2022/1/9(日) 晴/曇
今日も、最高気温予想13°と暖かい。前回続き気温が上がった11時前からポタリングに出る。
目的地は、玉東町木葉「揚の六地蔵」、玉名市の玉名郡倉跡推定地、高瀬六地蔵・桃田運動公園の高田古墳とする。
往路は、熊鹿ロードを北へ走り、県道31、国道208を経由し、玉東町木葉「揚の六地蔵」(写真1参照)に立ち寄る。
玉名地方に行く時には、この地蔵尊の前を通る。が、立ち止まって拝するのは初めてのこと。よく見ると中台の石が削られ、あばた状にいくつもの穴が穿ってある。違和感はあるものの凝灰岩製だから風化よるものかと思っていたが、これは玉名市天水町の野部田六地蔵と同様に、地蔵信仰の一つとして病気平癒を祈願して、石粉を薬としたものと推測する。
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揚の六地蔵を後にし、玉名大橋を渡り玉名郡倉跡を目指す途中、立願寺温泉の足湯(写真2参照)で休憩と昼食を取る。
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玉名市指定史跡「玉名郡倉跡」(写真3参照)に着く。現地には、礎石と思われる石が2個と標柱と説明板があった。
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説明板(写真4参照)には、「玉名郡倉跡は、発掘調査の結果、七個の礎石と多量の炭化籾が出土し、隣接して大きい堀立柱を総柱にした高床の倉庫跡も発見された。郡倉とは、律令時代、庶民が国家に納めた租税である米穀を収納する倉庫で、この郡倉は、南北一〇〇尺(約ニ七メートル)、東西一八〇尺(約四八メートル)の長方形の柵列の中に、南北二棟、東西四列、計八棟の倉庫群が造営されたと推測され、七世紀末より九世紀末まで継続したと考えられる。「日本三大実録」貞観十七年(八七五)六月の条に肥後国玉名郡倉の事が記載されている。
なお、律令時代の郡の諸施設を郡衙(ぐんが)といい、庁院や郡司の官舎などの主要部(郡家=ぐうけ)と倉院などの付属部分(郡倉)、さらに寺院で構成され、玉名郡衙は郡家・郡倉・郡寺(立願寺)が確認される全国的にもまれな貴重な遺跡である。
また、ここは「疋野長者屋敷跡」と伝えられる所であるが郡倉の南から十二・十三世紀に編年される二重環濠をもった居館の一部が発掘され、この丘陵地一帯に玉名郡司日置氏一族の居館が営まれていたと推定される。」とある。
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玉名郡倉跡を後にして、高瀬の六地蔵を探訪する。が、分からない。宝成就跡寺古塔碑群の中に、六地蔵に似た墓塔(写真5参照)があるが、これではない。
帰宅してから、高瀬眼鏡橋の橋詰の地蔵堂に鎮座することを思い出した。
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最後の目的地、桃田運動公園の高田古墳(写真6参照)に移動する。
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高田古墳は、運動公園最上部の展望館(写真7参照)の前にある。古墳には、説明板はない。史跡として詳細が分からないためか。
ここを最後に帰途に就く。
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16時前帰宅。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)27km→玉名郡倉跡29km→熊本(自宅)
所要時間5時間(実4時間) 総計56km 走行累計45,062km