好きな私になりたい

日々浮かぶ、なりたい【私】の姿や、理想の女性のイメージを綴ります。
生きる力のヒントになれば幸いです。

欲しいのに手に入らないものを追いかけて~無私で与える黄金の掟

2019-06-24 21:21:02 | 癒される私の姿

だれだって、愛されたい、と思う。
しかも、自分にわかりやすい形で、愛されたい、と願う。

そのためには、どのようにしてもらうことが
自分にとっての「愛されている」感じであるのかを
ちゃんと相手に伝えなくちゃいけない

だって、自分とあの人は、まったく世界観が違う
別個体なのだもの。

だけど、私はものすごく遠慮しちゃうのだ。
悪いよね。
おしつけがましいって嫌われちゃう。
とか、
そもそも私のことが、ちっとも好きじゃないんでしょ?
とか。

自分でもあきれるほど、いったいどこから
こんな悲観的な弱音がわきあがるのか
そらおそろしい。

ある後輩に昔言われたけどさ。
「自分から行けばいいのに」って。
う~ん。うなったよね。
いや、そんなことしてますけど
それだけでどうにかなるような
因果の私だったら、とっくにどうにかなってますよ、って。

怖いんだよね。
自信がないんだよね。
だって私はいつも男性に傷つけられてきたから。
私がバカで、自分のことがよくわからなかったせいで
私のことを本当に好きじゃないひとの口先にのって
関わってきたことが間違いだっただけなんだけどね。

まさか自分が、ふたごころある男性の気を引きやすい
根っこを持っているとは知らなかったのだもの。

自分で自分にショックで
因果をうらんでみたけど
それが自分に与えられたものだから
どうにもしようがない。
ますます自分で自分を否定するだけだから
それはあきらめて
自分を傷つけない生き方、
自分で自分の身を守る生き方を模索したわけです。

眠り姫が触れた針先の毒で
ショック寝に入ってしまったようなもの。

いばらの道をかきわけて、
本気で求めてくれるひととしか
関わらないぜ!
と決めてますけど
それもどうなん?
そんな突然変異的な関係は自然の法則とも違う気がする。
ひととひとの絆は、ちょっとずつかかわりあうなかで育てるものだからであり
そう簡単に、大事なことを決められるものでもない。

「恋に落ちる」という言葉があって
そりゃ不可抗力的にのめりこむ現象もあるけど
それだって関係をていねいに紡いでいく作業をおこたれば
ただの雷が落ちただけの現象で終わってしまう。

そこで学習したことは
(私は仕事にしてるぐらい、
自然の因果の摩訶不思議のタネの問題を研究してきた)

この手合いのそうとうに筋金入りの
「手に入らないもの」は
もう、自分から進んで望んじゃダメだ!って。

望んでるときは手に入らない。

異性や愛情に限らず、
お金や仕事や信頼や、あれやこれや。

「無私」のこころで
「与えつくす」とき
そのひとだけの答えが見えてくるものなんだよね。
それも頭でお利口さんにではなくて
ハラからの心でね。


あるクライアントさんが
妊活なさっていて
最初は、旦那様に
「あれしてほしい、これしてほしい」と
悲しんでいたんですが
ていねいに私が不満を受け止めさせていただきながら、
それらのひとつひとつをたいせつに慈しんでいったら

1年したとき「だんなさんが欲しいものを与えたい」という
こころが育っていらっしゃったんですよね。

あ、きた!
いける!
その瞬間のエネルギーの動きって
ものすごくキラキラとしていて綺麗なんです。

そういう瞬間がくるまで
ひとに(特に大切な人には効果的)
与えることを惜しみなくできるようになると

「奇跡」って起こるんですよね。

私も頑張っているところデス♥
今日も私に勇気という名の愛をチャージ

最後まで御覧いただきどうもありがとうございます<m(__)m>

*写真は、絵にかいたお餅のように……そう、ちょうど、このラブリーなスイーツブックのように、理想を夢見ているだけでは、現実は手に入らないよ!の想いを込めて♥ 行動も大事だけど、行動力にギアをいれる、ハラからのチカラを磨かないとね(^_-)-☆


何もかもが嫌になる日

2019-06-23 22:39:41 | 嫌いな自分よ、こんにちは
ときどき、何もかもが
うまく回っていないように感じられて
しかたがなくなることがある。

実際にうまく回っていないところに
目が行きすぎてしまうときだとは思う。
自分の過去の失敗ばかりが目立って
感じやすくなっているせいも大きい。

ほんと、だめだわ、自分。
クズなんじゃね?

すべてを投げ出して
背中をまるめてダンゴムシのように
生きることができたら
楽なのに、と切望することがある。

私、疲れてるのかな?
ちょっと、横になったら?

