遠くで汽笛を聞きながら・アリス 社会の底辺を舐めた工場勤め。

2024-08-16 17:41:19 | 唄 人生の哀歓を想起

 

アリスのこの曲は、川崎の街工場で働く多くの青年たちを癒す歌となった。

働いても 働いても決して上へ行けない労働者の唄となった。

 

サラリーマン時代の苦闘 

 

 中学校までは国東半島のど真ん中の村で育ち、家は山林と農業が生業、小学校までは3キロ、峠をこえる道だ。食パンなどは1回も食べたことが無い、店が近くになかったからだ。

高校からは海辺の町に下宿し、大学は中大法学部法律学科。仕送りがなくバイトに明け暮れし学資は世田谷の叔父が出してくれた。

電線や電話機の交換機を製造していた会社である。川崎には東芝 日本電気<NEC>富士通 サイバネテイックス など日本のトップ企業の工場がひしめき合い高度成長期の日本をリードしていたのである。その中でも中堅企業として有数の信用と業績を誇る会社であった。

富士通を主な納入先として電話交換機を製造する栃木県小山工場 コンピュータのケーブル類を加工する茨城県北茨城工場、コンピュータのコネクター類とハーネスを接続 加工する福島県大越工場 そして本社工場は富士通川崎工場 南多摩工場向けにケーブル類の加工工場として従業員600名をこえる日の出の勢いのある会社であった。

 

日曜日に簿記学校へ通い、税理士試験に挑戦 3科目合格

昭和40年代に入社して労務担当係長そして総務課長 経理課長 総務部長代理とトントン拍子に出世し、その間 日曜日は簿記学校へ通い、3年間で税理士試験の簿記論 財務諸表論 法人税法に合格したのである。法人税法に合格してから、会社で税務申告書を自ら作成し、最後に国税上がりの税理士の印をもらうまでになっていた。

後 2科目 所得税法 相続税法に合格すれば税理士の資格がとれたのであるが、それは後に延ばした。会社の業務が忙しくなったのである。

 

後で社長から直接聞いたことだが 私の入社に対して厳密な身辺調査が行われ、近くの多摩警察署に「公安リスト」に名前があるかどうか 調べられたようだ。

当時 中大は東大と並ぶ全学連の活動が活発で、中大法学部卒がうちのような中堅に入社するのは何か理由があるのではないか と疑念を持たれていたのである。

全学連崩れが民間に潜り込むのをどの会社も注意していた。

公安リストがあり、全学連崩れは民間から締め出され

公務員 マスコミに流れた

 

全学連崩れは公務員試験 司法試験をうけ、官界に入り込んだ。

マスコミにも多くの全学連崩れが入り込んだのである。

今日 マスコミの殆どが革新系 左翼系の新聞 テレビが多いのは

この理由によるのである。

彼らとて人間、生きてゆくのに一生懸命だったのである。

警視庁の公安は活動家リストを作成し 各警察署に渡していた。

それを社長は利用したのである。

私は単に住まいのある団地から30分で行ける会社だったから、それに中堅の方が早く出征できる  身の丈にあっていると思ったからである。

世の中は情報化時代をむかえ、コンピュータ製造では日本の最大手富士通の有力なサプライヤーとして業績を伸ばした。

私は本社で各工場から出てくる売上 外注仕入 入金状況から 従業員の採用 退職など統括するようになった。

 

伊豆修善寺の旅館を保養所代わりに使い、

  各工場からの慰安旅行の場とした。

従業員慰安のため伊豆修善寺の旅館を定期的に使い、社員旅行と称して遊び コンパニオンと馴染になるほど、遊んだのである。

そして昭和の50年代 アメリカ オレゴン州ポートランドの郊外にハーネス専門工場を作る為に派遣された。

学生時代1ドル360円 アメリカは“夢のまた夢”であった。

それが実現したのである。

 しかし電機会社のサラリーマンになり、猛烈に仕事に熱中。

40代で総務部長になったが、この早すぎる出世がその後のサラリーマンに影をおとした。オレゴン州のポートランド郊外で現地法人の建設用地買取、工場建設、採用、操業開始までがんばった。

社長とのちょっとしたいさかいで退職するはめになった。

サラリーマンはつらいのだ。

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 

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