彼らってニュートンを「大概は正しい」と覚えているのだなあー、ってw
アインシュタインやボーアらによって大幅に修正されたとか、重力は本質的に間違っていたとか、そのようには思わないのだな、と。そのノリで以て「素粒子の物理実験はすべて標準模型の検証の為になった」なんて戯けごとを抜かしておるのだな、と、そう思いますのや、そうでっせ。反対派だとか私ことユニバーサルフロンティア理論の考案者が申しておる標準模型批判は致命的な欠陥ばかり突いているとも思わないのでな、というところで彼らの判断が甘いと断定する根拠になりましたのや、そうですがな。
ニュートン物理をいまだ不滅と信じているお国ぶりがうかがえますなw
ニュートン物理学は確かにそれなしには物理学という学問が成立しませんよ、だから物理学の屋台骨と断定しても奇妙ではないですよ、しかし、ね、自然科学として物理学を捉えなおしたら、ね、そら古い物理学ですよ、そうですがな。物理学のだんだんと詳しくなってきた歴史を思えば、そして論争が数学に次いで無いという歴史を思えば、ま、ありていに言えば二大理論がどちらが正しいかになったことがナイ歴史ですわな。だけど、例えば進化論のラマルクの用不用説とダーウィンの自然選択説のどちらが正しいかになる歴史と比べてみても、どちらが科学の進展として本筋であるか、は自明だと思いますのや、そうでっせ。
素粒子論が進展していってクォーク荷電が整数基礎になることは考えにくいですから!
語弊を覚悟のうえで思い切って断言してしまえば「考古学の方がよほど自然科学に近い」と存じましたよ、そうですがな、そうですとも。邪馬台国が畿内にあったか、それとも北九州だったか、という胸躍るワクワクするよーなダイナミズムと比べたら理論物理学の昨今はツマラナイです、そうでっしゃろ、そうですがな。天動説が最適なのか、それとも地動説が正しいのか、とか、陸橋があったのか、それとも大陸が移動したのか、というような本物のパラダイム転換にはパラダイムそのものにスイッチを付けることが必然として要求されます、そうでっせ。
理論物理学には今こそ論争が必要だと私はそう思います・・。
(今後ともよろしくw)
アインシュタインやボーアらによって大幅に修正されたとか、重力は本質的に間違っていたとか、そのようには思わないのだな、と。そのノリで以て「素粒子の物理実験はすべて標準模型の検証の為になった」なんて戯けごとを抜かしておるのだな、と、そう思いますのや、そうでっせ。反対派だとか私ことユニバーサルフロンティア理論の考案者が申しておる標準模型批判は致命的な欠陥ばかり突いているとも思わないのでな、というところで彼らの判断が甘いと断定する根拠になりましたのや、そうですがな。
ニュートン物理をいまだ不滅と信じているお国ぶりがうかがえますなw
ニュートン物理学は確かにそれなしには物理学という学問が成立しませんよ、だから物理学の屋台骨と断定しても奇妙ではないですよ、しかし、ね、自然科学として物理学を捉えなおしたら、ね、そら古い物理学ですよ、そうですがな。物理学のだんだんと詳しくなってきた歴史を思えば、そして論争が数学に次いで無いという歴史を思えば、ま、ありていに言えば二大理論がどちらが正しいかになったことがナイ歴史ですわな。だけど、例えば進化論のラマルクの用不用説とダーウィンの自然選択説のどちらが正しいかになる歴史と比べてみても、どちらが科学の進展として本筋であるか、は自明だと思いますのや、そうでっせ。
素粒子論が進展していってクォーク荷電が整数基礎になることは考えにくいですから!
語弊を覚悟のうえで思い切って断言してしまえば「考古学の方がよほど自然科学に近い」と存じましたよ、そうですがな、そうですとも。邪馬台国が畿内にあったか、それとも北九州だったか、という胸躍るワクワクするよーなダイナミズムと比べたら理論物理学の昨今はツマラナイです、そうでっしゃろ、そうですがな。天動説が最適なのか、それとも地動説が正しいのか、とか、陸橋があったのか、それとも大陸が移動したのか、というような本物のパラダイム転換にはパラダイムそのものにスイッチを付けることが必然として要求されます、そうでっせ。
理論物理学には今こそ論争が必要だと私はそう思います・・。
(今後ともよろしくw)