「寝ちゃったね……」
遥はソファの背もたれにくったりと身を預けて、静かに寝息を立てていた。その頬はほんのりと紅潮している。あまりアルコールに強くないとは聞いていたが、まさかシャンパン一杯で潰れるとは――。
「二杯くらいなら普通に飲めるって言ってたんだけど」
「まあ、こころやからだの状態にもよるからな」
普段はなんてことのない量でも、疲れていたり落ち込んでいたりすると酔ってしまうことはある。遥もきっと疲れていたのだろう。その原因は自分にもあるので誠一はすこし責任を感じてしまった。
「どうしよう? 遥の部屋まで運ぶのは大変だよね」
「ここのベッドに寝かせるか」
さすがに自分より大きな人間を抱えて階段を上るのは難しい。さいわい奥の寝室にはダブルサイズのベッドが二つあるので、片方を遥に譲り、もう片方で誠一と澪がいっしょに寝ればいいだろう。
「遥、ほら、ちょっとだけ歩けるか?」
「ん……」
ひざまずいてペチペチと頬を叩きながら呼びかけると、彼はゆるりと目を覚ました。しかしまだ意識がはっきりしないらしく、黒曜石のような瞳をとろんと潤ませたまま、ぼんやりと振り向く。
目が合い、誠一はドキリとして息をのんだ。
双子だけあって澪と似ているので心臓に悪い。高校生のころは瓜二つといってもいいくらいだったが、いまは男女の違いもあって瓜二つとまではいえない。それでも目元はそっくりなのだ。
「行くぞ」
気を取り直すと、肩を貸してどうにか寝室まで連れて行きベッドに横たえる。すぐに彼はすうすうと寝息を立て始めた。そのあどけない寝顔に、無防備な姿に、誠一はひどく胸がざわついて何とも言えない気持ちになった。
「きのうたくさん食べちゃったから、そのぶん運動してカロリー消費しないとね!」
翌朝、誠一と澪はトレーニングウェアを身につけて地下室に向かった。
そこはいわゆるホームジムである。ランニングマシン、エアロバイク、筋力トレーニングマシンなどの器具に加えて、ストレッチや武術の練習ができる場所もあったりと、かなり本格的なものだ。
ただ、それが完成したのは澪が結婚して実家を離れたあとだった。そのことを彼女はひどく残念がっていて、うらやましがっていて、実家に帰るたびにこうして二人で使わせてもらっているのだ。
誠一は正直なところ澪につきあわされているだけである。ただ、デスクワークばかりで体がなまってきている自覚はあるので、たまには真面目に運動するのも悪くないと前向きに捉えている。
「まずは準備運動からね」
「ああ」
そのとき入口のほうからガチャッという音が聞こえて、振り向いた。
そこには七海がいた。トレーニングウェアを着ているので目的は同じだろう。ただ誠一たちが来ていることは予想もしていなかったようで、扉に手をかけたまま凍りついたように固まっている。
「七海ちゃん、驚かせちゃったみたいでゴメンね。私たちも使わせてもらってるんだ。もしよかったら一緒にやらない?」
「あ、はい……」
澪が笑顔で誘うと、七海はぎこちなく頷いてトコトコと階段を降りてきた。まだ戸惑いは拭えないようだ。それでも澪は気にする様子もなく平然と話しかける。
「遥は一緒じゃないんだね」
「えっと、まだ寝てたみたいで」
「あー……」
彼は夜明け前に目を覚まして自力で帰っていったのだが、とても眠そうだった。もっとも気分は悪くなさそうだったし、足取りもしっかりとしていたので、澪も心配はしていないのだろう。
「じゃ、始めよっか」
三人で軽く走り、そのあと何となく輪になって準備体操を始める。なぜか客人であるはずの澪が勝手に仕切っているのだが、七海はどことなく居心地が悪そうにしながらも、素直に従っていた。
そんな彼女を、あらためて誠一はこっそりと観察する。
最初に見たときはまだ小さくて少年のようだった。あれから二年半で驚くほど背が伸びたし、女性らしさも出てきたが、それでもまだまだ未成熟な少女にしか見えない。顔なんか子供のままだ。
この子を、遥は――きのう内線電話で聞いた声が頭の中によみがえり、それが目のまえの少女と結びついて思わず想像してしまった。うっかり体が熱くなりかけてあわてて意識をそらすが。
「ねぇ、七海ちゃんって遥とつきあってるんだよね?」
澪がにこやかにそう切り出した。
「きのう遥から聞いてほんとびっくりしちゃった。七海ちゃんも幸せならそれでいいんだけど、遥からの告白だし、もしかしたら断りづらかったんじゃないかなー、ってちょっと心配で」
昨晩のように無邪気にコイバナをせがむのかと思ったが、そうではなかった。話しぶりも意外と慎重で気をつかっていることが窺える。七海はすこし怪訝な顔になりながらも冷静に口を開いた。
