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ミックス犬ジュディよりも・・・その飼い主が日々経験したり感じた事柄を書いていく幅広めのブログです。

シャガール芸術の世界 「愛の旅人 シャガール展」記念講演会の報告

2006-05-31 22:30:37 | 美術館 博物館 展覧会
2006年5/13 サントリーミュージアム天保山での「愛の旅人 シャガール展」開催を記念した講演会が海遊館ホールにて執り行われました。
当日は生憎のお天気でしたが、会場はほぼ満席の状態です。
この日の講師は神戸大学助教授の宮下規久朗先生でした。

まずは、一般の人から見たシャガールの印象について話されます。
彼の絵は、甘ったるい、ミーハー、軽く見られる傾向があります。
“シャガール”をグーグルで検索したところ、最初に出てくるのは“風俗店”ばかり。
これもシャガールが“愛の画家”と呼ばれている事に起因しているのかもしれません。

シャガールの美術史的な位置について考えたとき、一つでは表現出来ません。
まず、エコール・ド・パリの画家、それも重要な位置を占めていた人です。
また、キュビズム、シュルレアリズム、ドイツ表現主義の画家などとも呼ばれたりもします。
さらにロシア出身の画家であり、一時期ロシアで活動していた事もあるのでロシア・アバンギャルドの画家とも言われます。

シャガール芸術に影響を与えた芸術は何でしょうか?
まず、生まれ故郷ロシアの伝統芸術であるイコンやルボークが考えられます。
彼の絵に見られる、馬が空を飛んだりするといった独特のシャガール世界はルボークに由来すると言われています。
そして20世紀初頭パリでの前衛芸術活動、後半生ではレンブラントをはじめとする中世の巨匠達の作品に学んだと言われています。

シャガール芸術の主題とモチーフについて考えて見た場合、大きく5つの主題に分けられます。
「故郷」「愛」「音楽」「戦争」「宗教」です。
シャガールは初期から晩年までこれらの主題を繰り返し描いてきました。その為、彼の晩年の作品ははマンネリズムや通俗に堕ちているとの一部批判もあるようです。

ではまず「故郷」について。これを表現するモチーフとしてシャガールは生まれ故郷であるロシアの町ヴィテブスクの風景を自分の絵に取り込んでいます。
彼はロシア生まれのユダヤ人でした。本名は モイシェ・ザハロヴィッチ・シャガロフ です。

この町はロシアの寒村でユダヤ人ゲットーだったようです。その為ユダヤ風物詩的なものも多く見られ、馬。ロバ、牛、鳥など彼が作品に描く動物達も自然に見られる場所でした。
そして彼にとって第2の故郷である、パリの街。
この地でシャガールは多くの画家達と交友を深め、“キュビズム”の絵を発表していきました。
同時代の画家にパブロ・ピカソがいますが、ピカソの絵が“理知的な空間追求”だったのに対して、シャガールの絵はキュビズムに“ユーモアさ”を持たせました。

つぎに「愛」について。これを表現するモチーフとして最もふさわしいのが、シャガールの妻ベラです。

シャガールは1914年にロシアに帰郷し、翌1915年、生まれ故郷ヴィテブスクで、大金持ちの宝石商の娘であったベラと結婚、翌年には娘イダが誕生します。
このロシア時代に書かれた絵には傑作が多いとされています。
またこの頃から絵の中に天使がよく登場するようになって来ました。

