ここまでで「すべてのⅡ類集合を要素とする集合」のパラドクスが避けられないのは「本質的に集合はⅠ類」だからである、という見解を(紆余曲折のすえに勝ち得た結論として)披露してきました。似たようなことが数学そのものの無矛盾性の証明にだって言うことができます。不完全性定理を困難ではないと信じる人たちにとっては第二不完全性定理に「これらの体系は矛盾している」を付け加えても無矛盾だということの重大な意味を深く認識することもなしに「それは無矛盾のままということである」と言って自らと共に他人をも安心させようとするのですが私にとってはずるがしこい狐のような話です。
私のように根本を否定してみたらどうなんでしょうか?
無矛盾であるとは「A≠Bの際にAとBが共に証明されることが無い」という意味です。完全とは「正しいならば証明される」ということであり、無矛盾とは「証明されたならば正しい」ということです。前者は「間違いを含んでいてもOK」ですし、後者は「証明出来ない命題があってもOK」です。
ゲーデルの不完全性定理の正味とは「無矛盾な数学には己の無矛盾性を自ら証明する能力は無い」というありふれた事態に関する言明です!
数学は不完全であり「たとえ己が無矛盾であっても自らは証明し得ない」というのです・・。
これは「潔白な人は己の潔白をみずから論証できない」ということでもあるのでしょうが話が不純になりますので示唆するだけで止めておきます。論理学的にいった場合の無矛盾とはA⇒Aという同義反復(トートロジー)だけですから、数学命題のA⇒Bという形式は、一体どのようにして無矛盾の手形を勝ち得るのか、素人目にだってワカリマセン・・。数学で矛盾する可能性といえば定義より「証明によって出てきたA⇒Bという命題に間違いが含まれていること」なんですが、論理学を適用すれば「AとBとが同義でなければ矛盾」ということですから“無理を言うな!”という感じですねえ?
数学における無矛盾だなんて気取ってないで数学命題の殆どは同値で無い限りは自明で矛盾だとする見解を受け取ってもらいたいです。
だって論理証明には「命題が正しいかどうか?」がまったく含まれていないんですから数学的にはまったくのナンセンスだとしか言いようがゴザイマセン!集合論において「集合はすべて自己言及による定義でなにもかもⅠ類」であって、数学において「数学は何もかもヘーゲル哲学の矛盾の止揚の産物」だということを承認したほうがずーっと見通しがいいように思いましたよ・・、ええ。
命題真偽を扱えないなんて論理学の敗北であり退廃だと思うんですよ?
そうすると「人間は潔白では有り得ない」なんて命題が導かれますねえ・・、まったく!
私のように根本を否定してみたらどうなんでしょうか?
無矛盾であるとは「A≠Bの際にAとBが共に証明されることが無い」という意味です。完全とは「正しいならば証明される」ということであり、無矛盾とは「証明されたならば正しい」ということです。前者は「間違いを含んでいてもOK」ですし、後者は「証明出来ない命題があってもOK」です。
ゲーデルの不完全性定理の正味とは「無矛盾な数学には己の無矛盾性を自ら証明する能力は無い」というありふれた事態に関する言明です!
数学は不完全であり「たとえ己が無矛盾であっても自らは証明し得ない」というのです・・。
これは「潔白な人は己の潔白をみずから論証できない」ということでもあるのでしょうが話が不純になりますので示唆するだけで止めておきます。論理学的にいった場合の無矛盾とはA⇒Aという同義反復(トートロジー)だけですから、数学命題のA⇒Bという形式は、一体どのようにして無矛盾の手形を勝ち得るのか、素人目にだってワカリマセン・・。数学で矛盾する可能性といえば定義より「証明によって出てきたA⇒Bという命題に間違いが含まれていること」なんですが、論理学を適用すれば「AとBとが同義でなければ矛盾」ということですから“無理を言うな!”という感じですねえ?
数学における無矛盾だなんて気取ってないで数学命題の殆どは同値で無い限りは自明で矛盾だとする見解を受け取ってもらいたいです。
だって論理証明には「命題が正しいかどうか?」がまったく含まれていないんですから数学的にはまったくのナンセンスだとしか言いようがゴザイマセン!集合論において「集合はすべて自己言及による定義でなにもかもⅠ類」であって、数学において「数学は何もかもヘーゲル哲学の矛盾の止揚の産物」だということを承認したほうがずーっと見通しがいいように思いましたよ・・、ええ。
命題真偽を扱えないなんて論理学の敗北であり退廃だと思うんですよ?
そうすると「人間は潔白では有り得ない」なんて命題が導かれますねえ・・、まったく!