カンボジア紀行 3.一ノ瀬泰造を偲んで
2010/06/21 21:46
1973年シェムリアップで一ノ瀬泰造という戦場カメラマンが死んだ。
その頃の僕は血気盛んな大学2年だった。
学業もそこそこに山に明け暮れていた。その頃、写真には全く興味が無く
山で記録を撮る程度のものだった。
当然、その頃一之瀬泰造を知るはずもなく、彼の名前を知ったのはカンボジアをバイク旅する2005年だった。彼が死んで30年も後の事だ!
Angkor Wat を見るだけの観光旅行ならさして予備知識など必要は無かったのだけれど、12日間のカンボジア縦断ツーリングには観光地とはかけ離れた人々の生活そのものに触れる旅だったので少しばかり書物を読んだ。
そんな時、一ノ瀬泰造を知ったのだった。
一ノ瀬の両親は、行方不明後も息子の生存を信じ、カンボジア政府に幾度も捜索の嘆願書を送り続けた。そして一ノ瀬泰造を村人が見たとの情報を得て、1982年、TBSの取材に同行する。そしてアンコールワットの北東約10キロ、プラダックの荒涼とした草原の土に眠る息子の遺骨と再会することになる。取材によると、一ノ瀬泰造は1973年11月22日か23日、アンコールワット潜入後すぐにクメール・ルージュに捕まる。そしてプラダックに連行された。夜は足に鎖を繋がれたが、昼間は自由に村人の撮影をしたりしてたらしい。その後、命よりも大切なカメラを取り上げられ、反抗的な態度を咎められ、11月28日に処刑された。遺体の埋められた場所は、村人の多くが覚えていて、両親はそこを堀りかえし、遺骨を収集した。清二氏が、泥にまみれた遺骨を近くの川で洗い、荼毘に付した。遺骨の一部はアンコールワットを仰ぐ木の下に、残りはのちに日本に持ちかえられ、現在は故郷、佐賀県武雄に眠っている。
アンコールワット
アンコールトム
彼の見たアンコールワットは今とどう違っていたのだろう、、、
囚われの身となった彼が毎日写したのは無邪気な子供だったという。
そういえば、カンボジアツーリングで一番写したのは遺跡と子供達だったなぁ。。。
一ノ瀬泰造のDVDが発売されるらしい。いまだに忘れられていないカメラマンなんですね。
オフィシャルサイトhttp://www.taizo.photographer.jp/
2010/06/21 21:46
1973年シェムリアップで一ノ瀬泰造という戦場カメラマンが死んだ。
その頃の僕は血気盛んな大学2年だった。
学業もそこそこに山に明け暮れていた。その頃、写真には全く興味が無く
山で記録を撮る程度のものだった。
当然、その頃一之瀬泰造を知るはずもなく、彼の名前を知ったのはカンボジアをバイク旅する2005年だった。彼が死んで30年も後の事だ!
Angkor Wat を見るだけの観光旅行ならさして予備知識など必要は無かったのだけれど、12日間のカンボジア縦断ツーリングには観光地とはかけ離れた人々の生活そのものに触れる旅だったので少しばかり書物を読んだ。
そんな時、一ノ瀬泰造を知ったのだった。
一ノ瀬の両親は、行方不明後も息子の生存を信じ、カンボジア政府に幾度も捜索の嘆願書を送り続けた。そして一ノ瀬泰造を村人が見たとの情報を得て、1982年、TBSの取材に同行する。そしてアンコールワットの北東約10キロ、プラダックの荒涼とした草原の土に眠る息子の遺骨と再会することになる。取材によると、一ノ瀬泰造は1973年11月22日か23日、アンコールワット潜入後すぐにクメール・ルージュに捕まる。そしてプラダックに連行された。夜は足に鎖を繋がれたが、昼間は自由に村人の撮影をしたりしてたらしい。その後、命よりも大切なカメラを取り上げられ、反抗的な態度を咎められ、11月28日に処刑された。遺体の埋められた場所は、村人の多くが覚えていて、両親はそこを堀りかえし、遺骨を収集した。清二氏が、泥にまみれた遺骨を近くの川で洗い、荼毘に付した。遺骨の一部はアンコールワットを仰ぐ木の下に、残りはのちに日本に持ちかえられ、現在は故郷、佐賀県武雄に眠っている。
アンコールワット
アンコールトム
彼の見たアンコールワットは今とどう違っていたのだろう、、、
囚われの身となった彼が毎日写したのは無邪気な子供だったという。
そういえば、カンボジアツーリングで一番写したのは遺跡と子供達だったなぁ。。。
一ノ瀬泰造のDVDが発売されるらしい。いまだに忘れられていないカメラマンなんですね。
オフィシャルサイトhttp://www.taizo.photographer.jp/