その初期作品が<出現>で、画家のところに天使が寄ってくるという絵です。
これはエルグレコの書いた<受胎告知>からインスピレーションを得たのではないかと言われています。
ロシア時代にはもう一つ大きな出来事がありました。
それが1917年の《ロシア革命》です。シャガール自身、この革命により、それまで東欧世界においても虐げられていたユダヤ人の立場が改善される事を期待し、革命政府に積極的に協力するようになりました。
その一つが1919年、ヴィテブスクでの美術学校開校です。
この時期の作品として<前進>があります。
この当時の美術学校の生徒はシャガールについて「何をしても怒らない、いつもニコニコ笑っている人だった」とコメントしています。
シャガールはこの美術学校の講師として、当時、ロシアアバンギャルドのトップであったマレーヴィチを招聘します。
マレーヴィチはカンディンスキーと共にロシアの純粋抽象画家ですが、シャガール自身はそこまでの抽象にはなれませんでした。
そのため、意見対立が生じていきます。
また、革命政府幹部もシャガールの芸術を理解出来ませんでした。
革命にロバの絵は?人や動物が宙に浮き、飛んでいるのは?頭が反対を向いているのは?)
幹部にとっては奇妙で浮ついた印象に映る彼の絵は“ブルジョワ的”とみなされ革命ロシアでは受け入れられなくなって行きました。
シャガール自身も“実際に経験しないと描けない人”であったので、政府や幹部からの要請に基づいた絵を描く事は出来ませんでした。
彼の描く絵はどうしても“労働者の為”、“共産党の為”の絵にはならなかったのです。
その結果、1920年には美術学校を去り、モスクワでユダヤ芸術劇場の装飾に従事することとなりました。
そして1922年にはロシアを去ってベルリンへ移り住みます。
この時、シャガールは多くの作品をロシアに残して出てきましたので、その後、自らレプリカを描いています。
その中でも<家畜商人>の絵のレプリカはシャガール自身が生涯手元に置き飾っていたといわれています。
馬のお腹には子馬の姿が描かれ、後ろの牛はこれからと殺場へ向かうという生と死を表現した絵です。
一方、抽象画家であったマレーヴィチは政府の意向により農民の絵を描かされるようになってしまいました。

シャガールはこの他にも「愛」を表現するモチーフとして恋人、花束そして自画像を描いています。
中でも自画像の変遷は面白く、初期はより詳しく描いていましたが、晩年になるに従いその像は簡略化、イメージ化されていきました。
また、全ての作品を通じて言える事は、初期の作品はいずれも暗い色調でしたが、次第に明るく豊かな色彩に変化していきました。
後半生の作品に見られる色彩の豊かさはアンリ・マティスに並ぶとも言われています。

次に「音楽」について。これを表現するモチーフとして、楽器やそれを演奏する人物、踊り子やサーカスが採用されています。

しかしながらサーカスや旅芸人についてシャガールは『寂しい存在』とも言っており、彼らの「悲劇的な人間存在」の部分をシャガール自身の悲しみと重ね合わせた心象表現としても採用していました。

次に「戦争」について。これを表現するモチーフとして、ポグロム(東欧地域にあった旧来のユダヤ人差別や虐待習慣)、革命、磔刑を採用しています。
実際、ロシアを出た後、シャガールは再びフランスで暮らすようになり、1937年にはフランス国籍を取得するに至ります。
しかし、ナチスの影が忍び寄る1941年には妻ベラと共に迫害を逃れてアメリカに渡りました。
そこで、ロシア革命での体験に基づく教訓と理想を表現しようとした<革命>3連作や十字架をモチーフとした数多くの作品を描いて行きます。
十字架をモチーフとした作品では、戦争や革命で犠牲となった民衆や人類の苦悩を表現したばかりではなく、このアメリカ亡命中に、最愛の妻ベラを病気で失うという悲劇に見舞われたシャガール自身の内面(精神)を表現したものでもあったようです。

最後に「宗教」について。これを表現するモチーフとして旧約聖書や預言者を採用しています。
先の「戦争」とも関連するのですが、シャガールは、自身が戦争中に迫害を逃れる為に逃げ回った経験を旧約聖書の出エジプト記に重ね合わせて表現していると言われています。

第二次大戦後、フランスに戻ったシャガールは従来の絵画作品だけでなく、大型のステンドグラスや壁画などの作成にも携わるようになります。

この時期から、絵画においては先述した通り、従来から描いてきたモチーフを反復する作品ばかりを製作するようになります。画面の雰囲気もかつてと比べると緩やかなもの(ぼんやりしたもの)となり、一部の美術鹿や評論家から“大衆芸術化した”と揶揄される事となるのです。

