物理学を現在ある姿にまで改革したのはヨーロッパにとったらディラックだろうが、おそらく日本とアメリカにとったら南部ではないだろうか?
保守性のディラックと我が儘でちょっと恣意的な革新性の南部という好対照だったが、ニールス・ボーアの格言(何人たりとも自分が考えたよりもクッキリと書くべきではない)には無頓着だという点で一致しており、さらに「ニールス・ボーアはアインシュタインと並ぶ20世紀物理学の巨頭の一人」であるとまで最大に評価する向きがあったことを(私などにも)納得させる。すなわち(格言の)功罪という点において、確かに従っておらない理論物理学者が増えたことによってシーンが複雑になり、ようするに間違いが増加した上で紛らわしくなり、業界という観点からすれば発展するかもしれないが「じつは理論物理学者はそんなに数が必要ない」という歴史的判断・正しい判定を与えるからである。
もしユニバーサルフロンティア理論が正しいとしたら他の多くの(数学的に難解だが、かえって本質が)凡百の理論というのは邪魔っ気なのだ・・。
理論物理学を最初に?ミスリードした実例として、真っ先に南部のカイラル対称性のバーチャル(数式・記号の上の)世界を挙げなくてはならぬのは遺憾だが致し方ない!
南部だけじゃなくグラショウまでが「クォークのカイラリティーが自発的に破れた際の南部=ゴールドストンボソンがπ中間子だ」という自然観をしていたことにはまったく驚かされた。おそらくそんなものを引きずっていたからGUTこと大統一理論の歴史的な大失敗があったと記憶している。ユニバーサルフロンティア理論を用いれば「π中間子は【強い相互作用による対称性の破れ】の結果として生じた南部=ゴールドストン複合ボソンが凝縮対にとりついた(憑依した)物だ」とまったく違った自然観を得られる。若い頃に南部は「π中間子は南部=ゴールドストンボソン的な粒子ではないだろうか?」と強く疑問に思って「π中間子に質量が存在するのはどうしてなんだろうか?」とばかりに自然界を相手どって己の考えの通りに自然が存在しておらないことを(嘆くでもなしに)憤慨してみせて、さらに勢い余って読者にまで八つ当たりしているw)
科学者がああいう文章を書くのは並大抵のことではない、おそらく待てど暮らせど訪れない(ノーベル賞受賞の)栄冠の一報を待ちわびて、己の確信し切った結論をブルーバックスの読者にまでアピールしていたのだ・・。
私は「そのこと自体が見当外れだからだよ、苦虫かみつぶしたような顔した南部君」とタイムマシンに乗って過去に旅して教えて差し上げたいと思う!
カイラリティーは対称性ではない、それが対称性のように語られるのは、ディラックが開発した記号法によって思考過程そのものよりもクッキリと書かれるせいではないか?
南部は一つの素粒子が向かって右巻きと左巻きの両方の性質を持っているはずがないことは分かっていた、だから静止させたフェルミオンにとっては「観測結果が右巻きと左巻きと(あるいは上向きと下向きと)50%50%に出るに過ぎない」ということを当初は理解していた、しかしディラックのγ演算の向こうを張って質量項を作成してみたらカイラリティーはまるで対称性のようだった、質量を持たない光速度のフェルミオンは左巻きと右巻きをそれぞれ単独にカイラル変換することが可能で、質量を持った静止させられるフェルミオンは左巻きと右巻きを両方いっぺんにしか変換させられないように見えた、つまり己が作った記号・数式によって己の大脳がブレるという愚行を演じてしまったのだ・・、と私は思う。
私は神ではないから南部が間違いで自分が正しいと確信をもって断言することはできないが、ニールス・ボーアが真に偉大な歴史上の人物であるならば南部はその禁を冒した二番手の科学者だということになるw)
ニールス・ボーアはあれだけの人物であり、仕事をしたのであるから、おそらく一般的な意味において知能も高かったであろうし、大学・大学院の物理学も相当できたのであろう。だから私などが太刀打ちできる学力の相手ではなかったようには信じてやぶさかでないが、少なくとも若くて覇気にあふれた南部などからすれば「低学力のウすらトンカチ」だと思えたはずだ。それにユニバーサルフロンティア理論はだいたいニールス・ボーアの格言に沿っているから、自分だって舐められたものではなく、理論物理学は数学じゃなくて哲学であるし、さらに「理科教育的な知能だってとことん突き詰めれば大きな武器となり得る」ということを自慢する権利がある。
そもそも一つの素粒子のスピンが左巻きか右巻きかということを独立に変換するという思考はsoundではなくunsoundの権化だと思うし、単純な記号・数式によってイメージを超えることを意図していたとしたらお門違いではないか?
