昨日に引き続きの
矛盾の正体が解明です。
最初に
以前書いたこちらの記事
すぐに何かを置き忘れてしまう自分の感覚を日常的に持って
生活しているわけですが、
同時に
後から見ても
分かりやすい場所に
目立つような状態にさせて
置いておく
ちゃんとしている自分も存在している。
ちゃんとしている自分がいるのに
整理とか書類の保管ができない自分って
大騒ぎしているのに気づいた時に
矛盾
とか
ねじれている
とか感じていた私。
一体全体どういうことだ?
極めてちゃんと考えて行動している自分もいるのに
その自分の記憶がなく
何事もだらしなく整理など出来ていない自分しか認識できていない。
結果
自分はちゃんとしていないとレッテルを貼り付けている。
この矛盾をどう説明する?
相当ねじれている自分
と感じていたわけですが
昨日の記事同様の仕組みだったのです。
根底にあるのは
自分の願いだったのです。
別の言葉でいうと
思い込み。
昨日の記事では
「自分の本音を言いたくない」
「自分の本音を言わないようにする」
という自分の思い込みというか
設定という言い方のほうが適切かもしれませんね。
その結果
恥ずかしいことや言いにくいことというダークっぽい本音を言わないようにしてきたつもりが
いつの間にか
うれしいことや楽しいこと、感動したことみたいな光り輝く素敵な本音を表現することにまで
抵抗感を持ってしまっていた。
今回も同じようなことが起きていたのでした。
自分の中に
「ちゃんとしている」とか「真面目にコツコツ積み重ねて行動する」とか
「締切日までにすませる」みたいな行動全般に対して
一言でいうと
「ちゃんとしているのは、カッコ悪い」という設定があったのです。
この思い込みがあるせいで
自分の目の前に展開される世界というか景色は
大体が
ちゃんとしていない、ダラダラとしている、コツコツ続けない、期限に間に合わない
というような現実が当たり前の世界になっていたのですね。
この場面で言うと
書類など探しても見つからない
どこに置いたのか記憶にない
という状態がよく起きるので
困ったものだ、なんてだらしないのだ、自分は駄目などとなっていました。
だって
書類がすぐに見つかったり
きちんと整頓されている状態は
全てカッコ悪い
という設定なのだから
カッコ悪い状態になるようになっていたのですね。
なので
一見
ちゃんと考えて書類を置いたように見えている状態も
それを覚えていないのなら意味がない
つまり
ちゃんとやったのにおぼえていないのはダサいしカッコ悪い
どちらにしろ
カッコ悪いとか駄目だとかなる方向になるように
なっていたのですね。
表面の部分だけを見ていると
ねじれているとか
どれだけ矛盾をかかえているのだ
とか
なってしまいますが
ちゃんとしているのはカッコ悪いという設定のもとで
その通りの現実になっているだけなのに
こうやって大騒ぎをしている段階で
すでに
カッコ悪い状態になっているのでした。
どうも
設定した通りの現実になる
そうやって
自分の日常生活やらを見直してみると
結構
シンプルなのかもしれません。
思い込みというか
設定というか
強力ですね。