頭でそう理解して
実際に横になったりもする。

それでも、自己悲観的な視点が消えない。
現実がなにもかも黄金色に思い通りになっていたら
そうはならないのに!?

そりゃまあそれはそうなんだけど
それは「生きる」っていうのとはちょっと違うんだね。

「生きる」っていうのは
登山のようなもので
えっちらおっちら、ぜーはー。
乗り越えるから、獲得ができる、清々しさだ。

キツイなーと感じるときに
私は、非常事態を想像するようにしている。

戦争中の日本人だったらどうサバイブしてるかね?
戦後のドタバタの日本人だったら、どう日々を過ごしたかね?
自然災害に出先で直面化して、裸一貫だったら、
どんな根性をきかせるかね?

地味にホフク前進するのだ。
泥団子のようにコロコロ転がれたら、まだいいのにね😁 

人生には、時の運の影響がかなり大きいところがあり
イマイチだね、と感じるときは、きっとそれが関係している。
どうにかこうにか、妙な運勢が過ぎてくれるのを
ひたすら待つしかない。
もくもくとできることに注力をして。
雨宿りのように。

ひとつ有難いことがあるとすれば
こうやって書きだすと
冷静に自分を見つめられて
「まあ、進むしかないね」という気持ちになって
ふたたびもくもくと集中力がでてくることですかね。

もしかすると、自分が思うほどにではなくても
それなりにけっこう運がいいからそうなるのかも、と
自分で慰めるようにはしている。
(実際には、両親よりも運の格が低い)

感謝、感謝。

今日も最後まで御覧いただき
どうもありがとうございます✨

*写真は、虎ノ門駅交差点でビルを照らす、雲間からの日の光

無欲でいたいのに期待が私を苦しめる時に

2019-06-20 23:14:34 | 嫌いな自分よ、こんにちは
無欲でいたい。

「人生で何が自分を苦しめることになるか」と問えば
結局は、私の欲でしかない、という結論デス。

とはいえ、しょせん
私が抱いているかもしれない欲とは
それほど大きいとも
自分では思わないのですけどね。

大望に苦しむというよりも

日々のささいなことに「えー!?」と
いちいちなるのに疲れマス。

なぜなるか?と点検するに

「こうなるといいな」という
自分勝手な期待と欲

ムズムズとうずいているからです。

ひそかに…じつは…
奇妙な犯罪者とか、
浮き沈みの激しい有名人などの
運勢や運命を調べることが
実益もかねた趣味なのですが

その方たちを拝見していても
やっぱり、同じことが浮かび上がってきます。

「みんな、どんなひとも
どうしようもない渦、
どうにもあらがうことのできない
タオの流れのなかで

ヒーヒー、もだえさせられながら

欲をそぎ落とせるのか、あるいは
さらに、欲を肥やしていくのかの

試練でしかないね」

と。

それに負ければ、
運命のいたずらによって
とても大きなトラブルに
呑まれていったりもするのだなぁ、と。

最強はやはり「受け身」の姿勢ではないでしょうか。

柔術や合気道を思い出すようにしています。

ただ欲を、否定するつもりはありません。

大切な「生命のほとばしり」だから、です。

それはそれで深呼吸をして
「ああ、私、生きているんだなあ」
味わうようにしています。

カウンセリングの現場は
そんなあふれだしてきて
しんどくなった
「欲」をごっそり、いっさいがっさい
はきだしていただく現場であることが
ラブリーなポイント♥

欲、\(^o^)/バンザイだよ。

苦しくなりすぎないためには
私がこうやってブログで整理しているみたいに
とにかくアウトプットしないことにはね。

書いてもうまくまとまらなくて
「やっぱり苦しい―」というときは
カウンセリングがおススメよ☆
いっさいがっさいまるっと
受け止めてもらえるって、気持ちいいからです。
ひとりでは気づけなかった
ラブリーな自分をいっぱい発見できることも
ハッピーのみなもとです♥

書き出したら、元気になった!

私の欲って、
本質は「ひたすら自己を表現したい」という
情熱(パッション)にすぎないのかもな、と気づきました!✨✨

気づきを今日もひとつ。幸せだにゃ。

そういえばあるクライアントの方が
ブログの副題を「日々現状打開」としていたのが印象的でしたが。
その方は、毎日成長できていることが幸せのタネなんですって。

私も似ていて
「毎日、新しい私に出会えて、気づきをえることができていること」が
エルメスのバッグなみにラグジュアリーで
なめらかな気分になっちゃうのでした♥

みなさんは、何が「目に見えない」幸せのタネですか?

今日も最後まで御覧いただきありがとうございます。
みなさまのご多幸をこころより願っています。

今日はこのへんで、おやすみなさい☾😊 


ひとり娘はつらいよ?!

