2000年4月20日
Ida Bagus ~ の無意識
例えば、バリ・ブックツリーのマーケティング・マネージャーは Ida Bagus Oka Suwardanaである。経理担当のマネージャーは Ida Bagus Suparsa である。OkaとSuparusaが探してきた経理のプロは Ida Ayuである。Idaはバリカーストでは、僧侶の階級であり、一番高い位であるとされている。Bagusは男性につけ、Ayuは女性につける。
大きな儀式には、これら僧侶の代表格みたいな人が中心的な役割を果たすが、Idaとつく者が儀式のお手伝いをする。
今日は、エステサロン「エステ・デ・マッサ」の完成及びオープンの日となったのは、バリヒンズー教では日が良いためである。二十日を逃すと次は二十八日となってしまう。当然、エステサロンのコンサルタントを引き受けている我々は、この儀式の手配も行う。そして、当然我々のスタッフのIdaたちは神に捧げる為の鶏を殺すのも、供物を穴に埋めるのも、儀式に付随するすべてのお手伝いをする。これが、今日午後四時の話である。
話を戻して、午前十一時。今日の「シェフ募集」の新聞広告を見て、メインシェフに応募したいと履歴書をもってバリの男性がやって来た。名前を聞くと、Ida Bagus Bawaと言う。するとOkaは咄嗟に安心したのか親近感を表し、気楽に話しはじめた。
ここで疑問が湧いたのである。Idaという階級の者達は、大きな階級としての家族意識のようなものを持っているのではないか。そういえば、貴族階級をのぞき、他の階級の人たちにどうもとっつきが悪く、信用するまで時間がかかり、心の底では、どういう人間かわからないという慎重さを示す時が多い。
僕はそういうことにはお構いなく、「目」だけで人材を選んでいるので、Idaたちは本当はハラハラしているのかも知れない。
「本当のことを言ってほしい。君らはIda以外の人たちと自分たちを区別しているのではないか。今日感じたんだけど、本当の祖父でないのに今日来てくれた僧侶を「お祖父さん」と呼んだり面接に来た男性にはたいへん親近感を持ったようだし。逆にマデとか、別の階級の人に接する時は相当慎重のような気がする。階級によって人を上に見たり、下に見たりすることがあるのかい」と口火を切った。
Okaが答えた。
「 同じIdaでも人によって違うと思う。Idaと名がついていても泥棒する者もいる。酒乱の者もいる。僕の場合、カーストは儀式の時に出てくるだけで、日常生活ではなんの差もなく、人間は平等だと思っている。」
なるほどと思う。だが言葉が意識的すぎる。
「我々の心は意識の世界と無意識の世界に二重になっているんだ。無意識の世界と意識の世界は互いに行ったり来たりするけれど、僕らは君らの無意識の世界がどうなっているか知りたいんだ。意識=言語なんだ。Okaの言葉は意識の世界だと思うが。Suparsaこの点どうだい。」
ともっと深めて質問してみる。
Suparsaは思慮深い男性で、二十代、三十代、四十代は精神の修行中だからと出会った頃よく言っていた。
「オレはブラークマナ(僧侶)で、シュードラとは違うんだ、みたいな気持はないかい。ドライバーをしていた時に、よくこれも修行中なんだと言ってたよね。」
Suparsaは
「シュードラの人の豪華な通過儀礼が寺で行われる時、腹立たしい気持があった」
僕は続ける。
「アクエリアスのホテルのオーナーはマデと言い、シュードラだけど、彼は君らブラーフマナの人間には嫉妬はしないのかい。」
Okaが答える。
「それは絶対ないと思う。ただ僕らブラーフマナはブラーフマナであることを誇りにしていると思う。バリはブラーフマナとサトリア(王族)、ウエーシェ(士族・商人)はたった十%で、例えばマデという人と会った場合、東ジャワのマデなのか西ジャワ、南ジャワのマデなのか、その人の出自がよくわからない。だからよくわかるまで慎重になる。しかし、ブラーフマナつまりIdaと聞けば、どこのIdaとすぐにわかるので初めから慎重にならずにすむ....」
日本人が同郷の者で集まったり、県単位で集まったりするのと似ているのかも知れない。
「僕がマネージャーとしてシュードラの人を雇っても、君らは嫌がったりはしないかい。本当はするような気がするんだけど。」
Okaは
「それはない。あなたは、この会社で必要なことは、いかに仕事がやれるかというのと語学力だと言っている。それによって給料もポジションも変ってゆく、と言っているし僕らもそれで了解している。自分より能力のあるものが必要時に上につくのは当然だ。日常生活のはこれはバリ人みんなが了解していることだ。」
このように聞いても、本当のところはわからない
自分達が特別な人間だ、という思いがあれば、きっと彼らは特別な人間だ、と思われるに違いない。儀式の時、Idaたちは精を出し、他の人たちはその進行を見ている。これは我々がキリスト教であれ仏教であれ、神道式であれ何かの儀式をする時、神父やら、お坊さんやら、神主や巫女たちが、その進行をしてくれているのを我々が見ており、そこに特別な階級の意識や区別・差別の意識などないのと同じなのかも知れない。しかし、カーストとして残存している以上...という思いが立つ。依然わからない。
Ida Bagus ~ の無意識
