育児といろいろ

父親から見た育児。長女は産院、二女・三女は自宅出産。四女は助産院。それぞれの違いがよくわかりました。子育て頑張ってます。

糸数壕(アブチラガマ)

2008年06月23日 23時47分18秒 | 本、生き方
糸数壕(アブチラガマ)を見に行きました。沖縄決戦という映画を見ているだけに、その凄惨さが脳裏に焼きついていますが、沖縄戦の歴史を綴った書物や手記を読んでいるとその壮絶さは計り知れないものであり、身の毛がよだちます。

アブチラガマという名のは、アブ=深い縦の洞穴、チラ=崖、ガマ=洞窟や窪み。に由来しています。沖縄のほとんどがさんご礁から成っており、雨の浸食によって自然に出来た洞窟が各地にあったため、住民の避難場所や軍の基地としてきました。

全長270mのアブチラガマの入り口が非常に急で、なかは非常にひんやりしていました。当時、糸数集落の非難壕でしたが、日本軍の陣地壕や倉庫として使用され、その後、南風原(はいばる)陸軍病院の分室となりました。

なかは、井戸や大かまど6個もあり、小川も流れていました。なかは真っ暗で懐中電灯がなければ、暗すぎてよく分かりません。また、病院として利用されていたため、病棟、便所、死体安置場、破傷風患者、脳症患者など区画で別けられていました。その死体のそばで6月23日正午となり、何とすべての電気が消され、黙祷となりました。暗すぎて隣も見えません。

一時600名以上負傷兵で埋め尽くされ、病院解散後も200名近くが、5月25日~8月22日までの約3ヶ月もの間この暗闇にいたのかと思うとぞっとしましたし、死体安置所の傍は感じるものがありました。

自決は自らの手で命を絶つことですが、沖縄での集団自決は集団死と取り扱うのが正しいのかもしれません。当時の戦争教育によって、米軍に捕まった際の恐怖思想を教え込まれ、住民が死に誘導されたものだと考えます。

ガマによっても生死が別れ、チビチリガマ(尻切れ洞)はほとんどが絶命。死にきれない人々が米軍によって救出されました。シムクガマ(チビチリガマから東に1km)ではハワイ移民帰りの男性2人により米軍指揮官との交渉により、全員無事で収容所に向かいました。

とにかくこの日正午にただでさえ暗いのにすべての照明を落として、ガマのなかで黙祷を捧げたのは衝撃的でした。戦争はあってはならないことだと思います。会いこそあれば戦争は起きません。自分勝手なエゴが戦争を引き起こすのです。


糸数壕(アブチラガマ)出口


※1945年6月23日は沖縄において日本軍による組織的な戦闘が終った日です。6月22日(一般的には23日と言われてますが、米軍資料や陣中日誌によると22日未明)は沖縄戦の日本軍の最高司令官牛島中将が摩文仁にて自決をもって、組織戦が終わったとみなしています。なお、沖縄戦において、当時の沖縄県民の人口60万人のうちの4分の1にあたる15万人が亡くなりました。

6月23日は沖縄県の条例で「慰霊の日」としています。


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