2019-06-16 22:39:59 | 両親との関係
年をとればとるほど、大きくなる。
「両親がいなくなる日も近い」ことの自覚。

当たり前といえば当たり前ですが
私には自分の家庭がなく
個人で仕事をしていることも手伝い
所属意識は、両親+自分、というのが
ぬぐえません。

いつかふたりがいなくなったとき
私はだいじょうぶだろうか?
こころから不安にならないわけではない。

イギリスの超セレブデザイナーの
故・アレキサンダー・マックィーン氏は
お母様がお亡くなりになられたら自殺されていたし。。。

年々年寄り感がアップする両親
年々中年感が隠せない私

子供のときから、こういう日がくることはわかっていて
「いやだなー」とずっと思っていた。

子供というものは不思議で
永遠に幼児のままの自分の姿と
不変のようにいつまでも中年の両親の姿の
イメージが、実際の3人の関係性に
オーバーラップして見えている。

時間はそんなことはおかまいなしに
刻々と風のように流れ進む。

私のイメージの世界は
「残酷だわ!リアルって」
と嘆きたくなる。
一方、年月を経て
精神的に練れてきた私もどこかにいる。

「自然はよくできているものだから
両親がいなくなったときには
どうにかやっていくことができるだけの
何かが私には備わっているはず」

という確信が
本能レベルで感じられる。

それは今以上の心の強さや感謝の気持ちかもしれないし
あるいは経済力かもしれないし
それとも自己を中心としたグループの存在かもしれない。

よくある話では
そのタイミングで別の人間が現れる、ということもある。

だから、未来を悲観的にとらえすぎて
憂いているだけなのは、嫌だーーー。

今日は父の日。
仕事が終わってから
新宿の小田急デパートにある某レストランで
3人みずいらずで会食をした。
写真はその時のお食事。

「こうして3人で食事をとれるのは有難いわね」
という母。
仕事の目標について話す私に対して
「お前も頑張っているからな」
と嬉しそうに耳を傾けてくれる父。

10年前は葛藤関係しかなかった3人が
よくここまでまとまったと、感慨深い。
ひとりひとりが、長い時間をかけて
目の前に起きていることや
自分自身について、
自分とは異なる相手の立場を理解する努力と
話し合いの場を何度ももうけながら
ぶつかりあいつつ、相手を知るための取り組みから
逃げなかったからと
私は思っているし、
おそらく両親もそう思っている。

12年前に心理カウンセラーとしてスタートしたときから
「家族の問題をどのようにして癒すのか?」
ということは、大きな関心事だった。

クライアントのケースのためにも
「ぜがひにでも自分はこの問題としっかり闘って克服するのだ!」と
目を皿のようにして、その過程を見つめてきている。

今はぜんぶに感謝しかない。
過去の葛藤関係もふくめて。

だからこそ、両親には
長生きしてもらいたいと
心からただただ願う。

時の運がどのようにやってくるかを知っている身としては
怪しい年が、候補としていくつか挙がってはいる。

それでも、いちばんの対処法としては
エネルギーの燃焼度をなるべく小さく抑える
「無理しない淡々と決まった生き方」がいいという見解を選んでおり

どうやってそのハイライトゾーンを乗り越えるかを
そのつど模索しながら進むつもりですが

あとは「先祖供養」とか
古典的方法の助けも借りるのがいいよね~と、
天を仰ぎ見るのでありました。

そして戻ってくる結論は

「今ここにある有難さに
ひたすら感謝することが
もっとも辛さから自由になって
幸福でいられる」

となります。

私はひとり娘だから
親子関係のありがたさを感じれば感じるほど
いつかいなくなる日を思うと辛いのですが

実は兄弟姉妹がいても
結局、その気持ちと向き合うのは「個人」の問題だから
どこかは一緒といえなくもないですよね。

共感しあえる相手がいるのは
少し気持ちが楽になるかもしれないけど
親の姿の真実は
その個人の主観にしかないからです。

20代から30代にかけて
あんなに
「私は両親に愛されてないわ。愛している、
大事に思っているといってもさっぱり頓珍漢すぎる」
と絶望した日は
「なんだったの!?」と不思議に感じるほど
自分が今、両親からとても大切にされていることを
感じられて、

中国人のクライアントの方が教えてくださった
ことわざが思い浮かびます。

「30年河東、30年河西」
三十年前は風水で河の東側がよかったのが
三十年後には河の西側がよくなる。

人生は流転しつづける。
明日の日はまったくわかりませんね。
よくも、わるくも。

だから、やっぱり「今ここ」がいちばん♥

今日も最後まで御覧いただき
どうもありがとうございます<(_ _)>


目の前にある幸せでうるおう

2019-06-15 23:04:16 | 癒される私の姿
携帯電話のカメラで風景をとるのが好きな人がたくさんいるけど
私もそのひとりのほうに入ると思う。
それほど積極的にとるわけではないのだけど
心の琴線に引っかかった時にパシャリと残すようにしている。

