福岡タワーとの対話

タワーと出会い早30年。動画制作にも意欲を持つ令和版高齢者!

山本一力著「おたふく」

2014年07月11日 22時38分08秒 | 積読、音読、心読
ほぼ3年ぶりか、山本一力著「おたふく」再読。

過日、近場の区民図書館で文庫本を借りて来た。前回は単行本だった。
ブック・レヴューにこうある。
<冷え込んだ江戸の景気を救ったのは、一商人が始めた弁当屋――未曾有の不景気に見舞われた寛政の江戸。大店「特撰堂」の次男・裕治郎は実家を離れ、弁当屋を始める。客を思い、取引相手に真を尽くす裕治郎の商いは普請場の職人の評判をとり、火消しを走らせ、武家と町人を結び、やがて途方もなく大きく育ってゆく……。安くて美味いもので人は元気になる! 経済エンタテインメント小説。2008年10月~2009年11月、「日本経済新聞」夕刊に連載>
更に、
<賄賂が横行した田沼時代の乱れた世を正そうと、老中・松平定信は借金苦の徳川家直参家臣を救うため、武家の禄米を担保に高利でカネを貸し付け、贅沢な暮らしをきわめる札差に、棄捐令(借金棒引き)を発布した。川上から川下へ、カネの流れは滞り、人々の身も懐も寒さが厳しさを増すなか、大店の次男が始めた小さな志高き商いが火消しを走らせ、そして…>とある。
この作品が一力氏の世界だ。背伸びせず、ごく自然に“江戸市井の人々を、ときの映画のカメラワークを想わせる”一力さんの筆致が、無理しない程度に描かれている。
やはりこのほうが、一力さんに似合いだ。しばらく愉しませてもらおう。

山本一力著「献残屋佐吉御用帖 まいない節」読了

2014年06月28日 20時47分03秒 | 積読、音読、心読
山本一力著作品、久々に読了。
「献残屋佐吉御用帖 まいない節」、図書館に予約し10日ほどで順番が来た。

過去作品に登場した数多の人物が、近く遠くに登場する。同一人物ではないにしても生業が同じであったり、賭場の主、代貸、意気盛んな若い者を束ねる人物であったり。
今回初登場の献残屋について。大名が受けた献上物で不用のもの、使いきれないで残っているもの。江戸時代、献残の払い下げを受け、それを商品にして行う商売。また、その商売を行う者。
払い下げる際の換金率によって大名や役人との関係に厚薄があるが、今回登場の献残屋“寺田屋”は焼津産鰹節を高換金率扱いとすることで、とある奉行所役人邸への出入りを得る。その役人が目論んだことが、この作品のメインストーリーとなる。
全500頁超の作品、今までの一力作品で覚えた一気に読んでしまう展開と後味爽快さが、今回の作品には失せた。繰り返す同じ展開のくどさ、特徴的な勧善懲悪的展開の薄さ、主要な登場人物の不明確な結末。残った読後感は“一力さん、お疲れの様子で”と言いたい。期待させる先入観を作家は作品で持って応えねばならない。今どきの書籍は高い、従って期待感は購読費用で帳消し、良ければ得した気分になりたいのが愛読者の言い分だ。江戸市井の人の生き方、生業の様子、そこで起きる事件と爽やかな結末が、私の一力作品への期待感だ。ジョン・マンもよかろう、龍馬奔るも良しとしよう。一力さんにはあまり広範囲に題材を広げないほうが、作品の深みは増すように思えるのだが。江戸モノで十分ではないでしょうか。損料屋の喜八郎は元気ですか?深川駕籠の二人は?黄表紙のメンバーのその後は?
そろそろ、池波さん同様連作物へ出掛けられても良いんじゃないですか?一力さん!

山本一力著「ジョン・マン(青雲編)」読了

2014年02月10日 20時43分24秒 | 積読、音読、心読
有休で休みの一日、ほぼ音楽と読書に費やした。
当方お気に入りの作家、山本一力著「ジョン・マン(青雲編)」読了。

