「乾杯」
誠一は用意されたペアのグラスにシャンパンを注ぐと、二人掛けの応接ソファに並んで座っている澪と乾杯して、軽く口をつけた。なめらかな泡がはじけて芳醇な香りが鼻に抜けていく。
澪もグラスから口を離すと感じ入ったように息をつき、背もたれに身を預けた。
「たまには実家でのんびりするのもいいよねぇ。ごちそうにシャンパンにおつまみに至れり尽くせり。あ、でも誠一はあんまり落ち着けない?」
「いや、十分くつろいでるよ」
誠一はグラスを手にしたまま軽く笑って答える。
それはまぎれもない本心だった。
新年ということで、誠一たち夫婦はそろって澪の実家である橘邸に来ていた。
中流階級で育った誠一からすると信じがたいほどの豪邸ではあるが、結婚前からよく滞在させてもらっていたので慣れているし、今回は一族の集まりがないこともあって気楽なものだった。
何より橘邸のみんなとはそれなりに親しくしているのだ。ただ、坂崎七海という一年前に里子になった少女だけは、軽く挨拶をしたくらいで、言葉をかわしたことさえほとんどなかった。
「そうだ、せっかくだし遥も呼ぼうかな」
「えっ?」
反射的に戸惑いの声を上げたが、そんな誠一の心境に気付いているのかいないのか、澪はシャンパングラスをローテーブルに置きながら話をつづける。
「何か話があるらしくて、あした時間を取ってほしいって言ってたんだよね。そんなにあらたまって何の話なのかすっごく気になるし、どうせならいま聞いちゃおうかなって」
エヘッと笑うと、さっそく内線電話を取りに行った。
遥というのは澪の双子の兄である。頭の回転が速く、辛辣で容赦のない物言いをすることも多いので、くつろげなくなりそうだとすこし残念に思ったが、反対までするつもりはない。
「誠一にも聞こえるようにスピーカーにするね」
頼んでもいないのに、澪はわざわざスピーカーフォンにして遥の部屋に内線電話をかける。しばらくコール音がつづいて不在ではないかと思い始めたころ、ようやく通話がつながった。
『はい』
その声はひどく気怠げで不機嫌そうに聞こえた。それでも澪は臆することなく話しかける。
「遥? 澪だけど、もしかして寝てた?」
『なんだ澪か……悪いけど取り込み中だからあとで折り返す、じゃあね』
早口でそう言い切ると同時に、ピッと音がした。
一瞬、通話が切られたのかと思ったが、まだつながっていた。ぼふん、と何か柔らかいものに落とされたような音がしたあと、すこし離れたところで喋っているような声が聞こえてきた。
『もう切ったから声出していいよ』
『遥のバカぁ、なんでこんなときに電話になんか……アッ』
思わず二人してビクリと肩を揺らした。
それは女性の声だった。女性というよりまだ少女なのかもしれない。それなのに気のせいか妙に色めいた響きもあって――。
『ん、あっ……あ、あんっあぁ』
気のせいではなかった。
甘やかでなまめかしい少女の声、必死に堪えるような男性の声、どちらともつかない息づかい、生々しい音――まるでのぞきでもしているような気持ちになり、息をひそめて聞き入ってしまう。
やがてひときわ高い悲鳴のような声がして、静かになった。
しばらくしてごそごそと布がこすれるような音がしたかと思うと、えっ、と困惑まじりの声が上がった。おそらく遥だろう。さきほどよりも大きく聞こえるのは受話器が近いということで。
『……もしかして、澪?』
「あ……うん……」
『そっちに行くから待ってて』
そう言うと、今度こそ間違いなく通話が切れた。
聡い遥のことだ。きっと一瞬にして何もかも理解したに違いない。通話を切ったつもりが切れていなかったということに、澪がそのままずっと聞いていたということに、そしてどう捉えたのかということも――。
「……ヤってたよね?」
「澪、言い方」
「うん……だけど……」
確かにそうとしか思えないのだ。通話を切り損ねて気付かないという遥らしからぬミスも、行為の真っ只中であれば考えられなくもない。なぜそんなときに電話に出たのかはよくわからないけれど。
それにしても――。
あの遥が? 誰も好きになったことがないと言っていた遥が? 恋愛なんてするつもりもないと豪語していた遥が? 性欲なんて微塵もないみたいな顔をしていた遥が? いったい何があったというのだろう。
「相手ってやっぱり七海ちゃんなのかな」
「おい、怖いこと言うなよ」
「だって声が七海ちゃんに似てたし」
「そんなにはっきり聞こえなかっただろう」
「遥も『ナナミ』って呼んでたよね?」
「……よくある名前だ」
本当は誠一も同じことが頭をよぎった。
だが、いくらなんでもそんなことは絶対にあり得ない。あってはならないのだ。目を伏せたまま、腿の上で組み合わせた両手にグッと力をこめる。
「なあ……七海ちゃんはいま何歳だ?」
「中一だから十二か十三かな」
「十二だと合意があっても強姦扱いだぞ」
「え、そうなの?」
声を聞くかぎり無理やりという感じではなかったが、それならいいというわけにはいかない。年齢も問題だし、里子と保護者代理という関係であることもまずい。別人であることを願ったのだが――。