そこから26次元ボソトニックひもなどのような知的遊戯に終わる構築物も自ら開発してしまったし、天才的な才能を持つとは言えない不用な凡百の学業秀才に理論物理学を志させる元となったのは失敗ではないか?
プロの物理学者集団が業界となりはて、内部の人事は潤っても当事者以外に無意味な生存競争はかえって厳しくなり、つまるところ客観的には公費を無駄にはたかせておるぐらいだ・・。
そもそも電子が両巻きだというのは「進行方向から見た顔と進行方向の後ろから見た顔が左右あべこべである」ことに起因しているのではなかったか、その場合に「左巻きを右巻きに」「右巻きを左巻きに」という指定は不可能だというのはちょっと考えれば分かること、記号に合わせて説明すれば左右両巻きの右巻きだけを左巻きに変換したら全体として左巻きだけの静止したフェルミオンが要求される、そればっかりは物理的実在としてあり得ない!
ここは多くを語らないが読者諸君の方でイメージして理解してもらいたい・・。
すなわちカイラリティーを【カイラル対称性】にまで無用に高めてしまうと当初には存在したリアル(本当の姿)が失われたままで自然認識するという致命的な過ちを繰り返すことになるじゃないか?
現存している理論の多くが無用なバリエーションに満ちているのは「天分だけでは科学はできない」「高く鋭いピークのような天与の機会(oppotunity)なしには歴史的な発見は不可能である」「天分だけの理論物理学は俗である」「俗とは市役所の仕事のように論文を受け取り一律の基準において査読して発表させるという現行のシステムにこそ最大の原因がある」ということを強く発言していきます、よろしくw)
保守性のディラックと我が儘でちょっと恣意的な革新性の南部という好対照だったが、ニールス・ボーアの格言(何人たりとも自分が考えたよりもクッキリと書くべきではない)には無頓着だという点で一致しており、さらに「ニールス・ボーアはアインシュタインと並ぶ20世紀物理学の巨頭の一人」であるとまで最大に評価する向きがあったことを(私などにも)納得させる。すなわち(格言の)功罪という点において、確かに従っておらない理論物理学者が増えたことによってシーンが複雑になり、ようするに間違いが増加した上で紛らわしくなり、業界という観点からすれば発展するかもしれないが「じつは理論物理学者はそんなに数が必要ない」という歴史的判断・正しい判定を与えるからである。
もしユニバーサルフロンティア理論が正しいとしたら他の多くの(数学的に難解だが、かえって本質が)凡百の理論というのは邪魔っ気なのだ・・。
理論物理学を最初に?ミスリードした実例として、真っ先に南部のカイラル対称性のバーチャル(数式・記号の上の)世界を挙げなくてはならぬのは遺憾だが致し方ない!
南部だけじゃなくグラショウまでが「クォークのカイラリティーが自発的に破れた際の南部=ゴールドストンボソンがπ中間子だ」という自然観をしていたことにはまったく驚かされた。おそらくそんなものを引きずっていたからGUTこと大統一理論の歴史的な大失敗があったと記憶している。ユニバーサルフロンティア理論を用いれば「π中間子は【強い相互作用による対称性の破れ】の結果として生じた南部=ゴールドストン複合ボソンが凝縮対にとりついた(憑依した)物だ」とまったく違った自然観を得られる。若い頃に南部は「π中間子は南部=ゴールドストンボソン的な粒子ではないだろうか?」と強く疑問に思って「π中間子に質量が存在するのはどうしてなんだろうか?」とばかりに自然界を相手どって己の考えの通りに自然が存在しておらないことを(嘆くでもなしに)憤慨してみせて、さらに勢い余って読者にまで八つ当たりしているw)
科学者がああいう文章を書くのは並大抵のことではない、おそらく待てど暮らせど訪れない(ノーベル賞受賞の)栄冠の一報を待ちわびて、己の確信し切った結論をブルーバックスの読者にまでアピールしていたのだ・・。
私は「そのこと自体が見当外れだからだよ、苦虫かみつぶしたような顔した南部君」とタイムマシンに乗って過去に旅して教えて差し上げたいと思う!
