IL DIVO 「故郷(ふるさと)」@日本武道館 2018
兎追ひし彼の山
小鮒釣りし彼の川
夢は今もめぐりて
忘れがたき故郷
如何にいます父母
恙なしや友垣
雨に風につけても
思ひいづる故郷
志を果たして
いつの日にか帰らん
山は青き故郷
水は清きふるさと。
見事な日本語の発音です。
否応なく 故郷を思い出させてくれます。
私の故郷は九州・大分県の国東半島のど真ん中。
昭和14年生れです、
生れ 育った村の名前は地図からきえました。
育った大分県西国東郡朝田村は1889年、明治20年に誕生、
1954年田原村と合併、大田村に名前がかわり、
そして村誕生後116年目の2005年に杵築市と合併し、
朝田という懐かしい名前は地図から完全に消えてしまいました。
全国屈指の石造美術を誇る村に育った私たち朝田小学校同級生46名は1951年<昭和26年3月>
同校を卒業し あれから70年、今年85歳を迎えました。
朝田小学校は家から歩いて4キロ チシャノ木峠をこえ 約50分かかる長い道でした。
冬寒く 靴下もまだない時代でした。コートもなく、半てんを着て 破れたゴム靴をはき手足が凍えながら、通った思い出があります。
通った学校も消えてしまいました
以来、大田中学校、長洲高校、中大と進みましたが、そのうち朝田小・大田中・長洲高校までは、もうその学校名はありません。地域の過疎化が進み あたかも日本の衰退を象徴するかのように、廃校になりました。児童 生徒の人数。
ピーク時 閉校時
・朝田小学校 433人➤18人 平成26年閉校
・太田中学校 416名➤31人 平成22年閉校
・高田高校田原分校 平成22年閉校
・長洲高校 平成15年閉校
寂しい限りです。
同時にわが家も朝田村波多方に元文2年(1737年 庄武きくの墓でわかります)に住み始めて以来、300年間続いた家も今は廃家となり、山香通りの道端にぽつんと小さな家が建つのみとなりました。
家の前には叔父の憲太郎が、大分県の唄「大分県行進曲」の作詞家として名をはせ、
村民が建ててくれた石碑がたっています。
故郷には高校を卒業して以来離れ、大学 東京 正確には川崎と葉山に住み、故郷とは無縁でした。
だが長洲高校が廃校になる年、母校での講演を頼まれて、帰省しました。
高校の同級生は、半世紀のあいだ 私が行方不明だとさわいでいたようです。
それでも、急きょ 同級会を開いてくれました。
故郷のありがたさです。
今は 年に2回 春 秋には帰省して住む人のいない家と仏壇を守っています。
区費もはらい、電気代も 水道料、お寺の維持費も払っています。
生れた家の部落には12軒あった家が今では4軒しか それも高齢者しか住んでいません。
それでも 故郷です。
先日 長男を連れて帰り、代替わりの挨拶も済ませました。
部落の人も安心したようです。
私にとって、それほど故郷は重要な存在です。