんなときもあるさ
でも生まれ出た以上
生ききらなければ
人は完璧ではなく
みんな未熟に生まれ
未熟なまま死んでいく
人の役割や
存在の意味や理由とは
人は問いかけ続ける
けど
生きてる内に
答えは出ないようになっていて
だから
未熟な人が答えを出すために
どう行動したかしかなく
どうしても答えが知りたいなら
こんな答えはどうだろう
地球上に
意味や理由がなくなったものは
すべて消え失せている事実がある
この地球上にあってもなくても
環境に影響がない存在が人間
今ではむしろいない方が
地球環境にいい存在が人間
それでも人の存在が
地球上に許されている
この事実があらゆる人の
存在理由であり
この世に生きるという事実だ
そもそも
こんな問いは
愚かな人間が
生きるための意義を
見つけたいだけの言い訳探しでしかない
人間の存在自体が
完璧な存在意義だというのに
生きる意味ではなく
意味があるから生きるのだ
この地球上に
この愚かな人間たちの
存在価値があるのだ
価値があるうちに
すべての人は
根っこでつながっていて
すべての人は
1つであることに
気づかなくてはいけない
もう何千年も人間が
気づけないで
何度も繰り返した
愚かな蓄積
それでも
地球上に人間の存在意義が
あると示される
途方もなく悲しくなる
人の存在価値が
あるときなくなったら
そのとき人間は消え失せるのだろう