その一瞬を「いいな」と感じることのできる
自分自身に喜びを覚える。

さりげなく
なにげない
日常の一瞬を
美しいと
感じることのできる心。

お金では買うことのできない
貴重な人生の贈りものだと思う。

私のクライアントの方は
自分でものを創る方が多く
いつも敬服する気持ちで
お話をうかがっている。

今ここにはまだない
心の豊かさを
コツコツ時間を紡いで
実際に目に見える形にする喜び。
ラグジュアリーな時の宝石箱に
お住まいであるように
その方が、私にはうつるのだ。

私も、ものをつくるのは好きなほうだけど
どちらかというと「目に見えないもの」を追いかけるほうに
意識が傾くため、現実的な作業に対する根気が乏しい。

サイトをつくる、ブログをつくる、といったって
その内容が精神的な目に見えないことだから
長続きしているだけ。
編み物するとか子供のお弁当を可愛く作るとか、
アクセサリーをつくるとか、
そういう手先の器用な感じになるには
まだまだ修行がいりそうです。

そのわりにはオシャレとかカワイイものが好きだから
私のことを「物質主義では?」と思われる方もいるかもしれないけど

単に、自分の心のなかにあるキラキラ輝くものを
自分では作ることができないから、
「お買い求め遊ばせ♥」してしまうだけなのでした。

▼こんな風にラブリーなものを見つけるとトキメイテしまう。


私は、自分で自分のことを好きになるのに
かなり時間がかかりました。

「自分で自分のことが好きだという
実感を確かめるリトマス紙は何?」

と問われれば、

「自分で自分の文章が好きだと思えるかどうか」
とか
「自分で自分のとる写真が悪くないねと感じるかどうか」

と、私は答えます。

35歳のときに、やんごとなく
カウンセリングサロンのサイトを立ち上げたのはよかったけど
トラウマの数々のせいもあって
とにかく文章が気に入ったように書けないし
アップデートする写真も自分で気に入らないし
スイッチバックし続けながら前進しなければならない
自分の心の状態にほとほと苦労しました。

「ライターさんだったのに?」と質問されることもあるけど
他人の言葉を書くのは簡単なのです。

自分の中から言葉を見つける、というのは
生まれつき特殊な才能があるわけではないので

「自己愛」がモロモロに壊れていた人間にとっては
至難の業です。
自分の感性がまったく信用できない世界にいるからです。
(そんなんじゃ言葉を形にするなんて、不可能すぎます)

本当に「心の訓練」あるのみでした。

「自分の深みから湧き上がる真心の声」を信頼して
それをひとつずつ紡ぎあげる努力を
何年も重ねたおかげです。

ずっと「自己否定感」の塊だったから
「自分の世界観を全肯定できるようになるまで」

それはとても奇妙でエキサイティングな
まるで『アリスの不思議な物語』のような
心の旅を、くりかえしました。

45歳をすぎて一介の相談員として細々生活を繰り返し
名誉名声もなければ、支えてくれるパートナーもなく
自分の子孫も家庭もない。資産もなければ財産もない。
ない、ない、づくしなんだけど。

「自分の人間としての醜さや愚かさ」もひっくるめて
愛することしましたので
謙虚に自分が好きになりました。

「自己肯定感」は
今や、ご近所の虎ノ門ヒルズに負けないぐらい?!
天高く燃ゆる秋の空も、くやしがるぐらい?!
育ちました。

西行法師や
良寛様のような
老年の姿が
高校生のころから憧れでしたので😙 

お金がもっとたくさんあったら
「高級マンションをお買い物したいな」など
俗人的な夢もあるけど
無理してまでは欲しいものでもないという

心のゆとりを楽しんで生きるのが
私は本当に大好き♥

手まりする私の周りで
一緒に楽しんでくださる方が
いくばくばかりか
おこしくださったら
それ以上に、ありがたいこともないと
喜びをいっそうかみしめます。

今度はそれは
「こころとこころの通い合い」
でもあり、これまたお金ではかえないもの。

こう考えてみると
この世はなんてたくさん
お金ではかえない
素敵なものにあふれているのでしょうか。

ともいえなくない。

日々目に飛び込んでくる
悲しいニュースも
人間のいち真実で

自分もいつそのような
運命をたどるかもわからないからこそ

日々、目の前にある等身大の
「あるもの」への感謝の気持ちを
深めて生きたいな、と

ますます思いを深めた
アジサイの咲くころなのでした。

最後まで御覧いただき
どうもありがとうございます😊