1975年夏、北海道幌内線(三笠~幌内間)にて。長大なセキを牽引する面構えが良い(ピンが甘いのが悲しい)。
幌内線は、国鉄(当時)岩見沢駅から分岐し幾春別駅までの区間を指す。私が訪れた1975年夏当時、結構な本数の貨物が走っていた。
1975年(昭和50年)3月以降当時の列車時刻表
同じく列車ダイヤ
三笠~幌内間で一日9往復の列車が運行している。この区間の勾配は22.4‰とあり、かなりの力行を強いられていたのではないか。
北海道まで遠征して撮影したエリアは室蘭・夕張・幌内の各線のみで、短時日の間でどれだけ効率的に撮影数量を確保できるかを優先した結果だ。石北や宗谷本線にも一部ではあるが少ない本数のSLが走っていたのだが、何よりも量最優先の旅であったのだ。
情報入手には限りがあり、現在のような知りたい情報をWebで簡単に得られる時代ではなかった。特にSL運行状況とかなると一部マニアのみが知りたい情報であるため、鉄道関係の月刊誌を参考にしていたがそれでも月遅れ的な間隔で、紙面に掲載される記事は古い。そのような一部のSLファン(特に撮影ファン)を対象とした情報誌が出ていた。「最新SLダイヤ情報」誌である。
表紙には“国鉄協力”とある。“弘済出版社(現:交通出版社)”「JR時刻表」等の刊行元である。ちなみに「SLダイヤ情報」はSL全廃後の1976年6月に「鉄道ダイヤ情報」と誌名を変更し、現在も刊行されている。刊行物の一つである“SLカレンダー”に、当時の名残が見られるだろうか。
1972年から刊行が始まった「SLダイヤ情報」誌を時系列で見ると、SL走行路線、本数が激減していくのがわかる。当時の国鉄が目指していた全国無煙化に向かって加速度が増すに従い、SLそのものを撮影する“SLファン”が急増し一時期、社会現象化して行く。
私が撮影する目的でカメラを下げ、SLを撮り始めたのは高校1年の頃からで、主な撮影路線は筑豊であった。自宅から日帰りで行けることもあるが、何より走行路線と本数が圧倒的に多かった。これは当時の全国レベルでも群を抜いていたかと思う。悲しいかな当時の写真がほとんど残っていないのは、残念の極みである。最初の頃は父所有のリコー製レンジファインダ・カメラを借りて撮っていたが、レンズ交換式一眼レフが欲しくて夏休みのアルバイト(道路工事のドカチン)で稼いだお金で、新品のMinolta-SRT101を手に入れた。55mmの標準レンズ付きのみでしばらくは撮影していた。動体へのピント合わせや、シャッター連写を毎晩のように練習していたのも懐かしい思い出だ。冬のバイト(郵便配達)で28mmと135mmを買い求めた、しかも中古で(城南区の中古カメラ店)。ミノルタを選んだのは、中学の同級生がMinolta-SR7を使っててそれが影響したかと思う。時々レンズを借りたりしたこともあった。
なんだか、思い出話になってしまった。私と写真との付き合いもかれこれ、45年近くなるようだ。
Minolta-SRT101+55mm Fuji NeopanSS 1975年夏 幌内線・三笠~幌内間
日本ブログ村写真ランキングに登録しています。あなたの応援ポチが、当方のモチベーションアップになります。
にほんブログ村
幌内線は、国鉄(当時)岩見沢駅から分岐し幾春別駅までの区間を指す。私が訪れた1975年夏当時、結構な本数の貨物が走っていた。
1975年(昭和50年)3月以降当時の列車時刻表
同じく列車ダイヤ
三笠~幌内間で一日9往復の列車が運行している。この区間の勾配は22.4‰とあり、かなりの力行を強いられていたのではないか。
北海道まで遠征して撮影したエリアは室蘭・夕張・幌内の各線のみで、短時日の間でどれだけ効率的に撮影数量を確保できるかを優先した結果だ。石北や宗谷本線にも一部ではあるが少ない本数のSLが走っていたのだが、何よりも量最優先の旅であったのだ。
情報入手には限りがあり、現在のような知りたい情報をWebで簡単に得られる時代ではなかった。特にSL運行状況とかなると一部マニアのみが知りたい情報であるため、鉄道関係の月刊誌を参考にしていたがそれでも月遅れ的な間隔で、紙面に掲載される記事は古い。そのような一部のSLファン(特に撮影ファン)を対象とした情報誌が出ていた。「最新SLダイヤ情報」誌である。
表紙には“国鉄協力”とある。“弘済出版社(現:交通出版社)”「JR時刻表」等の刊行元である。ちなみに「SLダイヤ情報」はSL全廃後の1976年6月に「鉄道ダイヤ情報」と誌名を変更し、現在も刊行されている。刊行物の一つである“SLカレンダー”に、当時の名残が見られるだろうか。
1972年から刊行が始まった「SLダイヤ情報」誌を時系列で見ると、SL走行路線、本数が激減していくのがわかる。当時の国鉄が目指していた全国無煙化に向かって加速度が増すに従い、SLそのものを撮影する“SLファン”が急増し一時期、社会現象化して行く。
私が撮影する目的でカメラを下げ、SLを撮り始めたのは高校1年の頃からで、主な撮影路線は筑豊であった。自宅から日帰りで行けることもあるが、何より走行路線と本数が圧倒的に多かった。これは当時の全国レベルでも群を抜いていたかと思う。悲しいかな当時の写真がほとんど残っていないのは、残念の極みである。最初の頃は父所有のリコー製レンジファインダ・カメラを借りて撮っていたが、レンズ交換式一眼レフが欲しくて夏休みのアルバイト(道路工事のドカチン)で稼いだお金で、新品のMinolta-SRT101を手に入れた。55mmの標準レンズ付きのみでしばらくは撮影していた。動体へのピント合わせや、シャッター連写を毎晩のように練習していたのも懐かしい思い出だ。冬のバイト(郵便配達)で28mmと135mmを買い求めた、しかも中古で(城南区の中古カメラ店)。ミノルタを選んだのは、中学の同級生がMinolta-SR7を使っててそれが影響したかと思う。時々レンズを借りたりしたこともあった。
なんだか、思い出話になってしまった。私と写真との付き合いもかれこれ、45年近くなるようだ。
Minolta-SRT101+55mm Fuji NeopanSS 1975年夏 幌内線・三笠~幌内間
日本ブログ村写真ランキングに登録しています。あなたの応援ポチが、当方のモチベーションアップになります。
にほんブログ村