"あきらめる"って言葉、
どうしても負けてしまうとか
投げ出してしまうような
意味合いが強いのだけれど、
見方を変えればそれはひとつの立派な
諦観のような気もするのです。
どうしてもダメだと思いながら
無理に突き進むと深傷を負ったり、
取り返しのつかないことになりかねない。
だから突破するための何かが自分の中に
見つかるまでとりあえず身を引こう。
そう思えればそれはその場では
あきらめに見えても長い目で見れば
そうじゃないことが分かります。
だけどどう考えてもダメだと思い至ったら
その場にさっさと別れを告げて
新しい場所で花を咲かせるための
準備に向かうほうがいい。サバサバと。
(次いってみよ次!っていかりや長介さんが
"全員集合“の中で言ってましたね。
あれですよ、あれ!)
その場にさっさと別れを告げたことって
いままでに何回くらいあっただろう。
何回あったってかまわないな。
べつに履歴書にその回数を
書く欄なんてないんだし、
黙っていればバレないんですから。
それに私のこの生来の忘れっぽい性格は
私を救ってくれているのかも知れない。
ありがとう、私の忘れっぽさ(笑)。
ウジウジしたり未練たらたらに
なりそうな時は天気のいい日に
公園に行って日向ぼっこでもする。
きっと根が単純なんでしょうね、私。
たいていのストレスなんて
大股速足ウォーキングで
振り落とせるような人間ですから。
(諦観の諦は諦めるという漢字でしたね。
”諦”を漢和辞書で引くと
つまびらかにする、とか、
真相を明確にするといった意味らしい。
つまり“あきらめる"という言葉は元来
物事をつまびらかにして
じゅうぶん理解したうえでそこを離れる、
そんな意味に使われたそうですよ)
※上の写真は海の道のテラスに
落ちていた海藻。
燃えるような美しい朱色だなぁと
思って撮りました。
下の写真は朝のストレッチ中に
歯を食いしばりながら自撮りした一枚。
180度開脚まであと一息(笑)。
決してあきらめたわけではありません。
しっかしテニスプレイヤーに
あるまじき身体の硬さですね。ハンセー!
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