気ままに良い旅

何気ない日々の暮らしと趣味の山旅・国内旅行・海外旅行を思い出とともにつづります

カンボジア紀行 3.一ノ瀬泰造を偲んで

2019-07-29 12:08:30 | カンボジア11日バイクツアー
カンボジア紀行 3.一ノ瀬泰造を偲んで

2010/06/21 21:46





1973年シェムリアップで一ノ瀬泰造という戦場カメラマンが死んだ。
その頃の僕は血気盛んな大学2年だった。
学業もそこそこに山に明け暮れていた。その頃、写真には全く興味が無く
山で記録を撮る程度のものだった。

当然、その頃一之瀬泰造を知るはずもなく、彼の名前を知ったのはカンボジアをバイク旅する2005年だった。彼が死んで30年も後の事だ!
Angkor Wat を見るだけの観光旅行ならさして予備知識など必要は無かったのだけれど、12日間のカンボジア縦断ツーリングには観光地とはかけ離れた人々の生活そのものに触れる旅だったので少しばかり書物を読んだ。
そんな時、一ノ瀬泰造を知ったのだった。

一ノ瀬の両親は、行方不明後も息子の生存を信じ、カンボジア政府に幾度も捜索の嘆願書を送り続けた。そして一ノ瀬泰造を村人が見たとの情報を得て、1982年、TBSの取材に同行する。そしてアンコールワットの北東約10キロ、プラダックの荒涼とした草原の土に眠る息子の遺骨と再会することになる。取材によると、一ノ瀬泰造は1973年11月22日か23日、アンコールワット潜入後すぐにクメール・ルージュに捕まる。そしてプラダックに連行された。夜は足に鎖を繋がれたが、昼間は自由に村人の撮影をしたりしてたらしい。その後、命よりも大切なカメラを取り上げられ、反抗的な態度を咎められ、11月28日に処刑された。遺体の埋められた場所は、村人の多くが覚えていて、両親はそこを堀りかえし、遺骨を収集した。清二氏が、泥にまみれた遺骨を近くの川で洗い、荼毘に付した。遺骨の一部はアンコールワットを仰ぐ木の下に、残りはのちに日本に持ちかえられ、現在は故郷、佐賀県武雄に眠っている。

アンコールワット



アンコールトム

彼の見たアンコールワットは今とどう違っていたのだろう、、、
囚われの身となった彼が毎日写したのは無邪気な子供だったという。

そういえば、カンボジアツーリングで一番写したのは遺跡と子供達だったなぁ。。。

一ノ瀬泰造のDVDが発売されるらしい。いまだに忘れられていないカメラマンなんですね。
オフィシャルサイトhttp://www.taizo.photographer.jp/

カンボジア紀行 2.カンボジアとタイ国境にて

2019-07-29 12:07:53 | カンボジア11日バイクツアー
カンボジア紀行 2.カンボジアとタイ国境にて

2008/11/14 18:32


  
 先月、10/15日カンボジアとタイ国境にて内戦勃発!

 カンボジアとタイ国境にあるヒンズー寺院遺跡「プレアビヒア」付近の領有権を巡り、両国外相が11/12日、カンボジア北西部のシエムレアプで協議し、5項目の紛争回避策に合意した。

 合意事項は(1)軍事衝突の危険が生じた場合には、数時間以内に緊急協議を開いて衝突を回避する(2)国境画定に関する法的問題を話し合う、合同専門家部会を設置する(3)係争地周辺の地雷撤去を協力して行う--など。

 遺跡付近では4.6平方キロの国境未画定区域があり、両国が共に領有権を主張して対立している。先月には両国軍間で2度にわたって銃撃戦が起き、双方に死傷者が出た。




先月、僕はこのニュースをなんとなく見ていた、、、、


カンボジア  カンボジア  タイ  タイ   国境  国境
プレアビヒア プレアビヒア、、、、、
何処かで聞いた地名だ!     
翌日、ハッ っと 僕は思い出した。


僕は、2005.12月暮から2006年1月前半、

2週間ほどでバイクでカンボジアを一周した時、プレアビヒアで滞在し遺跡を見たのだった。それはアンコールワットのような大きさ派手さは無いが、ものすごく美しい、ジャングルの中に有る小高い山の頂にある遺跡だった。
遺跡の周囲は赤いドクロマークが点在し、今だに地雷が埋まっている地域だった。それでもここはタイとカンボジアを検閲無しで行き来できたのだ!それは、国境が未確定だった事もあり、僕達はカンボジア側からタイへ歩いて観光にも行けた不思議なエリアだった。






