ユニバーサルフロンティア理論は世界を救う

GUTこと大統一理論を上回る現代最高の物理理論を公開したいと思う!こう、ご期待・・。

いろんな世界で中庸だと無難だみたいな信仰があるみたいなんだけど

2018年05月26日 | 究極理論
ましてや紙と鉛筆の理論の世界におきましてはー、中庸であることと無難であることとは違うわけですがなー。

かのドミンゴがちょっと若い頃に「カラヤンの棒には従った方が無難です」と言って名歌手としては優等生的な性質を示していたが、果たしてその生き方は生き方としてすべてだっただろうか。むしろ科学など学問の世界ではタブーな生き方だったのではないだろーかと考えました。いくら頼りになる学説があったとしても「その説で行けば無難だから」という理屈づけで支持するというのは、けっして好ましい生き方ではないと存じます。やくざの世界じゃあるまいし、言うことを聞いておれば生かしておいてやるというのは如何なものか、と。

その伝で行くと素粒子標準模型の世界は割とはっきりとやくざ世界的なんだろうと思う。

標準模型が間違いだとしたら超対称性があるだけだから他の考え方はするなと脅されている人たちの世界である。

なんかねー、そこらの物事から察するに栗城さんという人はむしろ標準模型的だと思うんですよねー、けっしてユニバーサルフロンティア理論的ではなく、メジャーな道は踏み外すまいと思っていた人だと思う。そらエベレスト登山でも何でも踏み外したら一巻の終わりなんですけどね、日本の学者のごときへなちょこでは標準模型だって結果をもらってるだけで、よーするに怖くて自分たちではよう登らないわけですよね。ましてや海のモノとも山のモノともわからぬユニバーサルフロンティア理論なんか「相手にデキる道理もナイ」というわけ。

でもー、こっちとしたらそんなこと威張って言われたって、そりゃ困るんですよねえー。

これは科学だ、しかも理論である、死ぬリスクなんかこれっぽっちもナイ、それを怖がられたって困る。

理論で「登る」と言ったらゼロから始める発想をすることだから、そのためにはいま存在しているモノを無いと見なしたり、あるいは根底から疑ったりデキなくてはならないが、そんなこと片時もしたくない人たちによって地位の世界は埋められてしまっている。もうこうなったらぶっちゃけた話、本音を言えば物理理論の構築を登山だと言ってるのはこっちのほうですよ、こりゃ隠したって仕方がない。当ブログに仮想エベレスト登山って書いてたしね、まー、こっちこそがそう言っているんだろーなー、そーなんだろうと思う。

理論物理学というのはいずれ廃れ行く学問だ、正しくは物理理論の構築でなくてはならない、確か、そう主張したと思います。

物理学と言えどももっと人間的な、なまなましい感動的な驚きに満ちたものであるはずだ、そう思うわけですがな。

数学の危機は「数学者は使われた方が良い」という現実によって数学が敗北して終わったと存じますが、よーするに理論物理学だって同じではないでしょーか。そうでなくてももうすでに言うことを聞かなくてはにっちもさっちもいかない人たちによって埋められていると言いましたけど、その種の地位の逆転はいつまでも続くものではなくていずれは正常化される運命にあるのと違いますか。自然科学的な手法の方が理論物理学的な手法よりも上位に来る時代がやってくるような気がしてなりません。

優秀な人材こそ使われるというのは人類にとって正しい構図であるように思われてならないのです。

理論物理学には管理職や社長にあたる者が必要である、本当にそのような事情であるようにお察し申し上げる次第です。

えーっと、ちょっと話題が脱線してしまいました、そんなこと言っても何も改善されません、あぶないあぶない。当方が強く主張したいのは「標準模型を中庸の道のように思うのを止めよ」「ほどほどの論理性ということは隠ぺいなどの誤魔化しを含むのではないか」「科学の世界では中庸こそが半端でむしろ怖い」「既存の体系を根底から疑って再構築してみたらどうか」「その営みによって懸念箇所が見つかるはずである」と言っております。まったく、日教組教育よろしく、大学教育の現場の一種のごとくしぶとい標準模型には困ったことです。

ま、探すまでもなく自覚しておられるのでしたっけねー、そこですよ、そこ、まさにそこでんがな。









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