芥川龍之介の作品として広く一般的に知られている『蜘蛛の糸』について、今回は解釈の元となる資料も特にはないが、物語世界を中心に私なりの考察をしてみようと思う。まずはじめに、『蜘蛛の糸』のあらすじを短くまとめてみよう。
蓮が浮かぶ池のふちから地獄を垣間見たお釈迦様。他の悪人たちとともに苦しみあえぐカンダタに目をとめました。
カンダタは元は大泥棒。でも、一度だけ、蜘蛛を助けた事がありました。
―カンダタなら、まだ望みがあるかもしれない。
そう考えたお釈迦様は池に蜘蛛の糸を垂らしました。しかし、その期待は裏切られ、カンダタは欲を出してしまいます。我先にと他の悪人たちを蹴落として登ってくるカンダタの姿にひどくがっかりしたお釈迦様は蜘蛛の糸をぷちんっと切ってしまいました。
ここで描かれるカンダタは言うまでもなく悪人だ。他の悪人たちを蹴落として自分だけが助かろうとする姿は欲にまみれた醜いものとして描かれている。しかし、カンダタのとった行動は、人が追い詰められたとき、誰でも取るであろう行動ともとれる。では、著者は『蜘蛛の糸』に何を描いたのだろうか。まずは、カンダタが落とされた地獄というのがどういう世界であったか、そこからじっくり考えていくこととしよう。
地獄は私の知る範囲でも様々な形態がある。例えば、血の池地獄、針山地獄などである。どの地獄に落とされるかは、生前の罪悪によって決まるといわれているが、どこにあたったにせよ、私たちの想像をはるかに超えた耐え難い苦しみをうけることになる。全ては生前にとった罪悪のため。その罪は決して許されることがないのである。
カンダタは血の池地獄に落とされていたが、前述したように、煮えたぎる血の池にむせびながら、過去の罪悪に悶え続けていた。
そこへ垂らされたのが一本の蜘蛛の糸だ。しかし、それがお釈迦様による好意であることをカンダタが知るはずもない。苦しみにあえぐことしかできない状況にある上に何も知らされていないカンダタに、周りの人のことまで含めた善悪の判断をする余裕などなかったはずである。きっと、そのときカンダタはこう考えたであろう。
―これは奇跡。この機会を逃せば、もう二度と訪れないかもしれない。
しかし、カンダタの目の前に示されたのは、あまりにも細く、もろい蜘蛛の糸だった。
自分だけでも途中で切れてしまうかもしれない。カンダタはまさにわらにもすがる思いでそのいちかばちかにかけたのだ。
また、上記の要約には載せていないが、カンダタが登った蜘蛛の糸はおそろしく長いものだった。体力の限界を感じながら、おそらく腕の感覚も麻痺してきていたであろう。普通なら途中であきらめても不思議ではないほどの道のりである。それでもカンダタは必死にしがみついた。それはなぜか。
ひとつ考えられるのは、いうまでもなく苦しみからの解放である。しかし、その苦しみはどこからきているのか。その根本を考えたときに出てくる答えが「許し」である。
先にも述べたように、地獄にいる者は許されることのない罪を背負っているから地獄にいるのである。そこから出るということはつまり、許されるはずがなかった罪が許されるということである。地獄が罰を受ける場所ととらえるならば、天国は、全てが許される場所といえよう。
さて、ここで『蜘蛛の糸』の話をふりかえってみよう。カンダタが登る先にはお釈迦様がいた。お釈迦様はカンダタの善い行いも悪い行いも知っていた。善い行いも悪い行いも知っているということはすなわち、相手を受け入れることができるということだ。つまり、「許す」ことができるということである。
ここで一つ私の考えを述べると、人は誰かに許されて初めて自分を許すことができるのだと思う。強い罪悪感にさいなまれたとき、「もういいよ」「苦しまなくていいんだ」といってくれる人がいてはじめて心からほっとすることができる。そういう相手がいない場合、その人は許されることのない罪悪感をずっと背負って生きていくことになるだろう。
そしてそれができるのは、事のあらましを全てを知っている相手である。もし誰かと喧嘩したとして、それを許せるのは喧嘩した相手だけだ。地獄では、そういった自分を許す術すら奪われるのだ。
しかし、カンダタの目の前に蜘蛛の糸が垂らされた。カンダタがそれを意識したかどうかは別として、自分を許す希望の光のようなものも見出していたのではないだろうか。
しかし、その糸はあまりにも細かった。みんなで登ったらそれこそぷちんといってしまう。
せっかくの希望の光も失ってしまう。それは人間だれもが抱く不安であり、カンダタはそうした人間の心の弱さにまけてしまったのである。
