おこしやす福井

故郷福井。。紹介します

全托

2005年10月13日 | Weblog
極楽だけとなります。
 親鸞上人の信仰は、正にその境地に生き切っておられたのであります、上人の残された数多くのご
文章のうち、どこを見ても親鴛は極楽行きに決まったから安心したという字句は全然見当りません。
逆に"地獄は一定住み家ぞかし"と決定して、しかも困ったという言葉はどこにもなくて、ただ有難い
と感謝し切りの生活であります。このことが他力信仰の真髄でもあります。善いも悪いも自分の力や
努力によってなるものは全くなくて、丸々本願他力のお救いによらないものとて何一つないのが事実
であります。信仰とは考えて判るものではなく、理屈ぬきに事実を確認することであります。考えた
のは時として動揺することもありますが、事実ほど確実で変わらないものはありません。救われている
のは事実であって解るとか解らないとかには、一切関係がないのであります。知らずにいても、又解
らないから、救われていないということもありません。解らなければ解らないまま、知らなければ知
らないままで、ただただ生かされ護られ導かれているのであります。結局人間は阿弥陀如来に全托し
て安心しておれば善くなるより仕方のない存在なのであります。
 赤ん坊がお母さんの腕に抱かれて眠っておりながら、抱かれていることを気づかず、ただ安心して
眠っているようなものであります。