しかしながら、シャガールのみならず、彼が師事したモネ、ルノアール、レンブラント、ティティアーノといった巨匠達の作風も、その晩年にはぼんやりした感じの絵になっています。

シャガールはあくまでも自己の内面世界、内なる自然に忠実であろうとする態度を貫き通し、そこに時には哀愁を帯びながら、私的感情を超えた“普遍的な人間愛”を志向していく画家だったのです。

だからこそ、「愛の旅人、愛の画家」と称されるのでしょう。

講演ではスライドを使用し、彼の多くの作品やシャガール美術館などを紹介されておられました。

シャガールの作品以外については殆ど知らなかったので、大変勉強になる講演でした。

掲載写真はサントリーミュージアムHPのものをお借りしました。

日本の海の安全を宜しくお願いします。(海上保安庁の船)

2006-05-13 22:22:22 | 美術館 博物館 展覧会
今日の夕方のことです。

サントリーミュージアム天保山で開催中の<シャガール展>を見た後、天保山のハーバービレッジへ立ち寄りました。

何気なく外の岸壁を見ると、普段は見かけない大きな船が接岸しておりました。
ハーバービレッジ外のデッキ部分まで出て見たところ、一般の貨客船や貨物船、漁船とは異なる、何だか“強そうな感じの船”でした。


船の前の方にはひらがなで<せっつ>と言う名前が書かれています。


そして船の真ん中あたりには英語で<JAPAN COAST GUARD>と書かれていました。

直訳すると、日本沿岸警備=<海上保安庁>の船だったのです。

それに気付いた上でよく見てみると、確かにレーダーらしきものがたくさん付いていますし、後部甲板は広くなっていてヘリコプターなどが離着陸出来そうな感じです。

そして何より特徴的なのがこれ。


砲台(機銃の方が正確でしょうか?)が大小一門ずつ確認出来ました。

強そうな感じです。これが<巡視船(艇)>と呼ばれる船だと思います。

停泊期間は分かりませんが、たぶん大阪ではそれほど頻繁に見られる船では無いように思われますので、興味のある方はどうぞ。

まさかとは思うのですが、現在このハーバービレッジのデッキへの出入り口にはこんな映画宣伝用の看板が置かれていました。


現在上映中の<海猿>の大きなパネルです。
主人公の着ているライフジャケットには<海上保安庁>の文字が。

まさか映画タイアップの為に来てるんじゃ・・・。


日本の海の安全を宜しくお願いしますね。

追記、海上保安庁について知りたい方向けにこんなサイトを見つけました。

海上保安庁のHP
海上保安庁の私的総合情報サイト Off Shore Dream

写真撮影OKの美術館?(なんばウォークの絵画達)

2006-05-07 23:24:58 | 美術館 博物館 展覧会
先日、大阪の難波へ出かけた際、ちょっと素敵な場所を見つけました。


たくさんの絵が飾られていて美術館のようでしょ。
でも美術館じゃ作品の写真撮影は許されませんよね。

実はこれ、地下街の一部なのです。


難波の地下街なんばウォークを西方向へどんどん歩いて行きます。
OCATの少し手前、ちょうど地下鉄四つ橋線の改札手前付近の通路が約20メートル位に渡り絵画で飾られています。


一見したところ、いずれも印象派以降の作品(合計20点程度はあったのではないでしょうか)のようで、ちょっとした美術館の趣きです。
私がこの場所に来た時、ここを通る方で足を止めてこれらの絵を見る人は全く見受けられませんでした。
全て複製画ではありますが、どれも名立たる画家達の作品ばかりで本当にもったいない限りでした。