『蜘蛛の糸』は、全ての人間に共通する、内面のもろさ、腑甲斐なさを描いた作品なのではないだろうか。
蓮が浮かぶ池のふちから地獄を垣間見たお釈迦様。他の悪人たちとともに苦しみあえぐカンダタに目をとめました。
カンダタは元は大泥棒。でも、一度だけ、蜘蛛を助けた事がありました。
―カンダタなら、まだ望みがあるかもしれない。
そう考えたお釈迦様は池に蜘蛛の糸を垂らしました。しかし、その期待は裏切られ、カンダタは欲を出してしまいます。我先にと他の悪人たちを蹴落として登ってくるカンダタの姿にひどくがっかりしたお釈迦様は蜘蛛の糸をぷちんっと切ってしまいました。
ここで描かれるカンダタは言うまでもなく悪人だ。他の悪人たちを蹴落として自分だけが助かろうとする姿は欲にまみれた醜いものとして描かれている。しかし、カンダタのとった行動は、人が追い詰められたとき、誰でも取るであろう行動ともとれる。では、著者は『蜘蛛の糸』に何を描いたのだろうか。まずは、カンダタが落とされた地獄というのがどういう世界であったか、そこからじっくり考えていくこととしよう。
地獄は私の知る範囲でも様々な形態がある。例えば、血の池地獄、針山地獄などである。どの地獄に落とされるかは、生前の罪悪によって決まるといわれているが、どこにあたったにせよ、私たちの想像をはるかに超えた耐え難い苦しみをうけることになる。全ては生前にとった罪悪のため。その罪は決して許されることがないのである。
カンダタは血の池地獄に落とされていたが、前述したように、煮えたぎる血の池にむせびながら、過去の罪悪に悶え続けていた。
そこへ垂らされたのが一本の蜘蛛の糸だ。しかし、それがお釈迦様による好意であることをカンダタが知るはずもない。苦しみにあえぐことしかできない状況にある上に何も知らされていないカンダタに、周りの人のことまで含めた善悪の判断をする余裕などなかったはずである。きっと、そのときカンダタはこう考えたであろう。
―これは奇跡。この機会を逃せば、もう二度と訪れないかもしれない。
しかし、カンダタの目の前に示されたのは、あまりにも細く、もろい蜘蛛の糸だった。
自分だけでも途中で切れてしまうかもしれない。カンダタはまさにわらにもすがる思いでそのいちかばちかにかけたのだ。
また、上記の要約には載せていないが、カンダタが登った蜘蛛の糸はおそろしく長いものだった。体力の限界を感じながら、おそらく腕の感覚も麻痺してきていたであろう。普通なら途中であきらめても不思議ではないほどの道のりである。それでもカンダタは必死にしがみついた。それはなぜか。
ひとつ考えられるのは、いうまでもなく苦しみからの解放である。しかし、その苦しみはどこからきているのか。その根本を考えたときに出てくる答えが「許し」である。
先にも述べたように、地獄にいる者は許されることのない罪を背負っているから地獄にいるのである。そこから出るということはつまり、許されるはずがなかった罪が許されるということである。地獄が罰を受ける場所ととらえるならば、天国は、全てが許される場所といえよう。
さて、ここで『蜘蛛の糸』の話をふりかえってみよう。カンダタが登る先にはお釈迦様がいた。お釈迦様はカンダタの善い行いも悪い行いも知っていた。善い行いも悪い行いも知っているということはすなわち、相手を受け入れることができるということだ。つまり、「許す」ことができるということである。
ここで一つ私の考えを述べると、人は誰かに許されて初めて自分を許すことができるのだと思う。強い罪悪感にさいなまれたとき、「もういいよ」「苦しまなくていいんだ」といってくれる人がいてはじめて心からほっとすることができる。そういう相手がいない場合、その人は許されることのない罪悪感をずっと背負って生きていくことになるだろう。
そしてそれができるのは、事のあらましを全てを知っている相手である。もし誰かと喧嘩したとして、それを許せるのは喧嘩した相手だけだ。地獄では、そういった自分を許す術すら奪われるのだ。
しかし、カンダタの目の前に蜘蛛の糸が垂らされた。カンダタがそれを意識したかどうかは別として、自分を許す希望の光のようなものも見出していたのではないだろうか。
しかし、その糸はあまりにも細かった。みんなで登ったらそれこそぷちんといってしまう。
せっかくの希望の光も失ってしまう。それは人間だれもが抱く不安であり、カンダタはそうした人間の心の弱さにまけてしまったのである。
『蜘蛛の糸』は、全ての人間に共通する、内面のもろさ、腑甲斐なさを描いた作品なのではないだろうか。