えんじゃけん

01.「鏡越しの顔」(2001年05月号)~『松のひとりごと』より

■当時の松さん
 TV /2001年1月~3月 CX『HERO』雨宮舞子役(全11回放送)
 舞台/2001年4月~5月 作・演出 岩松了『夏ホテル』カオル役
    PARCO劇場(シアターナインス5周年記念公演)
 音楽/2001.03.14 Release 12thシングル『コイシイヒト』


さて、『松のひとりごと』記念すべき第一回目のエッセイである。
それまで『ムッシュの気持ち』という短編のエッセイを「Can Do!ぴあ」で
連載していた松さん。
(1997年~Can Do!ぴあ『ムッシュの気持ち』(隔週火曜日発売) )
その連載エッセイと比べると文字数は2~3倍に増えている。
『ムッシュの気持ち』の連載が済むとその当時情報が流れる中、
寂しく思っていたファンにとっては新たな連載のニュースは
とても嬉しいニュースであった。
しかし、筆不精(?)・・・、いや、気まぐれ(?)・・・・・・いやいや、
多忙な松さんにとっては、この長い原稿を月一でコンスタントに
書くのには相当の気力が必要であったのではないかと思う。
(いかがでしたか?松さん?)

さて、そんな松さんが第一回目の連載に選んだのは、
「鏡越しの顔」というタイトル。
幸四郎さん(父)の顔を直接見るよりも、鏡に映っている顔見ることの
方が大半を占めていたという松さんの幼少のころの話から始まる。
鏡に映っている顔というのは、幸四郎さんが舞台前に鏡に向かって
メイクをしている姿を鏡越しに後ろから松さんが見ていたということである。

このエッセイではその当時の松さんの父のメイクする後姿から役者について
考えたこと、亡くなった祖母の安らかな死に顔を見て想ったこと、
(2000年に発売されたシングル『桜の雨、いつか』はこの2000年に亡くなった
祖母を想って作った唄である)、そして役者にとっての顔について、
自分の顔へ対して、そして役者への想いで文章を終わらしている。

だから、まとめるなら、松たか子の役者論ともいえる文章かもしれない。
松さんらしく、役者に対する想いからこのエッセイは始まりました。

印象的な文章を抜書きしますと、
「私が鏡越しに見ていた父の顔は、役者が孤独な仕事であることを
秘かに教えてくれていたのかもしれない。
 役者は自分の身体や心を土台に、ある時は犠牲にしたうえで、
他人の人生を生きるのだから、その時間が終われば、また孤独に
戻っていく。その繰り返しなのである。
 私はまだまだ自分の顔に自信が持てない。化粧前に座る、鏡越しの父の
顔を見ながら、その華やかさの影に隠れた孤独を胸に刻みつけ、
道の途中をひたすら進んでいるだけなのである。」

以上は最後の文章の抜書き。
役者は華やかであるけれども、孤独な仕事だというようなまとめになっている。
そして、その孤独の中をひたすら進むという言葉でくくっている。

しかし、私は役者論というよりも、これはその当時の松たか子というありのままの
自分の姿をここに映し出しているように思えた。
そう感じたのは、最初のほうの文章で出てくる次の文。
「末っ子の特有の性質なのか、環境のせいなのか、いつしか私は(自分で
何とかしなきゃ)という感覚を身に着けた。甘えるのが下手になった。」
という文章があるんですよね。
「甘え下手」・・・これって最後の文の「孤独」に繋がりませんか?
「甘え下手」は役者とは関係ありませんよね。

ここからは私のすごい勝手な妄想的な感想になるんですけど、
上に抜き出した文章を組み合わせてみると、当時、
彼女がとても精神的に不安定だったのかな、と思わされる。
だれかに甘えたい、でもそれができないというメッセージを
このエッセイから感じてしまうのだ。
誰かに助けを求めたいけど、求められないといったメッセージ。
誰に向かって発していたのかは不明ですけど。

そう考えると、この時期に発売した、松さん本人作詞の
「コイシイヒト」の歌詞の内容の激しさを納得できは
しないでしょうか。(こじつけすぎ?)

ものすごくものすごく 恋しい人の名前は
 永遠に永遠に この胸の中

 逢いたくて逢えなくて 何度も受話器を置いた
 永遠に永遠に この胸の中

 暖かい暖かい 優しい光の中で
 偶然にすれ違う 人波の中
 離れてゆくの


今の彼女はどうなのだろう?
甘えることのできる相手は見つけられたのだろうか?
そして、自分の顔に自信が持てるようになったのだろうか?
芝居を終えて、自分に戻ったときに、孤独を感じずに済んでいるのだろうか?
あるいは、今も昔と同じ孤独の中をひたすら進んでいるんだろうか?

只今は『メタルマクベス』ではランディ夫人として、ランディに
ベタベタモードで甘えてますけど、あそこまで・・・とはいいませんが、
ああやって、誰かに甘えられる時間が松さんにあることを願いつつ。
う~ん、でもあの演技、意外に松さんの素?とも思えるんですけど。
んなことありませんか?松さん!

でも、本人曰く「甘え下手」らしいので・・・違うのかな。
実際のところどうなんでしょう?
とりあえずは、甘え下手でもかわいがられるタイプだよね、松さんって。
おばあちゃんっ子って感じだから。
おばあちゃんっ子ってね、年上にかわいがられるんだよ。
知ってた?
それにね、一般的には末っ子は甘え上手なんだよぉ~。
松さん、末っ子は甘え下手って書いてますけど。
甘え下手なのは長子といわれますよ、一般的な話ですけど。

いつのころからだったか、はっきり覚えてないんだけど、
何年か前のある日を境に彼女の演技がスパーンと抜けたように思うんだよね。
その頃からすごく顔にも自信が溢れているように思った。
今の彼女って顔から迷いが随分消えているように思う。
全く悩みがないっていうのとは違うんですけど、
悩みでなく、迷いがないっていうか・・・。(うまくいえないけど)

もし、彼女が再び役者、そして顔についてエッセイを書くのであれば、
多分、この当初に書いたものとは違う内容のエッセイになるのではなかろうか?

人は一人で生まれ、一人で死んでいく孤独な生き物だという言葉も
あるけれども、私は人とのつながりがあるから生まれてきたんだし、
死ぬのも孤独ではないと思いたい。
実際にこの世に存在したわけだし、その人がいたから今の自分がいるのだから。
だから、その人がこの世からいなくなったとしても、自分の中では
生き続けていると想うし、それはその人と関わった全ての人の中で
生き続けているから繋がっていると私は想っている。
だから、孤独だなんて思わないでほしい。
全てのものはどこかでつながっているんだと想うから。
今の松さんがあるものその人たちがあってのことなのだから。

と、かなりエッセイ本文から脱線感想文です。(^^;)
これを松さんが読んだら、
「私は孤独をアピールしたかったわけじゃない!」
とプンプン怒ってしまうかも。(^^;)
ということで、私が松さんの文章を読んで思ったことなんで、あしからず。

さて、次回の感想は「『HERO』の噂話」についてです。
『HERO』といえば、今年の7月にスペシャル版で一夜限りですが
帰ってくるんですよね。
そちらも楽しみですね。
松さん自身もすごく楽しみなんじゃぁないかなぁ。
雨宮さんとして久利生さんに会えるのは。
ドラマ(舞台)が終わっても、こうやってまた再び、
その役として再会できるときもあるんだよね。

次回の感想もお楽しみに!(?)
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