ご覧の通り柵等は無く、本当に目の前でじっくり見られますので、この時代の絵が好きな方はぜひ足を運んで下さい。


空調完備で雨知らず、すぐ傍には飲食店や本屋さん、駅の改札も目の前と最高の条件が揃っています。
私も今度はじっくりと絵を見る為に行ってみようと思います。

ミュシャ展記念講演会の内容報告

2006-01-28 21:11:43 | 美術館 博物館 展覧会
かなり時間が経ってしまいましたが昨年12月に大阪サントリーミュージアム天保山主催により行われましたミュシャ展記念講演会の内容をご報告致します。

開催されましたのは昨年、2005年12月10日の午後2時からサントリーミュージアムのお隣にある海遊館ホールでした。
今回の講演をしてくださったのは成城大学の千足伸行教授、《アルフォンス・ミュシャーベル・エポックの華から祖国愛の画家へ》という題での講演でした。

まず、最初は今回の展覧会についてのお話です。今回の開催に当たってはミュシャの孫に当たるジョン・ミュシャ氏が理事を務めるミュシャ財団の管理品を提供して頂きました。
次に、アルフォンス・ミュシャの生い立ちについての話となりました。
彼は1860年チェコスロバキアの首都プラハから車で2時間ほどのモラビアの小さな村で生まれました。
父親は裁判所の職員で、罪人を護送する仕事についていました。
ミュシャ自身は子供の頃、教会の合唱団に入っていました。

当時のチェコはドイツ=オーストリア帝国を治めるハプスブルグ家の支配下にあり、ドイツ語が義務づけられておりました。
その為彼はまずプラハからウィーンへ移り、その後ミュンヘンで勉強を続け最終的には27歳の時パリへ移りました。

当時、100万人都市であったパリにおいて、音楽や美術等の芸術を志す“アーティスト”の数は5万人であったと言われています。
そのパリにおいて、ミュシャはまず挿絵画家として仕事を開始しました。
そして1894年の暮れも押し迫った頃、パリのルネサンス座からサラベルナールの新年公演の為のポスターを至急作って欲しいと言う依頼が、印刷業者、ルメルシエの所に舞い込みました。
たまたまこの時、いつものポスターデザイナーがクリスマス休暇で不在だった為、面識のあったミュシャに急遽、代役として白羽の矢が立てられました。
このポスター製作を引き受けた彼は約1週間でデザインを完成させ、その作品をサラに見せました。
後年、ミュシャは、「この時サラはこの作品の前にじっと立ち目をそらす事がなかった。そして私に近づくと私を抱きしめ『よくやった』と言った」と語ったと言う話もあります。
この時彼が描いた作品が《ジスモンダ》だと言われています。

こうして女優サラベルナールの信頼を得たミュシャは彼女の主演作品のポスターを次々と手がけ、一躍人気を博していく事になるのです。

ちなみにこの“ミュシャ”(Mucha)と言う名前、実はフランス語での発音であり、祖国チェコ語では“ムハ”と発音するそうです。

ミュシャが活躍を開始した1890年代、ヨーロッパ世界は<世紀末時代>へ突入して行きました。
この時期はちょうど長く続いてきた<貴族文化>から<民衆(大衆)文化>への流れが生まれてきた時代に相当します。

ミュシャが暮らしたフランスでは、この頃カフェ、キャバレー、サーカスなどが出来始めました。
人々や街を照らす《光》が“ろうそく”から“電気”に変わると共に、《夜》が明るくなり、それに伴って人々の“夜の”賑わいが生まれました。
これが上述の娯楽施設を生み出すきっかけとなったと言えるでしょう。

後世《ベルエポック(よき時代)》と呼ばれる事になるこの時代の“波”に乗ったのがミュシャでした。
彼は従来の“画家”とは異なる“デザイナー”として自身の地位を築いていきました。
また、彼が手がけるポスターを始めとした“印刷物”は従来の“絵画”とは異なり、刷られる枚数が多いので大量に消費する“民衆の支持”なくしては成立し得ないものだったのですが、これも大衆文化の潮流に助けられる形となりました。
そういった意味で彼は非常にタイミングよく登場した“シンデレラボーイ”ともいえるでしょう。

