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熊本から気ままに山と自転車のブログ

西南戦争向坂戦跡・千本桜

西南戦争向坂戦跡・千本桜
2021/12/11(土) 晴

今日は、最高気温19°と暖かい日となったので、午後15時前から今週6回目のポタリングに出る。

晩秋の風景を写真に撮ろうかと、熊鹿ロード(写真1参照)を北へ向かう。
が、2時間では行先が限られるので、再訪ではあるが西南戦争史跡を向坂から千本桜へ廻る。


明徳官軍墓地の近くを通り豊前街道を北に進むと、左側崖下に西南戦争緒戦で戦死した「河原林少尉戦死の地」(写真2参照)の標柱がある。


階段を上がると「河原林少尉の墓」(写真3・4参照)がある。
墓には、二面に亘り碑文が陰刻されている。
碑文
「明治10年2月22日この向坂が官薩両軍の城北における緒戦の地となった、すなわち熊本城籠城軍に加わる為小倉より南下した第14連隊(連隊長代理乃木少佐)は夕刻植木町に入り散歩線を敷いた、一方熊本城を包囲した薩軍はその一部(村田三介隊)が北上激突した、その後14連隊は植木町千本桜に後退したが、その際連隊旗手河原林少尉は、本道の殿軍に加わり戦死、連帯旗は薩将村田三介の手に渡った、乃木少佐がこの時の責任を感じ、死を決意したことは明治天皇への殉死の遺言にも明記されている通りである、乃木少佐は連帯旗奪回を念じその後常に第一線に立って戦い、名将への道を歩んで行った、この地が、連隊旗手河原林少尉が村田隊兵士岩切正九郎に切られた茶畑付近である」


「河原林少尉戦死の地」を後にして、北に進み植木天満宮(写真5参照)に移動する。「西南戦争緒戦の地」の標柱がある。


旧国道3は拡幅・整備されている。豊前街道(写真6参照)の標柱がある。


舞尾交差点から分岐した国道208が熊鹿ロードを跨いだ所から右に旧道が分岐している。その道を少し辿った辺りを千本桜(写真7参照)と云うようだ。


そこに「乃木大将記念碑」(写真8参照)と、「板碑」(写真9参照)がある。


説明板(写真10参照)には、「舞尾の板碑(熊本市指定文化財)
安山岩の板状自然石で、高さ二メートル、幅約二メートルあり、碑の正面(南面)中央上部に六体の地蔵立像と、その下に座像一体を線刻する。碑面の向って左端には縦書きに、時文明九年丁酉十月廿五日本願・沙門祐銀敬白と線刻する。立像の地蔵の下に妙金などの交名がある。六体の立像は六道の地蔵尊を示し、座像は本体を示すものだろうと云われている。裏面のは十三王を描いた浅線刻の図像がある。各王の配置は三段に造られ、閻魔王を別にすると机を前に曲彔(きょくろく)に座している。第一王をのぞいて、それぞれの王の上部に種字が刻まれている。
千本桜
明治十年二月二十二日、乃木少佐率いる十四連隊は、熊本城に入城を急ぐ途中に、向坂で薩軍と遭遇し開戦する。優勢な薩軍に敵せず、河原林少尉帰り来ず軍旗抱き負はして千本桜に後退するも、河原林少尉帰り来ず軍旗の敵中に陥るを知り「己ニ軍旗ヲ失フ何ノ面目カ復ク生還セン返戦シテ旗ヲ獲ント欲スル者ハ我ニ従ヘ」と反戦としたが、後事を図るべきだと部下に止められ木葉に退いたという。熊本市」とある。14時過ぎ、帰途に就く。


17時前帰宅。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)23km→千本桜→熊本(自宅)
所要時間2時間(実2時間) 総計23km 走行累計44,467km


西南戦争向坂戦跡
2017/12/25(月) 晴

西南戦争史跡探訪3回目。
行きは冷たい向かい風だが、昼からの晴天予報を期待してポタリングに出る。
植木天満宮の南0.5kmの所に、河原林少尉戦死の地の碑(写真3参照)があった。


自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。

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