敗者学のすすめ山口 昌男平凡社このアイテムの詳細を見る |
田中智学、石原莞爾、宮沢賢治。この3者についてもっとよく考える本が手元にあった。本書の「天皇を相対化した軍人」と「宮沢賢治の祝祭空間」である。著者は文化人類学の専門家の山口昌男である。中村雄二郎とともにこの著者の本はなるべく読もうとしていた。本書はツンドクの本であったが、先日何気なく紐解いてみた。要旨をまとめてみる。
田中智学は世上、国家主義的右翼とのレッテルが付いているので、敬遠されあまり論じられていない。1861年に江戸で生まれた。1939年に没している。
田中智学は明治13年に法華経研究のサークル蓮華会を横浜で結成、護持正法会(明治16年)を経て、立正安国会(明治17年)に改称して東京に進出した。大正3年に国柱会を結成した。大正7年に東京・鶯谷に国柱会館を建設。田中智学は極端に宗教的な面と極端に現世的な面に兼ね備えており、明治から大正にかけて、多方面で時代に関わっていた。影響を受けた人間も多種多様で、都市の中小企業の経営者を教団の母体にしていた反面、中里介山、北原白秋、木村荘八などの文人から、石原莞爾のような軍人、それから大川周明、北一輝、井上日召などのファシストまでが出入りしていた。著者は石原莞爾、宮沢賢治、伊勢丹の2代目社長の小菅丹治の3人を田中智学の影響を受けた「3ジ」と呼んでいる。伊勢丹の初代・2代目ともに田中智学に師事した。宮沢賢治も石原莞爾もともに大正9年(1920年)に国柱会に入信している。
田中智学は生粋の江戸っ子。日本橋石町の生まれ、神田のお玉ヶ池や明神下で幼児期を過ごす。和歌を詠み、俳句も吟じる、新体詩も書けば、歌謡の作詞もする。唄や端唄といった江戸人的教養も身につけていた。幼いときに仏門に入り、壇林や大教院などの宗教学校に入る。日蓮宗大教院の在学中に大病にかかり、そのとき、江戸川区の妙覚寺で静養していたとき文学に関心を持つ。設計の素養もあり、プロ顔負けの腕前であった。静岡県三保松原に五層楼閣の最勝閣を建設、国柱会館も建設している。デザイン力やアイディアの力があった。伊勢丹の「伊」の字を風呂敷に真っ赤に染め抜いて、荷物を小僧さんに担がせて東京市中を走らせた。法要儀式も自分でデザインし、儀式を非常にカラフルにした。この世の中で存在する構えをパフォーマンスとして身につけていた。最初に修道場として明治19年に買い取った神田蠣殻町の建物がこうした性格を表していた。それはデパートの前身である勧工場であった。巨大な家屋が迷路になっており、庭があり、庭には花が咲いている。階段には絵が飾ってあり、展覧会のシステムでもある。2階は楽隊が音楽を奏でている。ここを活動の拠点にした。宮沢賢治の初期の童話に出ていた「山男」のイメージは田中智学ようだ。田中智学の身についたパフォーマンス性や祝祭的な面を宮沢賢治は見たり聞いたりしていたはずである。
宮沢賢治は農学校で生徒に演劇をやらせている。浅草オペラの影響だけでなく、田中智学の演劇活動からも影響を受けているはずだ。小説、戯曲の創作もしている。田中智学は明治末から大正にかけて演劇が沈滞していたとき、明治41(1908)年、小説「末法」を喜劇化した「生抵当」を書き、坪内逍遥の門下の新文芸協会の俳優たちと提携して日蓮劇「佐渡」の脚本を自ら書き(大正10=1921年)、歌舞伎座で上演させている。宮沢賢治はちょうど家出上京したとき、商用で上京した花巻のおじさんを歌舞伎座へ案内している。大正12(1923)年には狂言「茗荷」、尊王劇「黒木御所(名和長年を扱う)を著す。昭和3(1928)年には「大菩薩峠」、昭和6(1931)年になると舞踏劇「北満の日章旗」、昭和8(1933)年に「元寇退治」、国性舞踏「愛国号」、9(1934)年舞踏劇「靖国祭」、13(1938)年「護国の花」、「建国音頭」などを作っている。大正11(1922)年に国性文藝会という国柱会の付属機関の俳優学校を設立している。著者は、田中智学は東京人の感性に強く訴えた人であり、そのままいけば、ロマン・ロランのような宗教的作家になったかもしれない、と述べている。羅須地人協会の発想も田中智学の本時郷団のユートピアと期を一にしている。石原莞爾における戦時中の東亜共同体の構想も似ている。
宮沢賢治は「日蓮聖人に従ひ奉る様に田中先生に絶対に服従致します。御命令さへあれば私はシベリアの凍原にも支那の内地にも参ります」という熱狂的傾倒はこうした多彩な魅力ある人物像を描くと、ようやく理解できる。宮沢賢治の研究者は田中智学の影響は少なかったと言いたがっているが、それでは賢治の全体像はつかめない。むしろ、賢治の中核に田中智学がいるのだ。
