任意の自然数nについて任意の演算による計算結果をCal.(n)で、逆演算による結果をCal.*(n)で表すことにすると、
自然数kについてk=k+1を仮定すると
Cal.(k)=Cal.(K+1)
Cal.*Cal(k)=Cal.*Cal.(k+1)
ゆえにk=k+1
これは同義反復であるからk=k+1が証明できた
この結論を帰納法にかけると「あらゆる自然数は同一である」が証明される。これは¬Gが証明できた数論における当然の帰結である。 (Q.E.D.)
数論はこうなっていないから¬Gが証明できた、あるいは仮定される数論体系というのはありえないわけだけれど、ゲーデルが論証にかけておるように数論だけが独立しての話では非自明である。この事態を避けるにはG「数学命題の同義反復は証明できない」を公理に据える他にないが、それは言いようのない蛇足であるだろう。
すなわちゲーデル命題は数学体系にとって(論理学と比べた場合の)不文律の(証明できない)公理であるわけだ?
ゲーデルの不完全性定理はヒルベルトを相手取っての当てこすりといった印象が拭えないが、こうなってくるとむしろヒルベルト学派の要求するより高度な無矛盾性の証明、それは公理系から演繹される数学命題が互いに矛盾しないことを意味する、にはまったく用を為さない無用の長物だという結論は目の当てようもないのである。
公理系から演繹される数学命題に矛盾が一つでもあれば、それは大前提とした公理系に原因があるわけだから、数学体系そのものが公理系もろとも反証される、その可能性を禁じ得なかったからこその数学の危機であったわけである。
ここに世界で初めて数学の危機は回避された・・、な~んちゃって?
ゲーデルは用を為さないばかりではなく自明で間違っている、G「任意の数学命題の同義反復は証明できない」の否定形は当然のことながら¬G「ある数学命題の同義反復は証明できる」でなければならない、すなわちゲーデルの論拠はスカスカである、ここに世界で初めてゲーデルの不完全性定理が反証されましたっ!
いや、マジ、これホントw)
自然数kについてk=k+1を仮定すると
Cal.(k)=Cal.(K+1)
Cal.*Cal(k)=Cal.*Cal.(k+1)
ゆえにk=k+1
これは同義反復であるからk=k+1が証明できた
この結論を帰納法にかけると「あらゆる自然数は同一である」が証明される。これは¬Gが証明できた数論における当然の帰結である。 (Q.E.D.)
数論はこうなっていないから¬Gが証明できた、あるいは仮定される数論体系というのはありえないわけだけれど、ゲーデルが論証にかけておるように数論だけが独立しての話では非自明である。この事態を避けるにはG「数学命題の同義反復は証明できない」を公理に据える他にないが、それは言いようのない蛇足であるだろう。
すなわちゲーデル命題は数学体系にとって(論理学と比べた場合の)不文律の(証明できない)公理であるわけだ?
ゲーデルの不完全性定理はヒルベルトを相手取っての当てこすりといった印象が拭えないが、こうなってくるとむしろヒルベルト学派の要求するより高度な無矛盾性の証明、それは公理系から演繹される数学命題が互いに矛盾しないことを意味する、にはまったく用を為さない無用の長物だという結論は目の当てようもないのである。
公理系から演繹される数学命題に矛盾が一つでもあれば、それは大前提とした公理系に原因があるわけだから、数学体系そのものが公理系もろとも反証される、その可能性を禁じ得なかったからこその数学の危機であったわけである。
ここに世界で初めて数学の危機は回避された・・、な~んちゃって?
ゲーデルは用を為さないばかりではなく自明で間違っている、G「任意の数学命題の同義反復は証明できない」の否定形は当然のことながら¬G「ある数学命題の同義反復は証明できる」でなければならない、すなわちゲーデルの論拠はスカスカである、ここに世界で初めてゲーデルの不完全性定理が反証されましたっ!
いや、マジ、これホントw)
「数論の体系ではある数学命題の同義反復を証明できても無矛盾である」←これが真相だ!