「大丈夫です。僕が自分でちゃんと考えてつきあうって決めたので」
「つきあってみてどう? 嫌なこととか困ってることとかはない?」
「え、別にないですけど……?」
この反応からすると本当に嫌だとは思っていないのだろう。遥とつきあうことも、それに伴う行為も。それを確信したくて尋ねたであろう澪もほっと息をつく。
「そっか……でも私たちはこれからも七海ちゃんの味方だから。変なことされて困ってるとか、別れたいのに別れられないとか、もし何かあったら気軽に相談してね」
「僕のこと信じてなかったんだ」
食い気味に冷ややかな声が響いた。
振り向くと、いつのまに入室していたのか扉のそばに遥が立っていた。怒っているのかいないのか表情からはわからない。誠一は動揺したが、澪は悪びれることなく笑顔で話しかける。
「二日酔いはもういいの?」
「すこし眠いだけ」
階段を降りながら遥は気怠げに答えた。
「まあ、七海の味方になってくれるのはありがたいけどね。澪は同じ女性だし、誠一は信頼できる清廉潔白なおまわりさんだし」
「ぐっ……」
完全に嫌味だが、七海のまえで言及することは憚られて口を引きむすんだ。隣では澪が他人事のように笑っている。しかし、七海はこちらを一瞥もしないで彼のほうへ駆け出していた。
「遥、準備運動するなら僕もつきあうよ」
「途中までやってたんじゃないの?」
「いいよ、もういちど最初からやるから」
「じゃあ一緒にやろうか」
遥がふっと表情をゆるめてそう応じると、二人で走り始めた。
それを横目で見ながら、誠一と澪は並んでエアロバイクをゆるゆるとこぎ始める。自分のトレーニングより遥たちのほうが気になるのは、澪も同じようだ。
「ね、なんかすごくいい感じじゃない?」
「まあ、な……」
澪がエアロバイクにまたがったまま身を乗り出して耳打ちし、誠一も同意する。
七海は思ったよりもずっと遥に懐いているようだった。自然な表情を見せているし、萎縮することなく対等に話しているように感じる。そして遥のほうも彼女には心を許しているように見えた。
このまま、何事もなく結婚までいければいいんだが――。
七海の年齢からしても、二人の立場からしても、なかなか難しいのではないかという気はしている。それでも自然に寄り添っている姿を見てしまうと、幸せな結末を願わずにはいられなかった。
遥はソファの背もたれにくったりと身を預けて、静かに寝息を立てていた。その頬はほんのりと紅潮している。あまりアルコールに強くないとは聞いていたが、まさかシャンパン一杯で潰れるとは――。
「二杯くらいなら普通に飲めるって言ってたんだけど」
「まあ、こころやからだの状態にもよるからな」
普段はなんてことのない量でも、疲れていたり落ち込んでいたりすると酔ってしまうことはある。遥もきっと疲れていたのだろう。その原因は自分にもあるので誠一はすこし責任を感じてしまった。
「どうしよう? 遥の部屋まで運ぶのは大変だよね」
「ここのベッドに寝かせるか」
さすがに自分より大きな人間を抱えて階段を上るのは難しい。さいわい奥の寝室にはダブルサイズのベッドが二つあるので、片方を遥に譲り、もう片方で誠一と澪がいっしょに寝ればいいだろう。
「遥、ほら、ちょっとだけ歩けるか?」
「ん……」
ひざまずいてペチペチと頬を叩きながら呼びかけると、彼はゆるりと目を覚ました。しかしまだ意識がはっきりしないらしく、黒曜石のような瞳をとろんと潤ませたまま、ぼんやりと振り向く。
目が合い、誠一はドキリとして息をのんだ。
双子だけあって澪と似ているので心臓に悪い。高校生のころは瓜二つといってもいいくらいだったが、いまは男女の違いもあって瓜二つとまではいえない。それでも目元はそっくりなのだ。
「行くぞ」
気を取り直すと、肩を貸してどうにか寝室まで連れて行きベッドに横たえる。すぐに彼はすうすうと寝息を立て始めた。そのあどけない寝顔に、無防備な姿に、誠一はひどく胸がざわついて何とも言えない気持ちになった。
「きのうたくさん食べちゃったから、そのぶん運動してカロリー消費しないとね!」
翌朝、誠一と澪はトレーニングウェアを身につけて地下室に向かった。
そこはいわゆるホームジムである。ランニングマシン、エアロバイク、筋力トレーニングマシンなどの器具に加えて、ストレッチや武術の練習ができる場所もあったりと、かなり本格的なものだ。
ただ、それが完成したのは澪が結婚して実家を離れたあとだった。そのことを彼女はひどく残念がっていて、うらやましがっていて、実家に帰るたびにこうして二人で使わせてもらっているのだ。
