ゲーデルは命題「この命題は証明できない」を「この命題Gは証明できない」と考えてG「Gは証明できない」に持ち込みました。命題「太郎は犬を飼っている」を太郎「太郎は犬を飼っている」に持ち込むことが可能だったら、その否定命題を¬太郎「太郎は犬を飼っていない」に持っていくことがデキます。
問題は太郎と¬太郎とは意味論において矛盾していないことです。
ゲーデル命題Gとその否定¬Gの関係もそうなっていることが考えられます。
このパラドクスを解消するために規則「命題の主語を命題の名前にしてはいけない」を設定したら、
不完全性定理に関するゲーデルの全業績が瓦解してしまうのが、お判りでしょう?
G「Gは証明できない」に対して¬G「Gは証明できる」にしても、
「Gは証明できないのがGで、証明できるのは¬Gだ」と矛盾するはずのG∧¬Gが一つの文章にして読まれます!
実際に「この命題は証明できない」の否定は「この命題は証明できる」ですから、G「Gは証明できない」の意味の上での否定形は¬G「¬Gは証明できる」でなくてはなりませんが、この場合でも「Gは証明できなくて、¬Gは証明できる」と、すらすらと矛盾形のG∧¬Gが一文になります。
ゲーデルの不完全性定理は意味論によって無に帰される、のではないでしょうか?
どんなもんでしょう?
問題は太郎と¬太郎とは意味論において矛盾していないことです。
ゲーデル命題Gとその否定¬Gの関係もそうなっていることが考えられます。
このパラドクスを解消するために規則「命題の主語を命題の名前にしてはいけない」を設定したら、
不完全性定理に関するゲーデルの全業績が瓦解してしまうのが、お判りでしょう?
G「Gは証明できない」に対して¬G「Gは証明できる」にしても、
「Gは証明できないのがGで、証明できるのは¬Gだ」と矛盾するはずのG∧¬Gが一つの文章にして読まれます!
実際に「この命題は証明できない」の否定は「この命題は証明できる」ですから、G「Gは証明できない」の意味の上での否定形は¬G「¬Gは証明できる」でなくてはなりませんが、この場合でも「Gは証明できなくて、¬Gは証明できる」と、すらすらと矛盾形のG∧¬Gが一文になります。
ゲーデルの不完全性定理は意味論によって無に帰される、のではないでしょうか?
どんなもんでしょう?
とまとめます!
そら、人格障害にもなるわな!
数学においては命題の無矛盾性を証明とはいたしません、あらゆる数学命題の無矛盾性が証明されませんw