瑞原唯子のひとりごと

「機械仕掛けのカンパネラ」番外編・いつか来るそのときまでは

 その日、七海は期末テストの初日だった。
 それゆえ普段より下校が早く、昼下がりの強烈な白い日差しを浴びながらの帰宅となった。屋敷に足を踏み入れるなり適度な涼しさにほっと息をつき、軽快に階段を駆け上がって自室へ向かう。
 その途中、廊下の向こうから知らない年配の女性と青年が歩いてくるのが見えた。客だろうかと思うものの橘の使用人はついていないようだし、そもそもここは基本的に身内しか通らないはずだ。
 怪訝に思いながらも軽く会釈をして通り過ぎようとしたところ、その女性に呼び止められた。
「ねえ、あなたもしかして七海さん?」
「え、はい」
「あらやっぱり! よかったわぁ、前々から一度ぜひ会いたいと思っていたのよ。剛三に言ってもそのうちそのうちってごまかされてばかりでね。剛三の里子なら私にとっても家族のようなものなのに。ほんと秘密主義で嫌になるわ」
 通りのいい声で矢継ぎ早にしゃべる女性に圧倒されて、七海は引きぎみになる。
「あの……」
「ああ、そうだわ自己紹介がまだだったわね。私は剛三の姉の四ノ宮一花よ。一応、あなたの伯母ということになるかしら」
 そういえば、剛三に姉がいるような話をチラッと聞いたことがある。他家に嫁いでいて滅多に帰ってこないらしい。事実、七海がここで暮らすようになって四年半になるが、一度も顔を合わせたことがなかった。
 学生鞄を両手で前に持ち直して「はじめまして」とお辞儀をし、階段のほうを示す。
「お話があるのでしたら応接室にご案内しますけど」
「嫌よ、応接室なんて話が筒抜けになるじゃない」
 一花はツンと言い返した。
 応接室だと使用人の誰かが近くに控えているので、何かあれば剛三に報告がいくのは確かだが、聞かれて困るような話でもするつもりだろうか。困惑して押し黙っていると、一花は上から下まで舐めるように七海を見分し始めた。
「気品には欠けるけど、なかなか可愛い顔をしているわね。それに……」
「ひゃっ!」
 制服のシャツの上からいきなりむんずと胸をつかまれて、七海は反射的に変な声を上げた。それでも一花はまったく気にとめることなく、腕、腹、背中、脚などを確認するようにしっかりと触っていく。
「カラダもいいわ。若々しいハリのある豊かな胸、引き締まっていながら女性らしい柔らかさのある肉体、背筋はまっすぐで歪みがなくて姿勢もいい。肌もみずみずしくてなめらかできれいで。さすが遥が寵愛するだけのことはあるわ」
「えっ」
 もしかして遥とつきあってたことがバレてる——?
 七海はひどく動揺して、とっさに否定することもできずに目を泳がせてしまう。
「あら、隠さなくてもいいのよ知ってるんだから。あなたを責めようという気はないから安心してちょうだい。よそでおかしな女に手をつけるより、内々で性欲処理するほうがよっぽど面倒がなくていいわ。なんたって橘の後継者ですからね。そのあたりきちんとわかっているんだから遥は賢いわ」
 一花はどこか得意げに口元を上げて言うと、七海を見つめる。
「あなたはこれからも遠慮なく遥の相手を務めてあげなさいな。ああでも避妊だけは怠ってはダメよ。傷つくのはあなたのほうなんだから。わかっているでしょうけれど、くれぐれも夢は見ないように。遥はしかるべき家のお嬢さんと結婚するんですからね」
 えっ——。
 驚きを顔に出さないようにするのが精一杯だった。そんな話は知らなかったが、冷静に考えれば橘にふさわしい令嬢をというのは当然の話だ。むしろその可能性に思い至らなかった自分が抜けているのだろう。
「そうだ、あなたにも結婚相手を紹介してあげるわ」
 一花は両手を合わせ、いいことを思いついたとばかりに顔を輝かせる。
「それだけの器量があって橘と繋がりがあるとなれば引く手あまたよ。かなり条件のいい相手を紹介できるわ。さすがに遥ほどの男は無理ですけどね。あなたにお似合いの有望株を見繕ってくるから待っててちょうだい」
 まさかそんな展開になるとは思わず、七海は当惑した。
「あの、私、まだ結婚とか考えられなくて……」
 うきうきと楽しそうな本人の手前、紹介なんかしてほしくないとは言えなくて言葉を選ぶ。ただ、言ったことも決して嘘ではない。考えられないし、考えないようにしていた部分もあったのではないかと思う。
 しかし、一花は引き下がるどころかむしろ前のめりになる。
「あなた高校生でしょう? そろそろきちんと将来のことを考えなければダメよ。そんなことを言ってるとあっというまに行き遅れるわ。いまのうちに婚約して卒業後に結婚すればいいじゃない。ね?」
 強引に価値観を押しつけてくるが、彼女なりに七海のためを思ってのことだというのはわかる。悪い人ではないのだろう。けれども七海としてはよけいなお世話というより他にない。
「いえ、大学に進学するつもりなので……さすがに早すぎかなと……」
「そうねぇ、まあ、あなた自身の意思も尊重しないといけないわね。ではハタチになるころに持っていくことにしましょう。そのころには遥も結婚して、あなたもお役御免になってるでしょうからちょうどいいわ」
 七海の微妙な表情には気付いていないのか、一花は満足げに微笑む。
「もし早く結婚したくなったら遠慮なく言ってちょうだい」
「あ、はい……」
「ではごきげんよう」
 優雅に挨拶をして、スーツを身につけた長身の青年を従えて立ち去っていく。彼が誰かは紹介がなかったのでわからないが、そのときの様子から察するに、おそらく彼女に仕える使用人といったところだろう。
 七海はその場で深々と一礼して見送った。

