「夏の魔物」は1991年6月に発売されたスピッツとして2枚目のシングルです。
アルバムはメジャーデビューとなる「スピッツ」(1991年3月発売)です。
シングルのセールスも芳しくなかったようですが、独特の雰囲気がある曲として
人気があり、カバーアルバム「一期一会」にも取り上げられています。
今から20年前の曲で、録音は1990年10~11月とありますので、
草野さんが22歳のときです。
今、久しぶりに聞いてみましたが、さすがに声が若いですね。
思わず頬が少し緩んでしまいました。
曲はせき立てられるような速いテンポで疾走し、メロディの中に言葉を
詰め込んだような、それこそ「追われるように」感じられる曲です。
タイトルが「夏の魔物」で、歌詞の中に4回も出てきています。
しかもこれに「会いたかった」と繰り返していて、
数えると何と11回も「会いたかった」と歌っています。
よほど会いたかったのだと思います。
では、一体この「夏の魔物」とは何なのでしょうか。
曲の中では一切具体的な説明がありませんので、
聞く側はそれを想像するしかありません。
もしも夏ではなくて、ほかの季節だとしたらどうでしょう。
秋の魔物 …… 迫力ないですね。ググってみたら「秋の花粉」とか、競馬の秋の天皇賞に魔物があらわれたとか、この歌のイメージとはかけ離れているようです。
冬の魔物 …… 豪雪とか極寒の地に吹き荒れる風とか、直感的に自然の脅威が思い浮かびます。
春の魔物 …… 浮ついたような軽さがあって、全然魔力を感じません。五月病みたいなこともちょっと思い浮かびますが、歌のモチーフとしてはかなり違うものになりそうです。
「夏の魔物」という言葉が発する威圧感、呪術性からして、
春や秋、冬とは明らかに違う人間の内面的なものを感じますし、
夏にこそふさしい、人を突き動かす情動のようなイメージが呼び起こされます。
君と僕は同い年ぐらいでしょうか。そして今は夏休み。
君の住むアパートへ自転車で迎えに行きます。デートの約束をしていて、
ベランダで僕の来るのを待っていた君は、僕を見つけるとほほえんでくれます。
「白いシーツ」を干すことは、ドラマや映画などでは前夜の熱い営みを
ほのめかすための道具になることもありますが、そのようなイメージが
浮かんでしまうのは考えすぎでしょうか。
ふたりは自転車に二人乗りして、かなり遠くまで行ったようです。
「魚もいないドブ川」が幾つもあるのは、自然のあまりない都会で
暮らしているのかもしれません。
行き先はわかりませんが、どうやら夕立に降られてどこかで雨宿りです。
すぐにやむかと思ったのに、雨が上がるまで少し時間がかかったようで、
再び太陽が出てきたころには、だいぶ日が暮れてしまったみたいです。
クモの巣に雨粒がかかり、その水滴が涙のように見えた。
クモは網を張って捕食する虫。今で言う肉食系男子のメタファーで、
それがまるで泣いているようだと。
この夕立で足止めを食ったふたりはどこにいたのか。
その時間をどうやって過ごしていたのか。
物のはずみでラブホにでも入ってしまったのかもしれません。
そして私は、三島由紀夫の「潮騒」で、初江と新治が嵐の中、
観的哨跡で裸で抱き合うあの緊迫した名場面を思い浮かべてしまいました。
お互いの気持ちを確認するふたりですが、
初江の「あんたの嫁さんになることに決めたから、それまではいかん」という
言葉により、一線を越えることなくその夜は別れるのです。
新治だけではなく初江にも結ばれたいという思いはあったのでしょうが、
ぎりぎりのところで思いとどまる。
それと同じようなことが、このどこかで雨宿りしている幼いふたりにも
起きたのではないでしょうか。
「夏の魔物」を「君と見た」と歌っています。「君に似た」と歌っています。
童貞の僕は君と体を合わせたいという本能的な欲求にかられる。
処女の君もそれを受け入れる気持ちがあったかもしれない。
だけどもそうしなかった。
自制心を捨ててしまおうとも思ったが、結局できなかった。
こういうこともあろうかといろいろ決めゼリフも考えてきたが、
口にすることさえできなかった。
この歌は、この雨宿りで何もできなかった日のまさにその晩の、
まだホットな僕の心情をつづったものだと思います。
11回もつぶやく「会いたかった」でありますから、僕はとても後悔しているようです。
しかし、そう長い間後悔しなくても済むように思います。
なぜなら、ふたりにはまたいつかそういう機会がめぐってきて、
美しく結ばれるに違いないからです。
僕も君も、魔物のように思えた情動を何とかコントロールできたという経験により、
ちょっぴり成長することができたのではないでしょうか。
そして「幼いだけの密かな掟」から解放されるのだと思います。
観的哨跡です。「潮騒」を読まれていない方は、ぜひご一読を。
おしまい