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澪もグラスから口を離すと感じ入ったように息をつき、背もたれに身を預けた。
「たまには実家でのんびりするのもいいよねぇ。ごちそうにシャンパンにおつまみに至れり尽くせり。あ、でも誠一はあんまり落ち着けない?」
「いや、十分くつろいでるよ」
誠一はグラスを手にしたまま軽く笑って答える。
それはまぎれもない本心だった。
新年ということで、誠一たち夫婦はそろって澪の実家である橘邸に来ていた。
中流階級で育った誠一からすると信じがたいほどの豪邸ではあるが、結婚前からよく滞在させてもらっていたので慣れているし、今回は一族の集まりがないこともあって気楽なものだった。
何より橘邸のみんなとはそれなりに親しくしているのだ。ただ、坂崎七海という一年前に里子になった少女だけは、軽く挨拶をしたくらいで、言葉をかわしたことさえほとんどなかった。
「そうだ、せっかくだし遥も呼ぼうかな」
「えっ?」
反射的に戸惑いの声を上げたが、そんな誠一の心境に気付いているのかいないのか、澪はシャンパングラスをローテーブルに置きながら話をつづける。
「何か話があるらしくて、あした時間を取ってほしいって言ってたんだよね。そんなにあらたまって何の話なのかすっごく気になるし、どうせならいま聞いちゃおうかなって」
エヘッと笑うと、さっそく内線電話を取りに行った。
遥というのは澪の双子の兄である。頭の回転が速く、辛辣で容赦のない物言いをすることも多いので、くつろげなくなりそうだとすこし残念に思ったが、反対までするつもりはない。
「誠一にも聞こえるようにスピーカーにするね」
頼んでもいないのに、澪はわざわざスピーカーフォンにして遥の部屋に内線電話をかける。しばらくコール音がつづいて不在ではないかと思い始めたころ、ようやく通話がつながった。
『はい』
その声はひどく気怠げで不機嫌そうに聞こえた。それでも澪は臆することなく話しかける。
「遥? 澪だけど、もしかして寝てた?」
『なんだ澪か……悪いけど取り込み中だからあとで折り返す、じゃあね』
早口でそう言い切ると同時に、ピッと音がした。
一瞬、通話が切られたのかと思ったが、まだつながっていた。ぼふん、と何か柔らかいものに落とされたような音がしたあと、すこし離れたところで喋っているような声が聞こえてきた。
『もう切ったから声出していいよ』
『遥のバカぁ、なんでこんなときに電話になんか……アッ』
思わず二人してビクリと肩を揺らした。
それは女性の声だった。女性というよりまだ少女なのかもしれない。それなのに気のせいか妙に色めいた響きもあって――。
『ん、あっ……あ、あんっあぁ』
気のせいではなかった。
甘やかでなまめかしい少女の声、必死に堪えるような男性の声、どちらともつかない息づかい、生々しい音――まるでのぞきでもしているような気持ちになり、息をひそめて聞き入ってしまう。
やがてひときわ高い悲鳴のような声がして、静かになった。
しばらくしてごそごそと布がこすれるような音がしたかと思うと、えっ、と困惑まじりの声が上がった。おそらく遥だろう。さきほどよりも大きく聞こえるのは受話器が近いということで。
『……もしかして、澪?』
「あ……うん……」
『そっちに行くから待ってて』
そう言うと、今度こそ間違いなく通話が切れた。
聡い遥のことだ。きっと一瞬にして何もかも理解したに違いない。通話を切ったつもりが切れていなかったということに、澪がそのままずっと聞いていたということに、そしてどう捉えたのかということも――。
「……ヤってたよね?」
「澪、言い方」
「うん……だけど……」
確かにそうとしか思えないのだ。通話を切り損ねて気付かないという遥らしからぬミスも、行為の真っ只中であれば考えられなくもない。なぜそんなときに電話に出たのかはよくわからないけれど。
それにしても――。
あの遥が? 誰も好きになったことがないと言っていた遥が? 恋愛なんてするつもりもないと豪語していた遥が? 性欲なんて微塵もないみたいな顔をしていた遥が? いったい何があったというのだろう。
「相手ってやっぱり七海ちゃんなのかな」
「おい、怖いこと言うなよ」
「だって声が七海ちゃんに似てたし」
「そんなにはっきり聞こえなかっただろう」
「遥も『ナナミ』って呼んでたよね?」
「……よくある名前だ」
本当は誠一も同じことが頭をよぎった。
だが、いくらなんでもそんなことは絶対にあり得ない。あってはならないのだ。目を伏せたまま、腿の上で組み合わせた両手にグッと力をこめる。
「なあ……七海ちゃんはいま何歳だ?」
「中一だから十二か十三かな」
「十二だと合意があっても強姦扱いだぞ」
「え、そうなの?」
声を聞くかぎり無理やりという感じではなかったが、それならいいというわけにはいかない。年齢も問題だし、里子と保護者代理という関係であることもまずい。別人であることを願ったのだが――。
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