誠一は正直なところ澪につきあわされているだけである。ただ、デスクワークばかりで体がなまってきている自覚はあるので、たまには真面目に運動するのも悪くないと前向きに捉えている。
「まずは準備運動からね」
「ああ」
そのとき入口のほうからガチャッという音が聞こえて、振り向いた。
そこには七海がいた。トレーニングウェアを着ているので目的は同じだろう。ただ誠一たちが来ていることは予想もしていなかったようで、扉に手をかけたまま凍りついたように固まっている。
「七海ちゃん、驚かせちゃったみたいでゴメンね。私たちも使わせてもらってるんだ。もしよかったら一緒にやらない?」
「あ、はい……」
澪が笑顔で誘うと、七海はぎこちなく頷いてトコトコと階段を降りてきた。まだ戸惑いは拭えないようだ。それでも澪は気にする様子もなく平然と話しかける。
「遥は一緒じゃないんだね」
「えっと、まだ寝てたみたいで」
「あー……」
彼は夜明け前に目を覚まして自力で帰っていったのだが、とても眠そうだった。もっとも気分は悪くなさそうだったし、足取りもしっかりとしていたので、澪も心配はしていないのだろう。
「じゃ、始めよっか」
三人で軽く走り、そのあと何となく輪になって準備体操を始める。なぜか客人であるはずの澪が勝手に仕切っているのだが、七海はどことなく居心地が悪そうにしながらも、素直に従っていた。
そんな彼女を、あらためて誠一はこっそりと観察する。
最初に見たときはまだ小さくて少年のようだった。あれから二年半で驚くほど背が伸びたし、女性らしさも出てきたが、それでもまだまだ未成熟な少女にしか見えない。顔なんか子供のままだ。
この子を、遥は――きのう内線電話で聞いた声が頭の中によみがえり、それが目のまえの少女と結びついて思わず想像してしまった。うっかり体が熱くなりかけてあわてて意識をそらすが。
「ねぇ、七海ちゃんって遥とつきあってるんだよね?」
澪がにこやかにそう切り出した。
「きのう遥から聞いてほんとびっくりしちゃった。七海ちゃんも幸せならそれでいいんだけど、遥からの告白だし、もしかしたら断りづらかったんじゃないかなー、ってちょっと心配で」
昨晩のように無邪気にコイバナをせがむのかと思ったが、そうではなかった。話しぶりも意外と慎重で気をつかっていることが窺える。七海はすこし怪訝な顔になりながらも冷静に口を開いた。
「大丈夫です。僕が自分でちゃんと考えてつきあうって決めたので」
「つきあってみてどう? 嫌なこととか困ってることとかはない?」
「え、別にないですけど……?」
この反応からすると本当に嫌だとは思っていないのだろう。遥とつきあうことも、それに伴う行為も。それを確信したくて尋ねたであろう澪もほっと息をつく。
「そっか……でも私たちはこれからも七海ちゃんの味方だから。変なことされて困ってるとか、別れたいのに別れられないとか、もし何かあったら気軽に相談してね」
「僕のこと信じてなかったんだ」
食い気味に冷ややかな声が響いた。
振り向くと、いつのまに入室していたのか扉のそばに遥が立っていた。怒っているのかいないのか表情からはわからない。誠一は動揺したが、澪は悪びれることなく笑顔で話しかける。
「二日酔いはもういいの?」
「すこし眠いだけ」
階段を降りながら遥は気怠げに答えた。
「まあ、七海の味方になってくれるのはありがたいけどね。澪は同じ女性だし、誠一は信頼できる清廉潔白なおまわりさんだし」
「ぐっ……」
完全に嫌味だが、七海のまえで言及することは憚られて口を引きむすんだ。隣では澪が他人事のように笑っている。しかし、七海はこちらを一瞥もしないで彼のほうへ駆け出していた。
「遥、準備運動するなら僕もつきあうよ」
「途中までやってたんじゃないの?」
「いいよ、もういちど最初からやるから」
「じゃあ一緒にやろうか」
遥がふっと表情をゆるめてそう応じると、二人で走り始めた。
それを横目で見ながら、誠一と澪は並んでエアロバイクをゆるゆるとこぎ始める。自分のトレーニングより遥たちのほうが気になるのは、澪も同じようだ。
「ね、なんかすごくいい感じじゃない?」
「まあ、な……」
澪がエアロバイクにまたがったまま身を乗り出して耳打ちし、誠一も同意する。
七海は思ったよりもずっと遥に懐いているようだった。自然な表情を見せているし、萎縮することなく対等に話しているように感じる。そして遥のほうも彼女には心を許しているように見えた。
このまま、何事もなく結婚までいければいいんだが――。
七海の年齢からしても、二人の立場からしても、なかなか難しいのではないかという気はしている。それでも自然に寄り添っている姿を見てしまうと、幸せな結末を願わずにはいられなかった。
〈了〉