![]() | 検証 戦争責任〈2〉読売新聞戦争責任検証委員会中央公論新社このアイテムの詳細を見る |
本書は読売新聞社が2005年から1年をかけて、あの「昭和戦争」の責任を検証したものをまとめたものである。その動機はあとがきで渡辺恒雄主筆は次のように述べている。「戦後六十年を経て、加害者、被害者はほとんど存在しなくなったとはいえ、まず我が国が、戦争責任の所在を究明、検証し、その政治的、道徳的責任を明らかにしなければ、関係国との歴史的和解が長期にわたって困難となり、相互に得るところが少なく、失うことが多くなるのみだろう」。
具体的時期における個々の人物の責任を究明している。
1、満州事変(1931年) 戦火の扉開いた石原、板垣
責任の重い人物:石原莞爾(関東軍参謀)、板垣征四郎(関東軍参謀)、土肥原賢二(奉天特務機関長)、橋本欣五郎(参謀本部第二部ロシア班長)
2、日中戦争(1937年) 近衛、広田無策で泥沼突入
責任の重い人物:近衛文麿(首相)、広田弘毅(首相・外相)、土肥原賢二(奉天特務機関長)、杉山元(陸相)、武藤章(参謀本部作戦課長)
本書では取り上げられていないが、ノモンハン事件(1939年)の責任者として、服部卓四郎(関東軍作戦主任)、辻正信(関東軍作戦課)、稲田正純(参謀本部作戦課長)をあげておきたい。この事件では無謀な作戦指揮により多大の損害を出し、結果として、「ソ連恐怖症」を陸軍内に蔓延させた。この心理的負い目を晴らすために、南進・対米戦に日本を追い込む遠因を作った。
3、三国同盟(1940年)・南進(1941年) 松岡、大島外交ミスリード
責任の重い人物:近衛文麿(首相)、松岡洋右(外相)、大島浩(駐ドイツ大使)、白鳥敏夫(駐イタリア大使)、永野修身(軍令部総長)、石川信吾(海軍省軍務局第二課長)
日米開戦の責任を問う上で、近衛の優柔不断、無責任な態度が極めて大きいように感じる。
4、日米開戦(1941年) 東条「避戦の芽」葬り去る
責任の重い人物:東条英機(首相兼陸相)、杉山元(参謀総長)、永野修身(軍令部総長)、岡敬純(海軍省軍務局長)、田中新一(参謀本部作戦部長)、鈴木貞一(企画院総裁)、木戸幸一(内大臣)
ここに、中堅参謀として服部卓四郎がいたことも記憶にとどめたい。宣戦布告を米国に伝えることが遅れた米大使館における野村大使以下の大使館員の責任(怠慢)はきわめて大きい。「だまし討ち」の大義名分を敵側に与えてしまった。もちろん、米国は暗号解読ですべて知っていたわけだが。
5、戦争継続 連戦連敗を「無視」した東条、小磯
責任の重い人物:東条英機(首相兼陸相)、小磯国昭(首相)、永野修身(軍令部総長)、杉山元(参謀総長)、嶋田繁太郎(海相)、佐藤賢了(陸軍省軍務局長)、岡敬純(海軍省軍務局長)、福留繁(軍令部作戦部長)
6、特攻・玉砕 「死」を強いた大西、牟田口
責任の重い人物:大西滝治郎(第一航空艦隊司令長官)、中沢佑(軍令部作戦部長)、黒島亀人(軍令部第二部長)、牟田口廉也(陸軍第十五軍司令官)
ここには菅原道大(陸軍第六航空軍司令官)、富永恭次(陸軍第四航空軍司令官)の名前を付け加えておきたい。
7、本土決戦 阿南、梅津徹底抗戦に固執
責任の重い人物:小磯国昭(首相)、及川古士郎(軍令部総長)、梅治津美郎(参謀総長)、豊田副武(軍令部総長)、阿南惟幾(陸相)
8、原爆・ソ連参戦 東郷「和平」で時間を空費
責任のある人物:梅治津美郎(参謀総長)、豊田副武(軍令部総長)、阿南惟幾(陸相)、っ鈴木貫太郎(首相)、東郷茂徳(外相)
これ以外に、台湾沖航空戦の誤報電報を握りつぶした参謀本部の瀬島龍三の責任も大きい。瀬島はそのほか、シベリア抑留に関し、ソ連当局と取引をしたとの疑いがあるが、それを自ら積極的に晴らしていない。
なお、読売新聞は天皇の直接的、実質的戦争責任はないと判断した。もちろん、戦争の指揮に許可を与え、天皇の名において戦争が始まった道義的責任は免れ得ないが、今の私にはこの結論は妥当のように思える。