例えば、バリ・ブックツリーのマーケティング・マネージャーは Ida Bagus Oka Suwardanaである。経理担当のマネージャーは Ida Bagus Suparsa である。OkaとSuparusaが探してきた経理のプロは Ida Ayuである。Idaはバリカーストでは、僧侶の階級であり、一番高い位であるとされている。Bagusは男性につけ、Ayuは女性につける。
大きな儀式には、これら僧侶の代表格みたいな人が中心的な役割を果たすが、Idaとつく者が儀式のお手伝いをする。
今日は、エステサロン「エステ・デ・マッサ」の完成及びオープンの日となったのは、バリヒンズー教では日が良いためである。二十日を逃すと次は二十八日となってしまう。当然、エステサロンのコンサルタントを引き受けている我々は、この儀式の手配も行う。そして、当然我々のスタッフのIdaたちは神に捧げる為の鶏を殺すのも、供物を穴に埋めるのも、儀式に付随するすべてのお手伝いをする。これが、今日午後四時の話である。
話を戻して、午前十一時。今日の「シェフ募集」の新聞広告を見て、メインシェフに応募したいと履歴書をもってバリの男性がやって来た。名前を聞くと、Ida Bagus Bawaと言う。するとOkaは咄嗟に安心したのか親近感を表し、気楽に話しはじめた。
ここで疑問が湧いたのである。Idaという階級の者達は、大きな階級としての家族意識のようなものを持っているのではないか。そういえば、貴族階級をのぞき、他の階級の人たちにどうもとっつきが悪く、信用するまで時間がかかり、心の底では、どういう人間かわからないという慎重さを示す時が多い。
僕はそういうことにはお構いなく、「目」だけで人材を選んでいるので、Idaたちは本当はハラハラしているのかも知れない。
「本当のことを言ってほしい。君らはIda以外の人たちと自分たちを区別しているのではないか。今日感じたんだけど、本当の祖父でないのに今日来てくれた僧侶を「お祖父さん」と呼んだり面接に来た男性にはたいへん親近感を持ったようだし。逆にマデとか、別の階級の人に接する時は相当慎重のような気がする。階級によって人を上に見たり、下に見たりすることがあるのかい」と口火を切った。
Okaが答えた。
「 同じIdaでも人によって違うと思う。Idaと名がついていても泥棒する者もいる。酒乱の者もいる。僕の場合、カーストは儀式の時に出てくるだけで、日常生活ではなんの差もなく、人間は平等だと思っている。」
なるほどと思う。だが言葉が意識的すぎる。
「我々の心は意識の世界と無意識の世界に二重になっているんだ。無意識の世界と意識の世界は互いに行ったり来たりするけれど、僕らは君らの無意識の世界がどうなっているか知りたいんだ。意識=言語なんだ。Okaの言葉は意識の世界だと思うが。Suparsaこの点どうだい。」
ともっと深めて質問してみる。
Suparsaは思慮深い男性で、二十代、三十代、四十代は精神の修行中だからと出会った頃よく言っていた。
「オレはブラークマナ(僧侶)で、シュードラとは違うんだ、みたいな気持はないかい。ドライバーをしていた時に、よくこれも修行中なんだと言ってたよね。」
Suparsaは
「シュードラの人の豪華な通過儀礼が寺で行われる時、腹立たしい気持があった」
僕は続ける。
「アクエリアスのホテルのオーナーはマデと言い、シュードラだけど、彼は君らブラーフマナの人間には嫉妬はしないのかい。」
Okaが答える。
「それは絶対ないと思う。ただ僕らブラーフマナはブラーフマナであることを誇りにしていると思う。バリはブラーフマナとサトリア(王族)、ウエーシェ(士族・商人)はたった十%で、例えばマデという人と会った場合、東ジャワのマデなのか西ジャワ、南ジャワのマデなのか、その人の出自がよくわからない。だからよくわかるまで慎重になる。しかし、ブラーフマナつまりIdaと聞けば、どこのIdaとすぐにわかるので初めから慎重にならずにすむ....」
日本人が同郷の者で集まったり、県単位で集まったりするのと似ているのかも知れない。
「僕がマネージャーとしてシュードラの人を雇っても、君らは嫌がったりはしないかい。本当はするような気がするんだけど。」
Okaは
「それはない。あなたは、この会社で必要なことは、いかに仕事がやれるかというのと語学力だと言っている。それによって給料もポジションも変ってゆく、と言っているし僕らもそれで了解している。自分より能力のあるものが必要時に上につくのは当然だ。日常生活のはこれはバリ人みんなが了解していることだ。」
このように聞いても、本当のところはわからない
自分達が特別な人間だ、という思いがあれば、きっと彼らは特別な人間だ、と思われるに違いない。儀式の時、Idaたちは精を出し、他の人たちはその進行を見ている。これは我々がキリスト教であれ仏教であれ、神道式であれ何かの儀式をする時、神父やら、お坊さんやら、神主や巫女たちが、その進行をしてくれているのを我々が見ており、そこに特別な階級の意識や区別・差別の意識などないのと同じなのかも知れない。しかし、カーストとして残存している以上...という思いが立つ。依然わからない。
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