まず、事は、数学における形式主義の問題というあたりから入っていこうと思いますw
数学には必ず公理というものがございますが、その公理を全体自明の真理という建て前から引きずりおろして単なる仮定とし、論理学を用いて仮定ゆえに真であるように構成したうえで、さらに数学から真実の表現という役割りを奪った形になっているものが形式主義の数学です。そこには公理を理解するという精神機能は働きませんで、ただ単に仮定として置いた公理から得られる体系だった知識の全域を数学だと言い張るものであり、不完全性定理からその知識体系の無矛盾性は不明だとされます。それでも差し支えないという印象ですけど、公理としてそう置くのではなくて公理が分かるという数学体系にこそ、こちらの未練が残ります。
というか、双曲線幾何はあり得ないという数学がこの際必要になってくるのですよ・・。
空間が全域にわたって一様に横たわっている負の定曲率面というのはどこを探してもない、という数学でなければちょっと困るのです!
形式主義は健全なようでいて、教育によっては、むしろ何もかもが崩壊した認識に人類をミスリードする可能性が残されていて、嫌です。かつてあんなにも光速度一定が掴めなかった日本の過去にも似てくるでしょうし、そもそも人間の大脳にとって「分からないことを仮定としてそう置く」というのはデキかねる世界ではないですか。ひょっとしてアインシュタイン重力がリーマン幾何をもって書かれるのには非常に本質的な意味があって、例えば負の重力を持つ天体などの禁止からローレンツ対称性の自発破れ、具体的には宇宙には騾馬粒子が存在できないことに繋がる大事な認識に直結すると存じます。
さて
似たような話になるのかどうかは図りかねますが
物理学においては宇宙の始まりを論じていくことの中身について
その結末を一風変わった意外性で語られなくてはなりませんw
ま、ありていにいうところの宗教的冒涜に関する問題なのですが、大統一宇宙が冒涜の産物呼ばわりされないのは間違っているからだという皮肉があるほどでして、その際どさについて論議して行かざるを得ないのです。アメリカにおいてグースは実験室において宇宙を作成する方法という論じ方をしましたけど、私はそれも不可能に終わるから冒涜ではないのだと思います。彼らの頭では物質を無限の力で押し縮めてゆけば、どこかでビッグバンを起こして、宇宙の中にもう一つ宇宙が誕生するはずだというのですが、それは本当でしょうか。
私は宇宙を最初から正しく論じていくことがデキたとしても、それは宇宙製造能力の主張を意味しないという結末が正しいと思います!
それは大自然に対して物理学は人工物だということからくるのだと論じていたいのですが、いかがでしょうか。数学についても形式主義の方が何か経典のような宗教性を感じますでしょう。私にとっては分かる公理主義の方が人工物としての立場をわきまえた健全な数学です。机上の人工物から自然を製造することはデキない、というのが私の論拠です。え、なんの論拠ですかって、そこはそれ「アメリカの物理が間違っていて、ユニバーサルフロンティア理論が正しいのだ」という話ですがな。私としては健全性と非冒涜性のアピールのついでに正当性と真理候補である可能性、それらすべてをいうためにアメリカンな宇宙論を犠牲に言っている訳でしたよ。
おそまつ、でも、宜しいでしょう、私の自信のほどのように思っていただけるように書くのが当然ですからw
数学には必ず公理というものがございますが、その公理を全体自明の真理という建て前から引きずりおろして単なる仮定とし、論理学を用いて仮定ゆえに真であるように構成したうえで、さらに数学から真実の表現という役割りを奪った形になっているものが形式主義の数学です。そこには公理を理解するという精神機能は働きませんで、ただ単に仮定として置いた公理から得られる体系だった知識の全域を数学だと言い張るものであり、不完全性定理からその知識体系の無矛盾性は不明だとされます。それでも差し支えないという印象ですけど、公理としてそう置くのではなくて公理が分かるという数学体系にこそ、こちらの未練が残ります。
というか、双曲線幾何はあり得ないという数学がこの際必要になってくるのですよ・・。
空間が全域にわたって一様に横たわっている負の定曲率面というのはどこを探してもない、という数学でなければちょっと困るのです!
形式主義は健全なようでいて、教育によっては、むしろ何もかもが崩壊した認識に人類をミスリードする可能性が残されていて、嫌です。かつてあんなにも光速度一定が掴めなかった日本の過去にも似てくるでしょうし、そもそも人間の大脳にとって「分からないことを仮定としてそう置く」というのはデキかねる世界ではないですか。ひょっとしてアインシュタイン重力がリーマン幾何をもって書かれるのには非常に本質的な意味があって、例えば負の重力を持つ天体などの禁止からローレンツ対称性の自発破れ、具体的には宇宙には騾馬粒子が存在できないことに繋がる大事な認識に直結すると存じます。
さて
似たような話になるのかどうかは図りかねますが
物理学においては宇宙の始まりを論じていくことの中身について
その結末を一風変わった意外性で語られなくてはなりませんw
ま、ありていにいうところの宗教的冒涜に関する問題なのですが、大統一宇宙が冒涜の産物呼ばわりされないのは間違っているからだという皮肉があるほどでして、その際どさについて論議して行かざるを得ないのです。アメリカにおいてグースは実験室において宇宙を作成する方法という論じ方をしましたけど、私はそれも不可能に終わるから冒涜ではないのだと思います。彼らの頭では物質を無限の力で押し縮めてゆけば、どこかでビッグバンを起こして、宇宙の中にもう一つ宇宙が誕生するはずだというのですが、それは本当でしょうか。
私は宇宙を最初から正しく論じていくことがデキたとしても、それは宇宙製造能力の主張を意味しないという結末が正しいと思います!
それは大自然に対して物理学は人工物だということからくるのだと論じていたいのですが、いかがでしょうか。数学についても形式主義の方が何か経典のような宗教性を感じますでしょう。私にとっては分かる公理主義の方が人工物としての立場をわきまえた健全な数学です。机上の人工物から自然を製造することはデキない、というのが私の論拠です。え、なんの論拠ですかって、そこはそれ「アメリカの物理が間違っていて、ユニバーサルフロンティア理論が正しいのだ」という話ですがな。私としては健全性と非冒涜性のアピールのついでに正当性と真理候補である可能性、それらすべてをいうためにアメリカンな宇宙論を犠牲に言っている訳でしたよ。
おそまつ、でも、宜しいでしょう、私の自信のほどのように思っていただけるように書くのが当然ですからw
宇宙を最初から書くような物理学も同じだということ!