僕は自分の軸をズラしてまで、他人を理解しようとしてしまう。
でもそれは、実は僕のことを必要以上に他人に理解してもらいたいという、逆の思いがあってのことなのかもしれない。
なぜ?
どうして過剰な理解を求めてしまうのか?割り切ろうとしない、諦めようとしないのか?
そこに起因しているのは未練なのかもしれない。
僕は中学2年の頃に学校に行きたくなくなった。
原因は、当時所属していたバレーボール部の練習中にある。
一年生との一対一のパス交換練習でのことだ。
僕と練習していた彼がふてくされて、低めの声でボソッと僕につぶやいた。
その言葉は思い出せない。確かなのは、僕の言葉使いがどうとかそういうものじゃない。
僕の人との関わり方が否定されたか?僕の存在自体が否定されたか?
そのどちらかだと思うけれど、思い出せない。
ショックだったのは間違いないんです。だから次の日から学校に行くのを渋った。
彼にどう接すれば良かったのか?これが「未練」として残ってるのかもしれない。
学校に行かなくなってから、親に連れられて心理学の先生と面談させてもらったことが何度かありました。
その後、自分で自分をどうにかしなくちゃいけないのはわかっていたので、心理学の本を読むようにもなりましたね。
僕が読んだ本は河合隼雄さんのこころの処方箋という本です。
中ではこんなことも書かれていました。
“「心の処方箋」は「体の処方箋」とは大分異なってくる。現状を分析し、原因を究明して、その対策としてそれが出てくるのではなく、むしろ、未知の可能性の方に注目し、そこから生じてくるものを尊重しているうちに、おのずから処方箋も生まれでてくるのである。”
過去の自分の辛い出来事にこだわらずに、何かに期待を持って動いているうちに、心の奥の方から湧き出るもの、それを大事にしていくと、いつの間にか自分に必要な薬に気がつく。そんなことなのかもしれない。
そう、だから他人を理解しよう、理解してもらおうと「しすぎて」いると、なかなか改善に向かわないんだろう。
前を向いて自分に期待して進むこと。
それが大事なことだと思う。
あなたは、どう考えますか?
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