プノンペン(カンボジアの首都)を出発!海のように広いメコン川を川上に向かって走る、大河沿いの村を数え切れないくらい通り過ぎ5日目にメコン川にさよなら!を告げ、いよいよジャングルである。
母なる大河メコンはとうとうと流れ、人々は雨季の川が運ぶ肥沃な土で米を作り、そして常に川からの恵みを受け続ける。時には氾濫する暴れ川となっても彼らには母なる川から受ける恵みの方が大切なのだ!そんなメコン川を目に焼き付ける。小さな都市はあるが、そこを離れればお金など必要の無い時給自足の生活がここにはある。12月は乾季である。曇天ではあるが一度も雨に降られる事は無かった。




時々現れる高床式の住居!そんな小さな村で休憩していると
日本人とOFFロードバイクなど見たことの無い人々が群がる。
優しいまなざしの奥にこの国の過去の悲劇など想像がつかない!

彼女の心が純粋なのは目を見れば分かる。



北部のジャングル帯
生活道路はなくなりオックス・カントリー・ロード(牛車道)が始まる。
いまだ、ポルポトの脅威が消える事は無い。残党からの攻撃に備え
    地元警察の護衛を受けジャングルを抜ける。
    だが、僕の目には護衛とは名ばかりの袖の下が見え隠れする。
いつの時代もまじめ・勤勉なのは民だけか!、、、、





彫刻に圧倒される。
カンボジア&タイ紛争の舞台となったであろう遺跡
ここでの滞在はノンビリしたものであった。
1000年前の遺跡を歩く時その精巧な石組建築
プレアビヒアの遺跡!





多くは崩れ去っているが悠久の時を越えた建築
ヒンドゥー教
ビシュヌ神を祀る祠堂を中心に回廊・塔門が構成されている




レリーフに圧倒される
過去の回廊をくぐって僕達は異次元の世界に足を踏み入れる







出発の朝
昨日見た回廊を歩いて小高い石舞台に上がる
ベトナムから太陽は上り、カンボジアのジャングルを照らし出す。
みな、思い思いに遥か地平線を見つめる。





遺跡へ続く広く長い石畳を降りてゆく
バイクに乗りプレアビヒアとお別れである

そして僕達は350キロ先のシェムリアップへ走り出す
そこが、アンコールワットである



ついこの前、30年ほど前この国は暗黒だった!
ポルポトの狂気
自国民の1/3 300万人も大虐殺したポルポト
彼の理想国家とは何だったのか、、、
何のための殺戮だったのか
ポルポトが既に死んでいる今となっては真相は闇の中だ


殺しあうことのない世界
いつかそんな時代は訪れるのだろうか
カンボジアで出会った人々は優しく
みな良い人たちだったのに
 
人が人を殺す
それは
国益だけを重んじる一部の人間の
仕業なのだ!

戦争のない平和な世界はいつ訪れるのか




カンボジア紀行 1.マリア

2019-07-29 12:05:54 | カンボジア11日バイクツアー
カンボジア紀行 1.マリア

2008/04/29 18:41



例によって音楽でも聴きながら
皆様日記読んでくださいませ!












・・・・
・・・
・・










その川岸に駆け下りると
あるはずの橋はなかった!
その川は母なる大河メコンの支流だった。

シャントゥンは昨年はバイクを押して渡れる位の
小さな手作りの橋が確かにあったんだ!
と言う!
向こう岸までは100?はあるだろう。



私たちは、バイクを停め
向こう岸を見つめた、、、。




すると向こう岸から木の葉の様な形をした小船がこちらへ向かってくる。
よく見ると
小船を漕いでいるのは少年のようだ


そして
小船に立ったまま乗っているのは
一人の女だった。

小船が近づくと、彼女は何かを抱えているように見える。
岸に近づくと、それは赤ん坊だと分かった。
もちろん
彼女の子供だ。




その姿を私たちは見つめる
なぜか印象的な一枚の絵画のようにも見えた。
小船の上の逆光の彼女は
まるで
聖母マリア


彼女は船を降り
そして私達が走ってきたジャングルの村へ歩いて行った
私はいつまでも彼女を見つめた。







私が成人した頃




この国は暗黒だった
多くの人々が虐殺され
恐怖と悲しみに満ちていたのだ!

それだけの命が消えるまで
それは分からなかった
一部のジャーナリスト意外は、、、。



300万人の魂は今もさまようのか?




この国の悲しい過去を知る私たちは
彼女に
マリアを見たのかもしれない。


そして
向こう岸から2艘の船がやってきて
私達はそれにバイクを積み込み
マリアがやって来た向こう岸へ渡る



やっとの思いでメコン川支流を
渡った。