この時期、非常な勢いで広まっていったメディアとしての<ポスター>ですが、フランスではシェレ、ロートレック、ボナールなど、既に多くの作家たちが活躍し人気を博しておりました。
そこに登場したミュシャですが、彼らとはその趣を異にしておりました。

そして時代は《アールヌーボー》へと進んで行きます。
《アールヌーボー》の理想は『芸術の大衆化』にあります。つまり、民衆生活の“潤い”(=生活の美的向上)を生み出す事を目的としていました。
旧来これらの“潤い”は貴族文化に属するものでした。
この『生活の美的向上』という考え方はイギリスから導入されたものでした。

フランスに先立ち、イギリスではジョンラスキンやウィリアムモリスといった人々がこの流れを確立して行きました。
彼らの行動は、従来のような“安かろう悪かろう”ではなく、マイセンやセーブルと言った“貴族用”とまでは行かないものの、“良いものを一般に”提供する事を目的としていました。
ここから『誰でも楽しめる芸術』としての<アールヌーボー>が確立されていくのです。
これにはこの頃生まれた《万国博覧会》が一役買っておりました。
なかでも1900年の《パリ万博》で<アールヌーボー>は頂点を迎えることとなります。
ジャポニズムに代表されるモネやルノワール、アフリカン(野性的エキゾティズムとでもいいましょうか)から影響を受けたピカソやカンディンスキー、博覧会の寵児とも言えるガレやティファニー、様々な美的潮流が生まれていく事になります。
しかしながら、ヨーロッパ列強の覇権主義の衝突が引き起こした第一次大戦と共に<アールヌーボー>は終焉を迎え、続く<アールデコ>の時代へと進んで行きます。

このようにして終焉を迎えてしまった<アールヌーボー>は長く歴史のかなたに置き忘れられていましたが、1960年代に入り再評価を受ける事となりました。
その評価の中でアールヌーボー様式の1つとして<ミュシャ様式>と言う形が確立されたのです。

ミュシャ自身は後年、祖国チェコの独立とその後の支援の為、民族主義的、宗教的な作品へとその方向性を変化させて行きました。
そして第二次大戦の悲惨さを経験することなく1939年にこの世を去ります。
一説によると、晩年、ユダヤ人との疑いをかけられてゲシュタボに連行されたらしく、これが彼の死期を早めた一因だとも言われています。

いまや世界中にその業績が知られるミュシャですが、祖国チェコでの彼の評価は低く、ここ数年になってやっとミュシャ専門のミュージアムが建設されたのは驚きです。


講演会では後半、スライドを使用し40数点の映像を交えながら詳しい説明をされ、終了となりました。

長々と報告して参りましたが、今回の展覧会は残念ながら明日1/29で終了となってしまいます。
販売されていた図録によると、この巡回展覧会はこのサントリーミュージアムが最終の会場となっていましたので、お近くの方で観てみたい方は大変な混雑が予想されますので、是非早い時間に足をお運び下さい。

展覧会の感想、その他お伝えしたい事柄につきましては明日以降に報告させて頂きます。

“芸術の秋”の味覚に<ミラノ風懐石弁当>はいかが?(大阪市立美術館『ミラノ展』

2005-10-09 19:47:06 | 美術館 博物館 展覧会
本日の記事につきましても、非常に長くなった為、もう1つのLivedoorのブログの方に書きました。リンクを張ってありますので枠外にありますBOOKMARKの『ジュディ犬気分屋ブログ』のリンクボタンからお入り下さい。お手間をお掛け致しますが宜しくお願い致します。




今日は芸術のお勉強です。(アール・デコ展開催記念講演会《アール・デコの時代》の報告

2005-10-03 22:22:45 | 美術館 博物館 展覧会
本日の記事につきましては、非常に長くなった為、もう1つのLivedoorのブログの方に書きました。リンクを張ってありますので枠外にありますBOOKMARKの『ジュディ犬気分屋ブログ』のリンクボタンからお入り下さい。お手間をお掛け致しますが宜しくお願い致します。