 自室に入ると、学生鞄を机に置いて着替えもせずふらりとベッドに倒れ込んだ。
「性欲処理……」
 思わずそんな言葉がこぼれ落ちる。
 一花の勢いに圧倒されて言いそびれてしまったが、遥とは一年前に別れていた。しかしながら彼のほうはよりを戻したがっていて、好きだ、つきあってほしいと何度となく言われている。
 それは決して性欲処理のためではないだろう。つきあっているときも別れてからも変わらず大切にしてくれるし、彼が七海を好きなことは確かだと思う。そこに関してはいっさい疑っていない。
 ただ、彼はあと数年でしかるべき家の令嬢と結婚する。そのことを隠したまま、時がきたら捨てる前提でつきあうというのはずるい。アンフェアだ。そう考えるとふつふつと怒りが湧き上がってきた。
「……関係ないや。どうせもうつきあわないんだし」
 自らに言い聞かせるようにつぶやく。
 それは以前から決めていたことだった。武蔵と別れて半年、彼への気持ちにはもう区切りがついている。だからといって遥と復縁などと恥知らずなことはできない。誰よりも七海自身が許せないのだ。
 思えば、遥よりもよほどひどいことをしてきた。
 武蔵のことが好きなまま遥とつきあい続けたあげく、武蔵が戻るなり遥を捨て、武蔵とつきあいながらも遥を忘れられないなんて。遥のみならず武蔵にもずいぶん失礼なことをしたし、傷つけてしまった。
 一方で、遥はどれだけ七海を一途に想ってくれたか、どれだけ愛情をこめて慈しんでくれたか、どれだけ幸せな時間を過ごさせてくれたか。結婚について黙っていたことを差し引いても余りあるくらいに。
 そして体を重ねるときはいつも心から求めてくれた。優しくも焦りのにじむ手つき、情をはらんだ瞳、余裕をなくしていく表情、熱い息づかい。思い返すだけで胸がじわりと締めつけられて、体が熱くなる。
 十六歳のあのとき、遥と結婚してしまえばよかったのかな……。
 そんなことを考えてしまったものの、すぐさま正気を取り戻してふるふると首を横に振る。あのプロポーズは遥の暴走だったのだろう。本当に結婚していたら大変な騒動になっていたに違いない。
 溜息をつき、ベッドの上でもぞもぞと丸まっていく。
 どうにもならないことに頭を悩ませても意味がない。いまの自分にできるのはまっすぐ前を向いて進むことだけ。真面目に勉強して、大学に行って、就職して、自分ひとりの力で生きていけるように——。

「七海……七海、いないの?」
 遥の声と、それに続くノックの音にぼんやりと意識が浮上する。
 七海は制服を着たままベッドの上で緩く丸まっていた。窓に目を向けると、日が沈みかかっているのがレースのカーテン越しにわかる。瞬間、ハッと我にかえりあわててベッドから飛び降りて扉を開けた。
「ごめん、遥、すぐに出られなくて」
「もしかして寝てた?」
「あー……うん……きのう遅くまで勉強してたからさ」
 七海は苦笑を浮かべつつ偽りの釈明を口にする。
 ただ、今日の期末テストのために遅くまで勉強したのは事実だった。そのことは遥も知っていたし、実際に睡眠不足の影響も少なからずあったのかもしれない。だからこそ簡単に信じてもらえたのだろう。
「テストも大事だけど無理はしないようにね」
「ちょっと眠かっただけだから平気だよ」
「なら、いまから一緒に夜ごはん食べない?」
「食べる!」
 つい過剰に声がはずんでしまった七海を目にして、遥はくすりと笑う。
「じゃあ、着替えておいでよ。待ってるから」
 その表情から愛おしさがあふれているように感じるのは、自惚れではないだろう。いつものことなのでもう見慣れているはずなのに、一花にあんな話を聞かされたせいかつい見入ってしまった。
「何? どうかした?」
「何でもないよっ」
 明るく答え、不思議そうにしている彼にひらりと手を振って扉を閉めると、音を立てないようそっとそこに手をついてもたれかかる。
 いつまでもこのままではいられないけれど、いつか来るそのときまでは——。
 それがいかに傲慢な願いかはわかっているつもりだ。淡い自嘲を浮かべるが、すぐに慌ただしく私服に着替えて遥のもとへ駆けていく。胸が締めつけられるような苦しさを笑顔の下に押し隠して。


◆目次:機械仕掛けのカンパネラ

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