1843年5月7日~同年8月26日の3ヶ月間を描いたものが1冊の本になっている。“ジョン・マン”シリーズ第4巻、なかなか遅々として進まないが、ジョン万次郎の人生で大きな転換点を迎えた時期と思えば、筆者渾身の思いが伝わるような気もする。ここで少し、ジョン万次郎について調べてみた。
文政10年1月1日(1827年1月27日)~明治31年(1898年)11月12日に生きた日本人、土佐国中濱村(現在の高知県土佐清水市中浜)で生まれいている。本名、中濱萬次郎。天保12年(1841年)、手伝いで漁に出て嵐に遭い、漁師仲間4人と共に遭難、5日半の漂流後奇跡的に伊豆諸島の無人島鳥島に漂着し143日間生活した。そこでアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に仲間と共に救助される。日本はその頃鎖国していたため、漂流者のうち年配の者達は寄港先のハワイで降ろされるが、船長のホイットフィールドに頭の良さ(と共に、1マイル先でも見て取れる真鍮色をした視力)を気に入られた万次郎は本人の希望からそのまま一緒に航海に出る。生まれて初めて世界地図を目にし、世界における日本の小ささに驚いた。この時、船名にちなみジョン・マン(John Mung)の愛称をアメリカ人からつけられた。同年、アメリカ本土に渡った万次郎は、ホイットフィールド船長の養子となって一緒に暮らし、1843年(天保15年)にはオックスフォード学校(上記の本の表紙となっている時期のことだ)、1844年(弘化元年)にはバーレット・アカデミーで英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学ぶ。彼は寝る間を惜しんで熱心に勉強し、首席となった。民主主義や男女平等など、日本人には新鮮な概念に触れる一方、人種差別も経験した(Wiki)とある。彼の凄いところは、曲折の中でも本国への帰国を諦めず、仲間たちとともに日本へ帰るのだ。しかも在米時代に身につけた豊富な知識と学力により、薩摩藩主・島津斉彬、土佐藩主・山内容堂等の覚え目出度く次第に頭角をあらわすが、極めて謙虚にして達観の風情あり、1851年2月に本国へ帰国後からわずか2年で江戸において直参旗本に遇せられるまでになる。その間の曲折には数多の出来事があったろうが、出世の階段を一気呵成に駆け上るような彼の出世ぶりは、当時の鎖国・日本が風雲急を告げるような外国(特に米国)の開国交渉において渉外に適した人材不足に泣いていたことも事実であったろう。万延元年(1860年)、日米修好通商条約批准書交換の遣米使節団の1人として、咸臨丸船長・勝海舟や福沢諭吉らとともに渡米、明治維新後の明治2年(1869年)、明治政府により開成学校(現・東京大学)の英語教授に任命。明治3年(1870年)、普仏戦争視察団として大山巌らと共に欧州派遣。帰国の途上、アメリカで恩人のホイットフィールドと万次郎は20年ぶりに再会している(Wiki)。アンダーライン部筆者加筆。まあなんと波瀾万丈的人生であったことか。著者の山本さんはこれからどんなペースで筆を進められるのやら、この調子で行くと結構な巻数になるのではないか。しかも山本先生、土佐藩郷士・龍馬を描いた“竜馬奔る”も連載中であろうし、体調に留意せられマイペースの執筆を願うものである。

『LPジャケット美術館』“クラシック名盤100選”読書中

2014年01月20日 20時57分01秒 | 積読、音読、心読
先の『バーンスタイン名盤100選』“LPジャケット美術館II”読み終えずのまま、LPジャケット美術館のIを借りて読んでいる。

LPジャケット美術館II同様、高橋敏郎氏著作である。この本の中で興味深く読んだ箇所がある。LPジャケットの目的が縷々述べられており、少々長くなるが引用したい。
「盤を袋に入れてホコリから守る。そして表に情報を記載する。本来、これだけがジャケットの役割だった。ところが、やがてジャケット自体が販売促進のための重要なツールであることに気がつく。店で、いかに顧客の目を捕えるか。できれば手に取って眺めてもらいたいし、最終的には買ってもらいたい。かくしてグラフィック・デザイナーの腕の見せ所の時代となった」とある。
斯くの背景を経て、店頭に並ぶLPジャケットを手にすることになったようだ。高い芸術性に腕を振るうデザイナーの活躍があったのだ。30cm×30cmのカンバスに録音内容と対峙した結果を表現したのだろう。

『バーンスタイン名盤100選』<LPジャケット美術館II>読書中。

2014年01月14日 23時02分46秒 | 積読、音読、心読
トンボの本(新潮社刊)『バーンスタイン名盤100選』“LPジャケット美術館II”を読書中。
新潮社のWebサイトには以下のようにある。

「バーンスタインの生誕90年」を記念して2008年に刊行されたようだ。
LPジャケットのデザインには専ら高い芸術性を見るが、本書に掲載されるそれらジャケットデザインには、指揮者・バーンスタインのその時々の心中をも表現しているかのような、高い完成度を感じる。
1943年にブルーノ・ワルターの代役としてデビュー以来、まさにアメリカン・ドリームを手中に収めたバーンスタイン。彼が残した数々の作品群が、ジャケットデザインとして今再び、楽しませてくれるのである。この書籍も読むのに楽しみをもたらす一書となり得ようか。