カイラリティーは対称性ではない、それが対称性のように語られるのは、ディラックが開発した記号法によって思考過程そのものよりもクッキリと書かれるせいではないか?
南部は一つの素粒子が向かって右巻きと左巻きの両方の性質を持っているはずがないことは分かっていた、だから静止させたフェルミオンにとっては「観測結果が右巻きと左巻きと(あるいは上向きと下向きと)50%50%に出るに過ぎない」ということを当初は理解していた、しかしディラックのγ演算の向こうを張って質量項を作成してみたらカイラリティーはまるで対称性のようだった、質量を持たない光速度のフェルミオンは左巻きと右巻きをそれぞれ単独にカイラル変換することが可能で、質量を持った静止させられるフェルミオンは左巻きと右巻きを両方いっぺんにしか変換させられないように見えた、つまり己が作った記号・数式によって己の大脳がブレるという愚行を演じてしまったのだ・・、と私は思う。
私は神ではないから南部が間違いで自分が正しいと確信をもって断言することはできないが、ニールス・ボーアが真に偉大な歴史上の人物であるならば南部はその禁を冒した二番手の科学者だということになるw)
ニールス・ボーアはあれだけの人物であり、仕事をしたのであるから、おそらく一般的な意味において知能も高かったであろうし、大学・大学院の物理学も相当できたのであろう。だから私などが太刀打ちできる学力の相手ではなかったようには信じてやぶさかでないが、少なくとも若くて覇気にあふれた南部などからすれば「低学力のウすらトンカチ」だと思えたはずだ。それにユニバーサルフロンティア理論はだいたいニールス・ボーアの格言に沿っているから、自分だって舐められたものではなく、理論物理学は数学じゃなくて哲学であるし、さらに「理科教育的な知能だってとことん突き詰めれば大きな武器となり得る」ということを自慢する権利がある。
そもそも一つの素粒子のスピンが左巻きか右巻きかということを独立に変換するという思考はsoundではなくunsoundの権化だと思うし、単純な記号・数式によってイメージを超えることを意図していたとしたらお門違いではないか?
そこから26次元ボソトニックひもなどのような知的遊戯に終わる構築物も自ら開発してしまったし、天才的な才能を持つとは言えない不用な凡百の学業秀才に理論物理学を志させる元となったのは失敗ではないか?
プロの物理学者集団が業界となりはて、内部の人事は潤っても当事者以外に無意味な生存競争はかえって厳しくなり、つまるところ客観的には公費を無駄にはたかせておるぐらいだ・・。
そもそも電子が両巻きだというのは「進行方向から見た顔と進行方向の後ろから見た顔が左右あべこべである」ことに起因しているのではなかったか、その場合に「左巻きを右巻きに」「右巻きを左巻きに」という指定は不可能だというのはちょっと考えれば分かること、記号に合わせて説明すれば左右両巻きの右巻きだけを左巻きに変換したら全体として左巻きだけの静止したフェルミオンが要求される、そればっかりは物理的実在としてあり得ない!
ここは多くを語らないが読者諸君の方でイメージして理解してもらいたい・・。
すなわちカイラリティーを【カイラル対称性】にまで無用に高めてしまうと当初には存在したリアル(本当の姿)が失われたままで自然認識するという致命的な過ちを繰り返すことになるじゃないか?
現存している理論の多くが無用なバリエーションに満ちているのは「天分だけでは科学はできない」「高く鋭いピークのような天与の機会(oppotunity)なしには歴史的な発見は不可能である」「天分だけの理論物理学は俗である」「俗とは市役所の仕事のように論文を受け取り一律の基準において査読して発表させるという現行のシステムにこそ最大の原因がある」ということを強く発言していきます、よろしくw)