「八紘一宇」は田中智学の造語だが、東条により、大東亜共栄圏の支配イデオロギーにすりかえられた。日蓮主義と天皇制イデオロギーの関係は一筋縄で解けないが、日蓮は政治と宗教が統一される最終段階に真の名君が出現すると説いている。それが「王法仏法冥合一致」である。田中智学は日本の天皇にその資格があると言った。ところが、石原莞爾は王たるものが聖道を実践する資格がなければ、その王には「王仏冥合」の資格がないと明言している。そのため、石原は東条に目の敵にされた。石原は東条に危険視され、昭和天皇も石原にいい印象を持っていなかった。(保阪正康氏によると、2・26事件のとき、天皇の断固たる反乱軍討伐の意思を側面援助したのが、当時陸軍参謀本部課長であった石原莞爾であったのにも関わらず。天皇にとって、満州事変の首謀者とされる石原のこの行動は不可思議であった)。
石原は外へ外へ広がっていき、東亜共同体の理念も具体的人間関係を通じて実現しようとした。日蓮宗の宇宙の教義に埋没しながら、軍人として、天皇と国体の問題を銅位置づけるか考え続けた。宮沢賢治は自己の内面に掘り下げていった。日蓮宗の持っている宇宙に対する感覚をどんどん膨らませていき、天皇の方には目もくれない。
宮沢賢治を語るとき、バルネラビリティー(攻撃誘発性)を忘れるわけにいかない。東北自体が近代性からいえばバルネラブルな世界であった。賢治は一種の始原的なくびきを脱するために、 バルネラブルなものを逆に組織した。それが東北の神話的な背景で満たされている。「山男の四月」の山男とか、「なめとこ山の熊」のマタギ(小十郎)とか、作品の中に登場している。彼らは平地にたいしてまったくバルネラブルな存在であるが、実際、平地に出てくるといじめられてひどい目に会う。小ざかしくなった平地の人間にたいする「日本原人」みたいな感覚が作品の中に生きている。樺太旅行では「青森挽歌」や「オホーツク挽歌」を書き、存在の源へ向かう詩的宇宙を描いている。北斗七星へいってさらに極北にある宇宙の中心点に突き抜ける感じ。シャーマンのような想像力のようなものだ。宇宙の中心がどこかにあって、そこに近づくと、すべての転換が行われる。そういう場を賢治は持っていた。悪路王は東北の押し込められた王権みたいなものだ。
本書は初めて、賢治と田中智学の関係を正面から論じたものであり、気持ちのいいものである。賢治の素晴らしさが逆照射されている。
石原莞爾は旧陸軍の関東軍作戦参謀として、天皇の統帥権を犯して満州事変を起こした張本人と記憶されている。彼自身の国体観が日蓮の「王法仏法冥合一致」と合致したため、大正8(1919)年、国柱会に入信した。入信1年後、中支那派遣隊司令部付として中国の漢口に派遣される。その間約1年、新婚間もない夫人に200余通の手紙を出しているが、内容はほとんど信仰に関するものだった。大正11(1922)年、ドイツ出張を命じられ、3年間滞在する。その間、田中智学の長男、里見岸雄と親しく交わり、親身に仕えている。田中智学の日蓮研究の本をドイツ語で刊行している(莞爾にとって、田中智学、里見岸雄に仕えることが、彼の大義に仕えることだと思っていたのだ。これは別の本での記憶による)。莞爾は里見岸雄と日夜行を共にしながら、日蓮宗、国体問題、マルクス主義、日本および世界の将来など集中的に話し合ったとされる。莞爾は「世界最終戦争論」に発展させる。莞爾は、王道を実現できるような賢君は現実にめったに現れない、と考えていた。天皇を絶対化する立場から距離を置いている。「あるべき天皇」と「現にいまある天皇」を分けて考える方向をある時期からしていたらしい。満州事変における統帥権干犯も、ふたつの天皇像を持った石原莞爾が「現にいまある天皇」に見切りをつけたとしたら、莞爾の中では首尾一貫した決定であったといえる。ところが、日中戦争の勃発で莞爾のユートピアは挫折する(石原莞爾は日中戦争の拡大に断固反対したのだが、軍部の後輩たちは「あなたがやったことを私たちはしているだけだ」として、莞爾の反対に抗弁した)。
石原莞爾を考える場合、一筋縄ではいかない。彼の目的はよかったが、手段が国家に都合のよいところを利用され、換骨奪胎された。前述した保阪正康氏は、なぜ、2・26事件で中心的役割をしながら、石原莞爾が軍部の中枢から外されたのか、そこに大きな昭和史の問題を感じている。